第12話 疾走

その日、乱雲が空を覆い隠し、夜の帳が下りる。鬼雨が闇夜の森を駆ける影に、激しく叩きつけた。雷の閃光が走るたびに、逆光による怪しげな人影が森に浮かび上がる。ザアザアと降りしきる嵐の中、その影は、不気味に笑う木々に覆われた小径(こみち)を、駆け抜けていた。

「ハァハァハァ……。ハァ……ハァ……」

激しい息遣いと共に、周囲に警戒の視線を投げかけて、サッと張り詰めた空気感がみなぎる。雨に打たれて首を垂れる枯草がまるで亡霊が取り憑くかのように、その男の足にまとわりついていた。

その男に追手が迫っていた。いや、己の身の丈以上の使命を背負わされたことに恐怖を抱き、ありもしない二つの視線を感じていただけかもしれない。ただ、平凡な人生を淡々と歩んできたその男にとって、突如降りかかったこの重要な任は、荷が重すぎたようだ。

落雷が悪天候の空を引き裂いた刹那、轟音が襲いかかり、振動が身体を貫いた。がっしりとした風体のその男も肩を縮めて思わず声が漏れる。

「うわぁ、恐ろしや……天も怒り心頭じゃ」

その男は天の怒りに一瞬足を止めたが、辺りを見渡して再び駆け出すのだった。

生い茂る木々の梢が、雷雨と暴風で重なりあうたびに、ザァザァと音をたてた。それは背筋が凍るほどの不気味な気配を感じさせていた。そこかしこの木陰から、醜悪な殺意を込めて凝視する悪霊の視線を、背中に投げつけられているかのようだった。

背中に悪寒が走るその男は再び立ち止まり、凍りつく身体をどうにか振り向かせると笠の隙間から、恐怖と警戒の色を滲ませ、眼球をギョロッとさせて見渡した。

恐怖の虜となっていたせいで、もう何度も同じことを繰り返していた。

「明智の兵はこぬな。ふぅ、ここで捕まるわけにはいかぬからな」

男はあたりを警戒しながら声を殺して呟いた。

落雷と豪雨の中、たった一人で暗闇の森を彷徨うことが、より一層不安を掻き立てていた。人目を避けて、けもの怪ばかりを通る生活がはじまって何日立ったのか。まだそれほど経っていなかったかもしれないが、その男にとってはもう何日も走り続けてきたかのようだった。足取りは重く、疲労困憊ではあったが、使命感だけが支えとなっていた。

自分以外はこの暗闇の中に誰もいないことがわかると、羽織っていた使命感の衣を、脱ぎ捨て身を休めるのだった。

「ふぅ」

緊張感を吐き捨てるようにと息を吐く。

森林の中の孤独な存在、なぜか以前にこのようなことがあったような、懐かしい光景が頭をかすめる。その時、男の目の前にパッと一瞬故郷の森が広がった。そして再び暗闇の森に戻る。

————どこだったか? 懐かしい感じがする。

記憶の奥底にしまい込んだ情景の断片が重なり合いながら徐々に広がりはじめる。森林のどこからともなく童の笑い声が響きわたる。

————一体、いつの情景だろうか。


男は記憶の迷路の中で古代樹の森で彷徨っていた。そこは故郷に古くからあった寺院の境内で禁足の地となっており、樹齢数百年以上の巨樹の群生をみることができた。童だったその男は不入の地に出来心から侵入したことがあった。

怪しい霧に包まれ、幾重にも重なる太い根ががっしりと大地に張って、通常の数十倍はある極太の幹が空に伸びる。その幹から四方八方に伸びる枝に至るまでの樹皮には、深く渋い黄緑色の苔が、衣をまとっているかのように生えていた。

その巨樹たちの立ち姿は、小袖のうえに肩衣と袴で正装する威風堂々とした侍のように見えたのである。そんな木々の風景は圧巻で巨人の森に迷い込んだような錯覚を起こさせるのだった。

