第8話 最後の戦い

 私が立ち上がるためにずっと握っていたナイフを杖代わりにして、立ち上がったのを見て、ドルベルは駐車場の出口、シェルターの外に一心不乱に駆け出した。薇はいきなり走り出したドルベルに声をかけた。


「おーい、いきなりどうしたの?」


 ドルベルは走りながら答えた。ドルベルはもともと足が遅いので走りながらしゃべっても、途切れるまで屋内駐車場にこだました声は聞き取ることができた。


「どうしたもこうしたもないですよ、自己防衛ですよ!居住フロアには確かに僕を引き取ってくれたパパとママがいるし、感謝もしてるから、本当は一緒にいたいけど、僕は誰かに殺されるなんてまっぴらなんだ!…。


 シェルターの外に行けば、そいつは死ぬから追ってこないはずだから、僕はツチノコになって、人の死から救われるんだ!ここまでそいつを連れてきたんだから、絶対に、あのお方は僕を救ってくれるはずなんだ…絶対に殺されてたまるか…!」


 私は体の損傷を鑑みて安静にすることよりも、ドルベルを追いかけて殺すことの方が優先するべきだと考えた。痛みは尋常でなく、激しく動けばおそらく傷はひどくなりそうだったが、今走り出せば鈍足のドルベルに追いつくことは簡単だと思ったからだった。ジャックは私とドルベルを呼び止めたが、聞く耳などはなかった。


 予想通り、ドルベルは出口の近くですぐに見つけることができたが、棒のように突っ立ったままで、どこか様子がおかしかった。彼の姿は外からの逆光で、猫背の背中が真っ黒になって見えた。


 逆光で見えにくかったが、ドルベルは出口にぞろぞろと待ち構えていたツチノコと思われる集団と話していた。出口は屋内駐車場に向けて下り坂になっていたため、ずらりと並んだ無数のツチノコの異質さが見て取れた。ドルベルは私たちには一切見せなかった明るい表情を見せて懇願していた。


 この辺りから熱気が多くなってきていて命の危険を感じたため、あまり近づくことはできなかった。私がその様子を臆面もなくじっと見ていると、ドルベルと話していたツチノコが気づき、ドルベルも反応した。会話の相手は祖母で、逆光と帽子と三つ編みの影で顔がほとんど隠れていた。


「は、早く…!」


 祖母は落ち着いた態度で言った。


「そう急いては事を仕損じることになりますよ」


「そこにヤツがいるじゃないか…」


「彼にお別れを告げなくてよろしいの?これは決別になるのですよ…?」


 恐れからかドルベルは、脅迫するように祖母を言葉で攻め立てた。祖母は後ろに控えていた白いフード付きのローブをまとったツチノコに、紙袋を手渡した。白フードは紙袋の中から工具のようなものを取り出した。銃の先端に長いねじが装着されているように見えた。祖母はドルベルに手を出させて、その手を優しく包んだ。


「それは?」


「これをあなたの胸に突き刺せば、あなたはツチノコになれるのです」


 ドルベルが嬉しそうに頷いたのと同時に、白フードが工具の電源を入れた。ブーンと音を立てたそれは、祖母の号令とともにドルベルの心臓を一突きした。音が一瞬大きくなり、血が地面に飛び散った。


 白フードは工具をドルベルから引き抜くと、ドルベルは坂に倒れてそのまま転がった。優しい表情でこと切れており、再び動き出す様子はなかった。白フードが殺してしまったため、私はここまで戻ってきた理由はなくなった。


「大地の子に、大いなる母の加護があらんことを…」


 死体となったドルベルに、形ばかりのよくわからない祈りをささげていた祖母は、その場を離れようとする私を一瞬見た。周りにいたツチノコたちは、私に干渉することはなく、黙って死体を凝視していた。


 ドルベルは死んでいるように見えたが、祖母や他のツチノコたちのように命を得ることはなかった。すぐにはツチノコにならない可能性もあったが、祖母はただ単にドルベルを殺しただけのように思えた。いや、完全に殺しただけであった。


「かわいい私の孫よ…お行きなさい、我らが繁栄のために」


 私は祖母に言われなくてもこの場から離れるつもりであったが、祖母はいつの間にか私の背中に触れるほど近くまで寄ってきていた。生き物のように体表から放出される温かさはなかった。


