第7話 - あの日の大事件

「はいよ、旦那。えらい注文をしてくれたもんだ。骨が折れたよ……」


 薄暗く、狭い部屋の中。幕が降ろされた受付の向こうで、かすれた老人の声がした。

 そして、その幕の下から、一冊の本がするりと出される。

 分厚く、黒い装丁のその本は、禍々しい瘴気を放っているようであった。


 それを受け取り、素早く懐に入れたのは、襤褸衣を纏う一人の客であった。

 その客は、老人に例を言うこともなく、無感情に金貨の入った小袋を受付に置くと、さっと踵を返し、薄暗い部屋から出て行く。

 出口は階段に直結しており、暗い階段を、かつんかつんと足音を鳴らしながら上がっていく。

 そして、階段を上がった先は――街の寂れた、本屋に直結していた。

 人気のない、退屈な専門書の棚の間の壁に付けられた粗末な扉を開け、襤褸衣の少年は出てきた。

 彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、フードを取る。


 少年……レウは、ふう、と息を吐き、懐にしまった黒い本の輪郭を撫でた。

 まるで、宝物を愛でるかのように。


 がらんとした本棚の中を、足早に抜け、出口から外の通りに出た。

 寂れた本屋を振り返ることなく、そのままいそいそと、通りの向こうへ行こうと足を踏み出す。そんなところで。


 逆方向から駆けてくる何者かに、思い切りぶつかった。


「きゃ!」

「いてっ……!」


 衝突の衝撃で、両者が持っていた荷物が道にばら撒かれる。

 水袋、小銭入れ、携帯食料品……黒い装丁の本が、二冊。


「お嬢様! 大丈夫ですか!?」

「す、すみません!」


 向こうから、慌てた様子で幾人かの者たちが駆け寄ってくる。

 そして、レウとぶつかったのはどうやら少女であるらしく、目深に被った外套から端正な顔立ちと白髪が、目についた。

 

 レウは少女の謝罪に返事をすることもなく、道に落ちた本をすぐに手に取った。

 少女も、道に散らばった小物と本を手早く拾い上げ、すくりと立ち上がる。

 少女に追いついた者たち……男や、女や、老人が、険しい表情で彼女の肩に手を置いた。


「さあ、ここでの目的は果たしましたでしょう。嗅ぎ付けられてるかもしれません。早くここから退散しましょう」


 老人の言葉に、少女は頷き、レウなどもう見向きもせずに、向こうへと走り去った。


 レウは、ただただ、ぼう、とその様子を見ているだけである。

 面倒事の匂いがしているが、そんな荒事、ギルドが幅を利かせてから、日常茶飯事である。

 彼は衣服についた砂を払い、黒い本を再び懐にしまって、ふらふらと歩き出すのであった。



 そうして彼は、己の家に戻ってきた。

 家といっても、酷くボロい、安宿である。

 下町の更に下町の、治安がいいとは言い難い地帯の中にある、狭く汚い四角い箱が、彼の寝床である。

 足早に部屋に入った彼は、懐から黒い本を取り出した。

 その手は、ぶるぶると震えている。


「ようやく……手に入れたぞ……」


 いつになく、少年の声は上擦っていた。

 興奮で上気した頬は火照っており、ごくりと生唾を飲み込む。


「伝説のグラビアアイドル、ミウにゃの絶版過激ヌード本……! 幻の印刷屋ドッグ・テールが施した魔法の六色刷りは、現実と見紛うばかりの裸体を紙刻み付けた……!」


 ものすごく俗なことを呟いた。彼は一人で笑いながら、震える手を本に伸ばす。


「この日のために、僕ァ、くそほどつまらない薬草採りなんかをせっせとやってたんだ。へへ、全てを賭けたぜ……! この時間、誰にも邪魔なんかさせるもんかァ……」


 そして彼は意を決し、分厚い装丁に手を掛け、えいやと本を開いた。


 その中身は、意外や意外、びっしりと読めない文字で埋め尽くされていた。

 肩透かしを食らわされたレウは、思わず首を傾げる。


 と、その時、その意味不明な文字群が突如青白く光り、独りでにページが捲れ始めた。


「は、え、な、なに?」


 レウの口からは、そんな呆けた言葉しか出てこない。彼はその得体の知れない本を手放すが、本は空中に浮き、風を巻き起こしながら、パラパラと凄まじい速度でページが捲れていく。

 そして、レウの脳内に、謎の言葉が響いた。


『やっほー! はろはろ! うーん長かったぁ! よーやく、契約者、見つけたよーん! うふふっ!』


 少年は素早く周囲を見回す。が、室内には誰もいない。謎の声だけが脳内に響いている。本が捲れる。青白く発行している。本を中心とした風がどんどん勢いを増している。


『ほんじゃ、契約といこうか! えーと、あたしが得意なのはぁ、欲望を力に変換することなんだけどぉ……きゃっ! レウちゃんったら! 一人でするのがそんなに好きなのね! いやーん、こんなの見たことなぁい! うふふ、じゃあ、これ、使っちゃおっか!』


