第3話 はゆる、漂意を語る③

 突然ですが、漂意がある種の性的快感を伴うことを告白しておかなければなりません。


 さっきから私は浮遊感であるとか、それこそ漂うという表現を用いてこの現象を説明しているけれど、漂意の瞬間に生じる精神の一瞬の緊張とその急激な弛緩の経験は、性的刺激により引き起こされると言われる絶頂に、ほんのわずかに近い感覚をもたらすのです。さらには漂意を解いて自分の身体に帰った時の虚脱感までもが、俗に言う性交後憂鬱をごく軽い程度に縮小させた感覚に思えてなりません。このことから私は、漂意というのは人類がその黎明期に普遍的に有していた能力なのではないか、当時の人類は肉体的な交わりのほか他者の身体に乗り移ることでも性欲を満たしていたのではないか、という仮説を立てました。


 などと知ったようなことを述べているけれど、なにを隠そう私には現在に至るまで異性とも同性とも性交渉の経験がありませんから、今のはすべて本やインターネットを通して得た貧弱な性の知識に基づく憶測にすぎません。


 ですから、私は楽しみで仕方がないのです。いつか処女を喪失した時、はたして私はどれほどの快感を味わうのでしょうか。思えば私にとっては漂意による快感とその後の虚脱感のほうが原体験となっているわけですから、実際のセックスにおける快感の程度を漂意の何十倍くらいというふうに具体的な比の値で捉えることが――


「ちょっちょっちょっちょっ! はゆるちゃん声デカいって!!」


 ふいに、私の大変ためになるお話が中断されてしまいました。見ると、私――というより私の身体は、急に大声を上げて立ち上がったために教室中の注目を一身に集めています。


『どうしたのです? 紅愛くれあちゃん』

「えっ? いやっ、その……」

『私の声は、あなたの脳内にしか届いていないのです。もちろん私が紅愛ちゃんの声で発話する場合は別だけれど』

「そ、そっか……よかった……」


辻野つじの、大丈夫か……?」黒板の前に立つ先生が、心配そうに言いました。


「わっ! ご、ごめんなさい! なんでも、ないです」


 紅愛ちゃんは慌てて顔の前で両手を振り、ゆっくりと椅子に腰を下ろしました。顔がかあっと熱くなるのがわかります。


「そういえば、和泉いずみは?」先生が首を傾げて、教室を見渡しました。紅愛ちゃんが私の名前を出したので、先生が気づいてしまったのです。


「あー……えーっと、」


 紅愛ちゃんは目を泳がせました。嫌な汗が脇の下にどっと滲んでいく感じがします。


 やむを得ません。私が代わりましょう。


「映ちゃんは体調不良で、五限の体育の直後に早退しました」


 紅愛ちゃんの声で、言いました。

 先生はしばらく地球外生命体でも見るような目を私こと紅愛ちゃんに向けていたけれど、やがて、


「そうかそうか。そこの空席は和泉か」


 本来の私の席を指して、うなずきました。


「すまないな。みんなと出会ってまだ一ヶ月弱だもんで、顔と名前も一致しないし、誰がいて誰がいないのかを把握できてないんだ。まあ、今ので辻野のことは確実に覚えたが」


 先生が言うと、教室に笑いの波が生じました。

 それから先生は授業に戻って、そこでようやく紅愛ちゃんは、みんなの視線から解放されました。あと数秒遅ければ紅愛ちゃんは四方八方からの視線の槍によって全身を串刺しにされていたことでしょう。紅愛ちゃんの身体が傷だらけになってしまうのは私にとっても大変困ることなので、ほっとしました。


「ふう……」紅愛ちゃんが額を拭って、小声で言いました。

「いきなり変なこと言わないでよ。びっくりしちゃったじゃん」

『変とはなんです。私はあなたのためを思って、自分の体質を逐一説明してあげたのに』

「だとしたら、最後のほうのくだりは必要なかったんじゃない?」

『確かに、性的な話題となると普段以上に饒舌になってしまうのは、私の持つ素敵な癖のひとつです』

「それは今すぐ直したほうがいいね……」


 さて、とにもかくにも私は現在、紅愛ちゃんの身体に漂意をしている最中なのです。


 高校に入学して一ヶ月ほど、紅愛ちゃんが今のところ私のいちばん仲よしのお友達です。私たちは二人で一人、ともに笑いともに泣き、一蓮托生いちれんたくしょう刎頸ふんけいの交わり――というのは確かに素敵な関係性でしょう。しかし、いくらなんでも一人の身体の中で共存とは、さすがに友情が歪んでいて不気味です。そのあたりの分別は私自身よくわきまえているつもりなので、早いところ自分の身体に帰りたいところですが、ここにひとつ、極めて重大な問題が立ちはだかっています。


 あろうことか、私の身体が行方ゆくえ知れずになってしまったのです。

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