 私は原点を確かめるために、懐から祖父の手帳を取り出して、ぱらぱらとめくってみた。ページを一枚ずつめくっていると、畳まれた紙が出てきて地面におちた。それはかつて祖父が生前に残したロンドン市民全員の殺害の依頼書であった。その存在はいつのまにか私の記憶からは抹消されていたが、これを見たことによって殺さなければという義務を改めて確認した。そして、祖父の信条を改めて口に出して反芻した。


「一、人のオオカミは人。一、人は弱さゆえに人を殺す。一、人は…」


 それ以降に続く内容すべてが、私の脳内に驚くほどしみこんでいき、体に力が行き渡った。かつてのように内容に疑念を抱くこともなく、拒絶反応もなかった。私は何を迷うこともなく人間がいる場所に駆け出した。駐車場をくまなく探したが、人間は一人も残ってはいなかった。ツチノコも同じ階で探していたので、私はエレベーターに乗って上の階に上がった。


 エレベーターに乗り込んで扉が閉めた。操作盤には一階と地下一階しかなかったので私は一階を押した。おそらく、一階につくまでに時間があったので、私は壁に貼ってあった張り紙を眺めた。ゲルマン系の親子二人が夜明けの空を眺めている写真に、「朝は来る」と読めるキャプションがついていた。


 エレベーターが地上一階に到着して、ドアが開くと、軍の機動隊が大部屋の中に十数名ほど集まっていた。金属探知機が設置されていたのが壁のほうにどかされていたので、おそらくそこは身分証のチェックや荷物検査を行う場所であっただろうが、今はそれらしき役割の人はすでに逃げていた。


 機動隊は警戒杖と金属の盾を装備していた。田舎の警察とは比べ物にならないほど重厚なものであったが、巣の人数は苦戦しそうなほど多くはなかったし、殺傷用の武器は見えなかった。銃を持っていないことや、盾ののぞき穴が鉄ではなかったことから、楽勝だと思った。私は取り囲んでいた機動隊の一人に突っ込んでいき、のぞき穴に見える人の顔をめがけてサバイバルナイフを差し込みに入ると、防刃でないのぞき穴の部分はいともたやすく割れた。


 私は顔を貫通しようとしていたが、その隊員は私が向かってくることが分かった瞬間に盾の内側に体を隠した。そして盾は私が突っ込んだ勢いで倒れていったが、下に潜り込んだ隊員が私の体を下から持ち上げた。握っていたナイフはのぞき穴に刺さったままだったので、斜めになった盾からずり落ちていった。


 確保という野太い声が上がり、轟音のような足音と人間の間にこすれる音の中、大量の壁が私の周りに迫ってきた。私は引っかかっていたナイフを抜いて立ち上がろうとしたが、その時にはもう遅かった。機動隊はまんまと誘い込まれた獲物に食らいつく捕食者のように、手足や背中をつかんで抑え込んできて、私は完全に身動きが取れなくなった。


 こんなところで立ち止まっていてはいけない。三百六十度を人間と鉄の壁で囲まれても私はあがいた。もっと必死になって死ぬ気にならなければならない。生きるものとして今生きている力をすべて尽くして、この逆境を超えて私は私の生を全うしなければいけないと思った。たとえ骨がすべて折れたとしても、体中から血が噴き出していても、生物である私はそのようにしなければならなかった。それが、祖父が私に託した思想であったからだ。


 機動隊に押さえつけられる緊張に抵抗する私の体は、もはや死すら恐れることはなかった。そこからは、今までしたことのないような動きをしていた。まず、背中を押している警戒杖に貫かれにいく勢いを持って手足にまとわりついていた機動隊を払いのけた。それだけでは機動隊も簡単には離れなかったが、私は絶対に手放さなかったサバイバルナイフを振り回して何とか離れさせた。両腕の付け根を思いっきり引っ張りつけたので、とても腕が痛くなった。


 その後も私は体がばらばらになりそうになりながら戦闘を続けた。盾を蹴り飛ばしたり、警戒杖で急所を突かれたりするとかなりダメージが入ったが、攻撃する手を止めていちいち痛がっていてはこの局面を突破することはできなかった。警戒杖はナイフで切ることができなかったし、盾はもちろん貫けなかったから、一人で全員を殺すことにはとてつもない疲労と時間が伴った。


 最後の一人を殺し終わった後、最後のナイフについた血を、入念に袖でふき取って袖の中にしまった。辺りは静かになり、無駄に広い空間があらわになった。戦っている最中は気づかなかったが、外の高温で熱くなった体を冷やすためにかなり冷房が効いていた。近未来のような内装ではあったが、どこか施設のシェルターに似ているような気もした。