 謎の声が聞こえる。本から始める怪奇現象は止まらない。レウは困惑することで精一杯で、なにもアクションを起こせない。

 そして何もかもが手遅れになった。


『それじゃあ契約遂行! 条件はぁ、これまでの自慰の時間を、修行の時間に変換、ってことで! まあ、っぽいしね? レウちゃん、世界最強になれるよ、よかったねえ! えらいえらい! うふふふ!』


 そして青白い光が一層輝きを増し、室内が光の奔流で埋め尽くされた――。



 恐る恐る、レウが目を開くと、目の前には、小悪魔が浮かんでいた。

 文字通りの小悪魔である。手のひらもないほどのサイズの、黒い衣装に尻尾が生えた、愛らしい小悪魔は、レウを見て、くすくすと笑った。


『はい! 契約かんりょ~! あなたは力を手に入れた。代わりに、これまでの、ひとりできもちいい時間を、もらいました! ね、力、溢れてくるでしょ? その力でなにをしてくれるのかなぁ、あたしら魔導書グリモワールに、楽しい活躍、見せて頂戴ね?』


 その小悪魔を手で掴もうとする。が、掴めない。小悪魔がいるはずの空間は、完全なる虚空であった。

 その様子を見て、彼女はくすくすと笑う。


『あははっ! むだだよ~? あたしはあなたの、言わば脳内に住み着く呪い、だから。この姿はあくまでイメージ、ということになるね。勿論、他の誰にも見れない、あなただけの小悪魔。リーリスちゃんです』


 リーリス、と名乗るその悪魔は、晴れやかな笑顔で拍手をした。

 そして少年は、混乱する頭が、次第に己の状況を察知し始めたことに気付く。

 これまでに無く、かつてないほどの力が、肉体の奥底から湧き上がってくるのだ。

 何故……と考えて、リーリスの台詞を思い出した。


 ――これまでの自慰の時間を、修行の時間に変換


「おい、お前、どういうことだ! それは、つまり、おい!」

『きゃは! 気付いた? そうだよ~? あたしは、強制契約型の魔導書。この本を開いた時点で、あなたに拒否の権利はありませ~ん! 何かを犠牲にして、何かを得る、そういう契約をしてもらいました。一番大事なものをもらうのが通例なんだけどね。あなたの場合、それが自慰だったらしいね。うふふっ! これまでも、これからも、自慰の時間をもらうから、どんどん強くなれるよ!』

「これまでも……これからも……!?」


 レウは慌てて、部屋の棚に入っている、使い古したグラビア本を手に取った。

 そして、いつもの如くアソコを握り、一人楽しい時間に耽ろうとする。が。何も起こらない。

 感覚としては、これからやろうとしていることが、ことごとく中止となり、行動が巻き戻っているかのようであった。


 そして信じがたいごとに、体の奥から湧き上がる力が、どんどん増しているのを感じ取る。

 言葉に整理するとこうだ。

 自慰という行為を奪い取られ、代わりとして修業という成果に置き換えられているのだ。

 小悪魔が、実に可笑しそうに笑った。


『あはははははっ! そういうこと~! はなまる! 修行の成果はねぇ、犠牲となるものの、集中力と時間によって質が変わってくるから、いいオカズを手に入れれば、もっとも~っと強くなれるよ』

「ふざけるな!」


 レウは叫んだ。誰もいない、静かな部屋で。

 リーリスは、うっとうしそうに、耳を抑えるジェスチャーをしている。


「今すぐ、戻せ! 僕ァ、そんな契約しないぞ! いいか、特に希望もないこの世界で、僕が唯一趣味と言えるのはそれだけなんだよ! 生きる希望なんだ! それを、勝手に取り上げて、強くなった、だぁ? 何にも嬉しくない! お前が喜ぶようなことはない、おい! 今すぐ、戻せ!」


 良いことを言っているようで、その内容は泣きたくなるほど切実である。

 ひとりきもちいい時間を奪われた少年は、人生で最も必死であった。

 リーリスは面倒くさそうに、答える。


『だからぁ、無理なんだってば。強制契約型って、そういうことだし。よっぽどじゃないと解呪できませ~ん。文句なんか言わないでよ。悪いのは、

「あなたと……あの子……?」


 そしてレウは数瞬考え、可能性に行き当たった。

 

 つまり、あの裏ルート専用の隠し本屋から出た後の、通りでぶつかったあの白髪の少女。

 あいつが持っていたのが、この呪いの書で。荷物を拾うときに、取り違えたのだ。


「……あ、の、や、ろ、う」


 見たことのないほどの形相で、彼は立ち上がり、部屋の隅で誇りを被っていた長剣を腰に下げた。

 そして彼は旅立つことを決意する。


 どんな手段を取ってでも、あの女に謝罪をさせる。

 そして、奪われたエロ本を取り戻すために――。

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