11 オリーブと秘密を知った女

 少し早く家を出た孝太郎は自分の務めるホストクラブに行く前に、通りを外れてゲイタウンである新宿2丁目の方に足を運んだ。少し表通りから外れただけで男同士のカップルが普通に手をつないで歩いていたりテラス席で顔を寄せて酒を飲んでいたりして、孝太郎はホッとした。“同類”の男たちが市民権も人権も得ているのを見ると孝太郎は息のしやすさを感じる。そのまま孝太郎はフラッと馴染みのゲイバーに行った。GREEN《グリーン》という店だ。雑居ビルの2階にあるその店は夜の店にしては店内の照明が明るく、ダーツなども置いてあり女性客も歓迎なライトな雰囲気で孝太郎は気に入っていた。カウンターの中にいた40代くらいの髭の似合う男が孝太郎に気づき、こーちゃん、と声をかける。孝太郎は手を上げて挨拶した。


「こんばんは、ママ。ちょっと仕事前に来ました」

「随分ご無沙汰だったわね。彼氏でもできた?」

「いないですよ。できたことないの知ってるでしょ」


 孝太郎も春と同じく年齢=恋人いない暦だ。ゲイを自覚するのが早かったので女性と付き合うこともなかったし、相手が男性でもロマンチストな気質ゆえに好きになった人以外と付き合おうと思わなかったからだ。ママは、何飲む? と優しく聞いた。ママはいつも孝太郎を否定したりあれこれアドバイスをしようとしない。適当に彼氏を作れとか、まず誰かと付き合ってみろ、などと言わないママのこういうところが孝太郎は気に入っていた。孝太郎はカウンター席の真ん中に座って言った。


「仕事前だし、炭酸にライム絞ったやつで」

「はいはーい」


 孝太郎がそう注文するとライムを絞った炭酸水と、おつまみとしてオリーブが出された。オリーブを齧りながら孝太郎はカウンター席からぼうっと店内を眺める。ここは女性客もNGではないので、LGBTフレンドリーな女性もお客さんとして来る。そういった女性も孝太郎がゲイであるとわかると声をかけてこないので普通のバーに行くよりよっぽど楽だった。職場でもゲイを公表しているので、店絡みのお客さんに会っても困ることはない。今日も女性客が1人だけいるようだった。どうやら隣りにいるゲイらしい男性の友人のようだ。ぼうっとそちらを見ていたら、その女性と目があった。彼女が、あ、という顔をしたとき孝太郎は血の気が引いた。その女性は先日春と一緒に喫茶店にいた編集の女性、円谷円香だったからだ。今日は完全プライベートのようで、先日のような地味な格好ではなく新宿の夜の街でも馴染むような華やかな服装をしているが間違いなく彼女だ。向こうも孝太郎に気づいたようで、会釈された。孝太郎は会釈を返してから、逡巡した。彼女がどんな性格かわからなかったからだ。普通、このような場所で知人に会っても吹聴しないのがマナーだ。何故なら性指向を隠している場合それはアウティングと言って勝手に他人の性指向をカミングアウトすることになるからだ。もし孝太郎が複数人で来ていたのならばゲイじゃないと言い張れるかもしれないが、カウンターで1人でいたのだからそれは苦しい言い訳だろう。孝太郎は迷った挙げ句、円香に声を掛けに行った。


「あの……こんばんは」


 孝太郎が声を掛けると円香は、こんばんは、と返したが明らかに動揺が見て取れた。その反応を見て孝太郎は、自分と仲の良い春のこともゲイだと誤解させてしまったのでは、と危惧した。


「少し話せますか?」


 孝太郎がそう言うと円香の連れの男は気を利かせて席を外してくれた。孝太郎が円香の向かいの席に座る。孝太郎はまずは自己紹介をした。


「守屋孝太郎です。あの……鈴木さんの隣人の」

「ッあ……円谷円香です。鈴木先生の担当編集をしております。今名刺持っておらずすみません」

「いえ、プライベートな時間にお声掛けしてすみません。早速あの、本題なんですけど……鈴木さんにはここでおれと会ったことを言わないで頂きたくて……」


 円香は、もちろんです、と深く頷く。それと春がゲイでないということを言っておかなくては、とさらに孝太郎は続けた。


「鈴木さんは……おれがゲイだってことを知りません。彼は完全に異性愛者なので」

「なるほど、承知しました」

「彼が今描いているBL作品に関して、彼に今後も何か相談されれば助言しようと決めていますが自分自身がゲイであることを彼に打ち明ける気はありません。ですのでその……どうかくれぐれも内密にお願いします」


 円香は、もちろんです、と頷いてくれた。そして深々と頭を孝太郎に下げた。


「執筆へのご助力、担当編集として大変感謝いたします。先日連載用の1話を送っていただいたのですが改訂されさらに素晴らしい仕上がりになっておりました」

「そうですか」


 嬉しくてつい孝太郎が笑顔を見せると、円香も微笑んだ。


「鈴木先生は元々画力の高い方でしたが守屋さんと友人付き合いするようになってから、描くキャラクターに深みが増した気がします。ご友人といい関係を築かれているのだなぁと思っておりました。絶対に他言しませんので、今後ともよろしくお願いいたします」

「よろしくお願いします。では」


 そう挨拶を交わし、孝太郎はそのままお会計をして店を後にした。円香が1人になると、連れの男が戻ってきて円香に言った。


「ちょっと今のイケメン誰なの!? やばいんだけど!」

「仕事関係の方よ」


 紹介して、と言われたが円香は突っぱねた。


「まともに話したのはさっきが初めてなの。紹介なんてできないって! てか……ゲイってわかってても顔が良すぎて緊張した……なんかいい匂いしたし」


 ずるーい、と彼は円香の肩を軽くパンチしてみせた。円香はテーブルの上のチョコの包み紙を開けて、頬張った。甘いミルクチョコが口の中に広がる。円香はさっきのやり取りを思い返してふと思った。


「先生、本当に異性愛者なのかしら」


 孝太郎は春の事を完全な異性愛者だと言っていたが、円香にはそうは見えなかった。それはBL作品を手掛けているからなどという安直な理由ではなく、先日1話を受け取った時に春と電話で交わした会話が理由だった。


《手を繋ぐシーン、さらに、さらによくなってます!》

《はは……よかった。その……円谷さんのアドバイス通り隣人に協力して頂きまして、確かに経験してみてよかったです》

《かなりリアリティ増してますね! さすがです》

《もう、すごく緊張しました……なかなか言い出せず変なことも口走っちゃうし……手汗も気になったし……》


 そこまでは気にならなかったが、その後で春は意味深なことを言っていたのだ。


《心臓もぎゅーっとして頭がフワフワして……あぁ、これは経験してみなければわからない心情だなと思いました》


 円香は内心、ん、と思っていたが、なるほど、と相槌を打つだけに留めていた。人付き合いが苦手な先生なので手を繋ぐのが緊張するということまでは理解できたがその後の心臓がギュッとして頭がフワフワするというのは、ただの友人と手を繋いだだけで沸き起こる感情なのかしら、と軽く疑問を抱いていた。しかしあえてそこをつつく必要性など全くない。円香はそのまま電話を切ったのだった。


「まぁいいか」


 そう呟いて円香は頭の中から仕事を追いやって、プライベートに切り替えた。そのあたりは他人が気にするだけ野暮というものだ。円香にとって最重要事項はいい原稿が上がってくるということで、それ以外は些事だった。






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