 壁の側面に寄せられた手続き用の机に、シェルターの利用規則が置いてあった。このシェルターは行政機関を中心に、近くの街並みをお椀で覆ったような施設で、従来の生活環境をほぼ完全な形で再現できるシステムで管理されていた。避難してきた国民は仮設の家に割り当てられる人もいれば、マンションの空き部屋に割り当てられる人もいた。


裏のページに簡単な地区の案内が載っていたので、どの地区にどの地方から来た人がいるのかすぐに分かった。中央の行政機関周辺は国外からの旅行者に割り当てられた地区になっており、該当ページには帰国に関する手続きや帰国方法も書かれていた。私は私の姉がきっとそこに避難しているだろうと思った。


ようやくお目にかかったドーム状のシェルターの住居フロアは、入ったところから仮設住宅の中につながっていた。大して広くない仮設住宅に、大量の座り込んだ人間がぎっしりとつまっていて、パーテーションや割り当てのおかげで移動経路だけは確保できているが、人間の足や頭がはみ出していて人一人が歩ける幅しかなかった。ほとんどの人間が疲れ切った顔をしていて、配給された食事や必需品が散乱しているところもあり、スラムのようであった。


私はその仮設住宅にいた人間をひとまずすべて殺した。一人を殺しただけで奇声があがり、警察に連絡する人もいたがつながる前に、携帯を持ったものから片っ端から殺していったので通報されることはなかった。長い避難生活のせいで疲弊しているように見えたが、子供などは元気が有り余っているようで泣き叫ぶ声が甲高くてうるさかった。武器を持っている人間はほとんどおらず、完全に避難するためだけの施設であり、警備員のような人間もいなかったため、ものの数分で殺しきることができた。手ごたえのなさを感じずにはいられなかったが、私は次なる標的を探すためにさらにロンドン市街を徘徊した。


ロンドン市街には、明らかに利用案内に載っていた以上の仮設住宅が建設されていて、道路にもお構いなしにテントやキャンピングカーも立ち並んでいた。私は一つ一つ乗り込んでいって首をはねた。対象の口を手で塞いでから首にナイフを入れると、断末魔が周りに聞こえなくなるので、逃げていくものを追いかける手間が省けた。


これほど屋外に人間が密集している理由は、地下シェルターがツチノコによって制圧されてきていたからであった。度々シェルター中に流れる全体放送によると、地下道から入り込んだツチノコが個人の家庭用シェルターを破壊して、シェルター内に上がってこようとしているため、機動隊が地下道で動いているらしかった。避難住民には地下シェルターの扉は絶対に開けてはいけないという政策が敷かれたので、地方から移動してきたものは安全を考慮して屋外にテントなどを建てていたわけであった。


ツチノコの侵攻はかなり優勢で、シェルターから防衛戦を強いられる機動隊は全方位から攻めることができるツチノコにかなり苦戦していることが、何度も繰り返される移動注意の勧告の放送から推測できた。そのおかげで、私は家の中にこもっている人間も逃げ場を与えることなく殺すことができた。


シェルターの中は明るさが照明で管理されていて、明るさでは今の時間帯が大体どのくらいの時刻なのかわかった。そのときは少し薄暗く、オレンジ色の照明になっていたためおそらく夕方のころだった。


私は地図を見ながら避難地区を中央に向かって円を描くようにして回った。見る限り人がいなくなったところには死体の血でバツを付けた。その場所の人間を全員殺したかはっきりと確認はしていないが、人間の気配が無くなったことは自分の感覚では確かだった。


持っていた地図がほとんどバツ印に埋めつくされたときは、街灯が光っていたがまだ夕焼けの明るさが少し残っている時間帯であった。日本から来たばかりのころの自分と照らし合わせてみれば、五十人を殺すだけで日が暮れていたが、力をつけた今ではその何百倍もの人数を殺害してもあまり時間がたっていないように感じた。体にはさすがにかなりの疲労がたまっていたが、まだまだ動けそうだった。


私がまだ行っていない地区が、行政機関が密集する地区と、旅行者が滞在する地区だけになったとき、私はどちらから攻め込んでいこうか迷ったが、迷った末に前者の方に向かった。迷った理由は旅行者滞在地区におそらくいると思われる私の姉に会いたくなかったからだった。


