7、偽り

 「信じられないわ! 」


 アーシアは両手を広げた。金色の光の粒が、彼女のドレスを流れ星のようにあちこち滑った。


 「みんなでいくつあるのかしら……もしかしたら、全財産つぎ込んであるかもしれないわよ。ほら、わたしの台帳に、〈財産のほとんどを費やした〉って書いてあったじゃない。単に改造にお金をかけたわけじゃなくて、財産そのものが時計台に隠されていたんだわ」

 「遺産全部……とか? 」

 「もしかしたらね。だとしたら、ティリパットさんがヴィクトリアを改造した本当の理由は、自分の財産を安全な場所に置いておくためだったってことかしら。いえ、ただ置いておきたかったわけじゃなくて、ふさわしい人の手に渡るようにしたかったのかも……見込みのある人が自分の死んだあとに現れて、その人がレイクフィールド家と何の関係のない人でも、その人に渡る可能性が少しでも増えるように」

 「死んだあと? 」


 エドワードは自分でも思いがけなく素っ頓狂な声を上げた。


 「どうやって? 」

 「『セオとブラン・ダムのおはなし』よ」


 鈍いわねとでも言いたげに、アーシアはエドワードを見た。


 「ヴィクトリアの謎を解くためには、この本が絶対に必要だわ。あなただって、最初のうちは言ってたじゃない――こういう本、ずいぶん読んでないんだ、って」

 「本が好きな人じゃなきゃダメってことかい? 」

 「同じ本好きでも偉ぶって堅苦しい本ばかり選ぶ人は、目の前にあってもこの本を開こうとはしないんじゃないかしら。魔法や妖精を鼻で笑う人は、自動的に門前払いってわけ――『塔の町』のメイガスが、こう言うの。『伝説とは、砂糖衣に包まれた滋味ある薬。口当たりの良い妖精の魔法の中には、真理と真実が隠されている』」


 アーシアは本の最後にあるティリパット氏のメッセージを眺めた。


 「ティリパットさんの作品には、似たメッセージがたくさん出てくるのよ。アンソニー・ティリパットの名前に惹かれて『セオとブラン・ダムのおはなし』を手に取るような人、そうでなくても童話や不思議な伝説が好きでこの本を手に取った人なら、自分の考える〈心の正しい者〉に近い可能性があるって、ティリパットさんは考えたんだわ。人を陥れるような生き方をしてる人が、童話の中で優遇されたためしはないもの」

 「だけど、どうして? 」


 エドワードは歯車の撒き散らす金色の光に目を細めた。錆びたり黒ずんだりすることのない金の機構は、姿も素晴らしかったが、性能も素晴らしかった。隠されてから何年経っても変わることなく滑らかに動いていることこそ、金でできていることの証だった。


 「どうして、こんなことしたんだろう? 相続できる人がいなかったのかな? ティリパットさんの跡継ぎだった人たちって、みんな死んじゃったんだったよね? 」

 「そうね……それに、跡継ぎを亡くしたあとで、他に相続させたいと思う人がいなかったのかも――相続できる立場の人が、〈心の正しい者〉じゃなかったのかもしれないわ」


 アーシアは本の最初に戻り、ドルトン氏とコーディ氏に宛てた中書きを眺めた。


 「あなたのお父さまたちとティリパットさんが最初に知り合ったきっかけが何なのかは分からないけど、こうは考えられないかしら。最初に、ティリパットさんがあなたのお父さまたちに――ふたり一緒とは限らないけど、たとえば新品の時計とか、お屋敷を改装するための設計とか、そういう注文をした。そしてそのとき、ティリパットさんはふたりを気に入って、遺産を譲ろうとした、とか」

 「まさか! 」

 「でも、少なくともそのくらいに信頼されていたに違いないわ。だって現に、遺産の在りかの手がかりになる本は、ふたりに宛てた中書きを入れた上であなたの親方が持ってたのよ! 」