童はなんだか嬉しくなって顔がほころび、古代樹の森を駆け巡る。そんな珍客に古代樹たちは何も言わず、優しく見守るのだった。

「ハハハ……ハハハ……」

童の笑い声が、静寂と霧に包まれた古代樹の木々を、すり抜けるようにこだまする。それよりはるか遠くの彼方から別の声が届く

「もし、その童、そこで遊んどる童よ。ここは不入の地じゃ。はよ、出てこい」

その声は怒っている風でもなく、優しく童を諭すような愛情のこもった声色だった。童は巨木からの声かと勘違いし、ふと木々を見上げるのだった。

「おーい、童よ。どこ行ったのじゃ。おーい。童よ、かえっておいで……」

古代樹の森でたった一人の童の前に広がる神々しい森林風景に優しい声が降りそそいでいた。そんな幼い頃の記憶が眼の前に広がっていたのだった。


だが稲妻の轟音でハッと我にかえる。そうすると急に自身を取り巻く状況に愕然とするのだった。緊張の糸が切れて腰が砕け、その男は崩れ落ちるように草むらに身を沈めた。そして腰につけていた白い布に包んだ茶壷をそっと置いた。

男は恐れいていた。血も凍るような戦慄と恐怖の狭間に無理やり引きずり込まれた気分だった。

「信長様ぁ……。必ずや任を果たしてごらんに入れまする……」

男は自分に言い聞かせるように呟くのだった。本能寺での信長の最後の様子が男の脳裏に焼き付いていた。

男は信長の中間として仕えていた。それは武士でもなく、といって下人でもない。中間の存在だった。主に信長の雑務を担当し、戦闘員ではなかった。男は幼き頃より近くの寺院にて勉学に励み、読み書きもできた。それが信長の目に留まり、中間としてそば近くで働くことになった。ある意味一番近くから信長を見ていた。

そんな男の眼に写る信長は激昂し、家臣に乱暴を働くことはあったが、全ての事柄において理路整然としており、決して無法で気まま、横暴な独裁者のようではなかった。とりわけ、京の町衆の恐怖で目玉を剥いた比叡山延暦寺の焼き討ち。王城鎮護の延暦寺は朝廷を守護するとあって尊崇の象徴でもあったが実態は醜悪なものだった。僧兵を養い、本来の仏教の道から大きく乖離したものだったため、謀略無尽な振る舞いを許すまじと焼き討ちにしたと、その男は理解していた。そんな過激な面ばかりが目立つがその裏では、自分のような身分怪しき者にも声をかける気さくで気を許せる面を見せることもあった。そんなこともあり、信長のことを世間で噂されるような冷血な悪鬼、第六天魔王とはとても思えなかった。

男は豪雨に身を晒しながら草むらに座り込んで懐旧の旅に身を委ねていた。そして全てが懐かしく、また恐怖で震えていた日々が、今では愛おしく思えて自然に笑みがこぼれているのに気がついた。

しかし、その刹那、信長の非業の死の場景が脳裏を横切る。まさかこんな惨事になるとは……。男は哀憐の情にうちひしがれるのだった。震える両手で顔を覆うと倒れるようにひれ伏した。豪雨と雷が吹き荒れる闇の中ではあったが、その目からはポツポツと涙雨が垂り落ちていた。

その男は明智兵に追われる地獄から逃れた安心感と、常軌を逸した大任の重圧で混乱の極致にいたのだった。嵐の夜が男の気配を全てかき消していた。

そして再び衣を羽織って立ち上がり、白い布で包んだ茶壷を右腰に結びつけると駿河を目指して再び駆け出すのだった。

腰に付けた茶壺だが、その白い布に雨が染み込み、包んだ茶壷の胴の模様がボオッと浮き上がっていた。漏洩するその模様はまるで人間の顔に濡れた布を被せているかのような凹凸を呈していた。そして茶壷の底の部位の布がなぜか赤く染まり、血のようなものがポタポタと雨だれのように垂り落ちていた。

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