私は衛兵をすべて刺し殺し、正面から普通に入った。その場所は確かに国にとって重要なものを守っている場所であるため、街中よりも緊張感があったが、私にはもはや槍も銃も敵ではなかった。私は人を殺しすぎてしまったためか、もはや歩き方や立ち方なども正しいものも認識できなくなり、いかに素早く命を取ることができるかを重視した体勢になっていた。そして、いつの間にか人間を見つけたから人を殺すという考えがないがしろとなった、つまり理性的な思考のもとにない殺人を行っていたのだと思う。


大臣に相当する人間がいる部屋では、私に道徳的な説得を試みて生き延びようとしたものや、金や地位をだしにして逃げようとしたものもいた。


私は建物の中に入っても何の部屋かわからない部屋の扉をいくつも開けて、おびえながら隠れている人間を殺して回った。警戒は以前よりも高くなっているのはなんとなくわかったが、私にとってはあまり何があったというほどではなかった。


無意識的に人を殺していく感覚は、ウインナーを切る感覚に酷似していき、体は動いていたが意識は薄れていった。何も考える必要もなく私の体が動くままに進んだ。意識がもうろうとしていくと、呼吸は次第に荒くなり、視界が狭くなって対象への集中力が高まったが、その分周りがあまり見えなくなった。


一通りの施設を回ったころに外はすっかり暗くなっていて、家の明かりもつかないのでほとんど様子が分からなかった。行政機関の地区で、少し離れたところにあるのがイギリス王室のものが避難している場所で、その場所は一度外に出なければ入ることはできなかった。仮の住みかと言っても荘厳な作りになっているその建物の周りには、私が殺した衛兵の死体がごろごろ転がっていて、王室を守る兵はすでにいなくなっていた。


中は恐ろしいほど静かで、広々とした作りになっていたが人の影は奥の両開きの扉の前に二人の衛兵が並んでいるだけで、他の人間は見えなかった。衛兵は鉄の兜をかぶっていて顔は見えなかった。臆することなく私が金の取っ手に手をかけようとすると、私から見て左側の衛兵が私に言った。


「王子さまがお待ちです。粗相のないように」


 そう言って、私がつかもうとしたのを、二人の衛兵が私の手をつかんで遮って、扉の前に割り込んできて、そのまま扉を開けた。その声はどこかで聞いたことがあるようであったが、私は構わず開かれた王座までのレッドカーペットを走った。


 王子は二十メートルほど先に王座に座りこんでいて、私の姿に気づいていても逃げたり弱ったりする様子はなかった。むしろその王子ははた目から見ても堂々とした姿勢を崩さずに鎮座していた。私が彼の顔をぼんやりと視認できる距離まで近づいていくと、その王子は私に自分がイギリス王室のテレンスだと名乗った。


「馬鹿馬鹿しいな、頭の悪い人間を相手にするのは」


 私が話を聞かないことを察すると、テレンスは王座のひじ掛けの部分に肘をついてため息を吐いた。首を何度も傾げて考えているようで、何かを思いつくと私に顔をまっすぐ向けて言い放った。


「君は自分の弱点というものを知っているか?人は誰しも弱点を持っている。当然私にも。それは自覚しているものもあるし、自覚していないものもある。君は自分の弱点を一切」


 私はすでにテレンスの顔の近くまで迫っていたのだが、テレンスは毅然とした態度で口を動かし続けていた。そして首を裂くナイフが彼の顔の前を通ろうとした瞬間、私は突然上空から襲撃者の気配を感じ、咄嗟の反応で右側の空間に退避した。


「理解していない。だからここで終わりだ」


 私は愛用の縄を構えて仁王立ちしているジャックのすまし顔をねめつけて、ナイフを彼に差し向けた。ジャックの体はまだ傷が治っておらず、少し疲れが見えた。テレンスは幼馴染には攻撃しないだろうと踏んでいたようで、馬鹿にしたのか驚いたのかよくわからない声を出した。


「ジャック。お前の野望を実現するには、あれを殺すしかないと言ったはずだが。そんなちゃちな得物で殺せるのか?」


「僕は彼と六年以上の付き合いですよ、ご心配なく。彼は絶対に僕に抗えません」


「私の脇差を貸してやろうか、やはり心もとないだろう」


 ジャックはいいですねと言って縄を少し下ろして、テレンスの差し出した色とりどりの宝石でかたどられた象牙のナイフを手に取った。私は新手の武器で何をするかと思ったが、ジャックはあろうことか私から殺されないようにするために巻いた首輪を内側から切り裂いた。そして、ナイフはテレンスに返した。