 たとえばの話よ、とアーシアはエドワードに顔を寄せた。


 「ふたりは遺産を受け取らなかったけど――そのために、ますますティリパットさんはふたりを気に入ったかもしれないわね――別の仕事を引き受けることにした。それが、このヴィクトリアの改造だったのよ。謎を解くために必要な本もふたりに渡された。謎解きに挑戦する……つまり、遺産を受け取るのにふさわしい人を選ぶのも、ふたりに任されていたんだわ。だから、最後の謎を解くための最後のヒントは、本には書かれていなかったじゃない。そして選ばれたのが、あなただった」

 「僕、ろくに本も読まなかったのに? 」

 「最初からそうだったの? 本当に最初から、こういうお話が嫌いだった? 」


 自分がティリパット氏の言う〈心の正しい者〉の条件からは外れているような気がしてエドワードは言ったが、アーシアはすかさず言い返してきた。


 「それに、目の前にもう宝があるけど、自分がそれを受け取ってもいいんだろうか……一度はそう考えるような謙虚さが、一番〈心の正しい者〉みたいだとは思わない? それとも、人を殺してまで望みのものを手に入れようとする狡猾な人の方が〈心の正しい者〉なのかしら? 」


 エドワードが言葉に詰まったのを見て、アーシアは笑った。


 「あなたがそうと思ってなくたってあなたはちゃんとこの部屋に辿り着いた。あなたの目の前に、宝は提示されたの。それは事実よ」


 アーシアは金の歯車を見上げた。


 「それにしても、この遺産はどうやって相続すればいいのかしら? あなたみたいな人なら、すごい機構だから手を触れずに置いておきたいと思うのかもしれないけど」


 彼女の言うことはもっともだった。金の歯車は一時も休まずに働き続けていて、そうしている限り一枚でも取り外すのは不可能だった。一体、どういうつもりだろう――エドワードは歯車の噛み合いを観察した。歯車が動いているということは、何か作動している機構があるということだ。それを止められれば、この部屋の歯車も一緒に止まるはずだ――。


 でも、何が? 今この時計台に、動いている機構があるとすれば――。


 「――そうか」

 「何か分かったの? 」

 「この部屋の機構は、ヴィクトリアの大時計と繋がってるんだ――セオとブランカが最初の仕掛けを動かしたとき、セオが言うんだ。作動する機構が大時計から切り替わるって……ヴィクトリアの動力は錘だ。多分、大時計の歯車の中にこっちの歯車に繋がる機構が一緒に組み込まれてて、仕掛けをひとつ動かすごとに少しずつ切り替わるようになってるんだよ」

 「それじゃ今頃、最初の大時計の部屋で見た時計の歯車は全部止まってるってこと? 」

 「この部屋の歯車に動力を伝えてる歯車以外はね」


 アーシアは呆然としたが、魔法みたいね、とは言わなかった。彼女が気づいたことはもっと重大だった。


 「それ、ここの歯車は絶対に外せないってことじゃない? だって、仕掛けを動かさなきゃこの部屋へは来られないのよ! 」

 「何か丈夫なものを歯の間に噛ませて、ひとつ無理にでも外してしまったらどうかな。それも、この部屋の歯車全体に動力を伝えてるような、大元のやつ。そうしたら、その歯車が回してた歯車は全部動かなくなる」


 エドワードは「その歯車」に見当をつけながら続けた。


 「……でも、そうしたらきっと、ヴィクトリアも動かなくなるんじゃないかな。ティリパットさんがやったくらいにお金をかけて、もう一度改造しない限りね」

 「もう隠さなければならないものはなくなるんだものね」


 アーシアは不思議なほほえみを浮かべた。


 「たとえあなたが根っから本嫌いでも、ドルトンさんはあなたを選んだかもしれないと思えてきたわ。ティリパットさんとドルトンさんの目に狂いはなかったってことよ。――それとも、せっかく見つけたんだから、あなたの言う方法で歯車を外してみる? 」