 その行為を皮切りに、私は宣戦布告だと確信して勢いよく広間の床を蹴った。私の頭の中は、周りの人間を殺すこと以外に考える余裕がなかった。とにかくジャックの縄をどう攻略するかを、わずかに残った理性の名残で考えていた。


 ジャックの縄は何かを縛る、引っ張るなどごく普通のことにしか使えない何の変哲もない縄であるため、切断すれば拘束されることは無いと考え、縄を出していたらすぐに切ってしまおうと考えた。


「君を治す方法を考えたんだ」


 ジャックは首筋を触って、向かってくる私に向かって言った。私はフェイントをかけてジャックの背面に回ったが、ジャックはそれを読んで私の右腕をつかんだ。咄嗟に私は左腕が動かなくなっていることに気づいた。全く力が入らず、縄に手を触れることすらできなかった。理由はわからなかったが、ここからは右腕だけで戦うほかはなかった。


「…治す?俺の体に悪いところはどこにもないけど」


「頭がおかしくなっている。君は気づいてないけれど、」


 ジャックはそこで少し顔をしかめて言うのをためらったが、はっきりと言った。


「周りの人間から見れば、君は変な病気にかかっているように見えるよ」


「あぁ。それはそいつらのほうがおかしいんだよ」


「違う、君は絶対に間違っている!」


 私は怒り狂って暴れることで縄を持ったままのジャックを横に倒そうとした。足が悪いジャックはぐらぐらしながらも、縄を緩めずに踏ん張って立っていた。


「間違っていない!」


「そういうところがおかしいんだよ。いいか?それはどんな強い薬を使っても治らない。君が治そうと思わないと治らない」


 私は無駄に声を上げ、髪を振り乱すほどに暴れたが、ジャックは本当に真剣な表情であったと思う。しかし感情の制御のきかなくなった私は、彼の気持ちを汲み取れるほど正気を保ってはいなかった。


 あまりの殺人衝動に意識を失いそうになったときに、ジャックは思いがけないことを言った。


「…俺は君が日本にいたときのことを聞いたよ。君が助けた女の子のこと」


 私はジャックの顔を見て固まった。口を開けて何かを言おうとしたが、彼女を連想すると言おうとした言葉を忘れてしまった。彼女のことを頭の中で連想し、私の近くではしゃぎまわっている姿を思い描くと、祖父からの教えや命令が抜け落ちそうになった。そうすると目の前の景色が幻のように変貌し、気を失ってしまいそうだったので、私は口の中で歯をがたがたと震わせていた。


「あの日本から来た人たちから聞いたんだけどね…すごいじゃないか。白血病の女の子に即決で骨髄を提供したなんて、普通なら怖くてできないよ」


「俺にそれ以上聞かせるな」


 私は、手首の力だけでジャックの胸の心臓のある所をめがけ、持てる力をすべて込めてサバイバルナイフを投げた。最後のナイフが刺さると、ジャックは意外にも予想外であったようで、血を足元に吐いた。刹那の悲痛に満ちたジャックの顔を私は見たことがなく、わけもなくなぜだか私の体は小さく震えていた。


 ジャックは立っていられなくなり、持っていた縄を手放してその場に座り込んだ。


「でも、それができたのは、君は彼女を助けたかったから…。そうだったんだろう?君は大切な人を助ける優しい奴だよ。……だから、」


 呼吸で肺に血が流入して、ジャックは話している最中にせき込んだ勢いで横に倒れていていくときに、こういったのを聞いた。


「もう…俺で…終わりに、してくれ……」


 無意識に崩れていくジャックに向かって腕を伸ばしていて、頭が床についた音で我に返った。ジャックの倒れた姿を見ていると、不意に涙が流れていたり、震えが止まらなかったりで、心の奥底から悲しい気持ちが込み上げた。


 私は祖父の呪縛から解放されたわけではなかったが、彼女のことを思い出し、ジャックを刺したことによって、人を殺したことに対する罪悪感を思い出していた。ジャックは感情やいたわり、思いやりの発露による行動を行うように示唆することで、私を人間の作り出した社会という集団に拘束しようとたくらんでいたことがうかがえた。その計画の真の意図はわからなかったが、私が覇気をなくして座り込むことしかできなくなるほどになった結果だけを見れば成功と言えた。


 私が放心状態になっている間に、テレンスは私たちのもとに歩いてきた。彼はよく見ると赤い襷を肩から掛け、胸には勲章を二、三個つけており、権力を握っている人間であることが分かった。


少し進んだ後に手を叩いて、広間の外に待機していた衛兵をここまで呼びつけた。


「日本の者、この逆賊をさっさと連れ帰ってくれ。今のうちに」


「…いろいろと言いたいことはあるんですけど、まずそちらで糸君を訴えたりしないんですか?」


 二人の鎧の兵隊は例の医者の双子の変装であった。


「いくら死刑が廃止されているこの国でも、大量殺人者の彼に何のペナルティも与えずに国に返すと言われるのですか?」


「とぼけたことを抜かすな若造が。お前たちがくだらない書類で、殺すなと言ったのだろうが。この期に及んで裁判権を強行してはそちらとの関係悪化につながるからな」


「結構なことで…」


 樹はそれを聞いて少し横を見たように見えた。


「それでは私は国の仕事に戻るが、後のことはくれぐれも問題のないように頼むぞ。ジャックがもし目覚めることがあれば、報告してくれ」


「…あ」


 私はふとしたはずみで口から声が漏れた。ジャックの胸には私のナイフが刺さったまま残っていたが、それが本当に心臓まで届いたかどうか判断できなかった。


「…ジャックは」


 『生きているのか』と、『殺さなければ』の両方の二の句が浮かんだが、それがはっきり言えなかったとき、私の頭の中が、消しゴムのかすのように使い物にならない思考回路になっていることに気づいた。祖父の教えと自分の中にあった正義感が再び衝突を繰り返した結果、私の行動意志はそのさなかで擦り切れてしまっていた。


 私は勢いよく手で頭をつかんで、無造作に伸びた黒髪をかきむしった。テレンスがいつの間にか消えていたことにも気が付かず、虚空を見つめていた。


 薇はテレンスがいなくなったところを見計らって、胡散臭いほど陽気な声で私に言った。


「糸君、ついに目が覚めたみたいだね…?」


 私に向かってピースサインをした後、薇は私ではなくジャックの体の触診をした。樹もジャックの体を助け起こしてナイフを慎重に抜く作業をしていた。薇の迅速な介抱によってジャックは一命をとりとめたように見えた。


「…全く。馬鹿だよねこの国の人たちは。特に国のお偉いさんとか。僕たちみたいに顔を隠しておくか、糸君に目隠しとかさせれば、こんなに人的被害を出すことはなかったのに。ジャック君が無駄に体を張る必要なんかなかったのに、ま、彼は無鉄砲だったんだけど」


 ジャックの手当てが終了すると、薇は私に顔を向けた。黒いゴム手袋をはめながら私ににじり寄ってきた。


「兄さん、例のものを」


 樹はポケットの中から筆入れのようなものを取り出した。ゆっくりとした手つきで空の注射器と透明な液体の入ったケースを出して、慣れた手つきで注射器に液体を入れた。そして、私の右の袖を強引にまくって注射をする準備を始めた。


 私はされるがままにしていたが、腕にアルコールが塗られたとき、注射器の中身が気になるとともに、生命の危機を感じた。彼は何の申告もなく、確実に私にとって不利益になるものを投与しようとしていた。


 注射針が構えられたとき、私は衝動的に懐からナイフを出そうとしたが、すでに出し尽くしていたことを忘れていた。しかし、それと同時に腹のあたりに装備していた小さな刀のことを思いだした。それは薄くて殺傷能力も低い、手のひらに収まるくらいのおもちゃのような刃で、刃物とは認められそうにない代物であった。私は首を切ることができない得物は使うつもりはなかったが、私たちが来ている戦闘服には必ずそれが仕込まれていた。


 注射針は私の皮膚から十センチほどまで到達したとき、私は抜き身の刃を右手の指で挟んで、樹の眼球をめがけて差し込んだ。樹は私の思考を読んでいたかのように右腕を外側に強く引っ張ったので、彼の前髪に刃をひっかけて切り裂くことはできたが、眼球までは届かなかった。


 引っ張られた衝撃で私は刃を手放した。とにかくこの場を離れようとしたが、用意周到に背後に回っていた薇に注射を打たれ私は嬌声を上げて悶絶した。薇の注射は私よりも下手で、我慢できない痛みであった。


「ぎゅああああああああぁあ」


「この期に及んでまだナイフを持っていたのか。器用だねぇ」


 体から力が抜けて眠くなる感覚から、麻酔を注射されたことがわかった。身構えていた樹は、うなだれていく私の手をゆっくりと放した。体の自由が利かなくなると、私は意識を失った。

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