 「いや」


 何なら手伝うわよ、とアーシアはからかった。けれども、彼女のそういうちょっとした意地悪な冗談が、エドワードは決して嫌いではないのだ。


 「僕は――」


 ヴィクトリアを止めるつもりはない、と言うことはできなかった。大きくて凶暴な力が頭にぶつかってきて、振り向くこともできないまま、エドワードは冷たい石の床に組み伏せられた。


 「エディ! 」


 アーシアの悲鳴が響き渡った。エドワードが体を起こそうとすると、背中に乗っていた誰かの靴が髪を踏みつけた。


 「動くんじゃない」


 靴の主が唸るような声で言ったが、すぐに別の声が割って入った。


 「乱暴はよせ! 」


 エドワードを押さえつけていた重みがなくなり、ようやく起き上がることができた。あちこちが痛い。アーシアがそばへ来て、ハンカチを差し出した。口の中の血の味は冷たかった。


 「でもねえ、刑事さん」


 エドワードから引き離されたのは、癖のある赤毛に、そばかすだらけの顔。薄い色をした、小さく、ずるい感じの目。あの晩見た、忘れようもない顔――クレイハーだった。


 彼は憎らしげに目を細めてエドワードを見ていた。


 「こいつは僕から本を盗んだ悪党ですからねえ。確かに、年齢を考慮すべきとは言えます――なんせ、あなたがたにそう言ったのはこの僕ですから。しかしねえ、こうして目の前で顔を見ていると、被害に遭った側としては、どうもね……」

 「理解しましょう。わたしとしても、相手が誰であれ目の前で振るわれている暴力を見過ごそうという気にはなりませんからな」


 ぴしゃりと言った目つきの鋭い刑事の顔を見て、エドワードはあっと思った。図書館の中庭で、本を読んでいた男性だ。刑事は依頼主に対して一応の敬意は払っているらしかったが、いきなりエドワードを殴りつけたクレイハーを苦々しげな顔で見ながら脇に追いやってしまった。それから、エドワードとアーシアを、鷹のような目でじっと見た。


 「ルーミア警察署のディケンズだ。エドワード・コーディ君だな。ポート・オブ・メイカーの、ウィリアム・ドルトン氏の弟子。間違いないか? 」


 ディケンズの目は、事実を認めることだけを要求していた。エドワードは頷いた。


 「……はい」

 「それで、そっちの君は? 」


 ディケンズは短くアーシアに尋ねた。彼女は関係ないんです、とエドワードは言いたかったが、アーシアの言葉を遮るには到底間に合わなかったし、言ったところでディケンズは疑いを深めるだけだっただろう。


 アーシアは眉を片方吊り上げたが、ちゃんと質問に答えた。アーシアがそれまで黙っていたのはひとえに、ディケンズがエドワードに確かめたのがすべて正当な事実だったからだ。


 「アーシア・リンドローブ。サーストンから来ました」

 「コーディ君との関係は? 少年がひとりという話だったんだが、君はどこから合流したんだ? 」

 「友だちよ」


 アーシアは少し考える素振りを見せたが、正直に続けた。


 「親戚のおじさまが、船長をやっているの。わたしはもともとその船に乗せてもらっていて、停泊した港のひとつがポート・オブ・メイカーだったんです。船が出る前の日の晩、彼が乗ってきたんです」

 「なるほど」


 ディケンズは手帳にアーシアが言ったことを書き留めた。


 「その船は、今どこにいる? 」

 「あと二週間くらいは、ソウルースに。おじさまの名前は、ウィル・マードック。船の名前は、アンメリー号よ」

 「よし」


 ディケンズは手帳をしまって一同を見回した。クレイハーは、そわそわしながら爪を噛んだ。


 「明日、もう少し詳しく話を聞かせてもらいたい。クレイハーさん、明日の十一時にルーミアの警察署に来てください。君たちは、警察署に泊まってもらいたいんだが、構わないかな? 」


 クレイハーだけが、反抗の姿勢を見せた。


 「なぜそんな手間をかけるんだ。僕の依頼は、彼が盗み出した本を取り戻してくれ、ですよ。今その女の子が持ってる、その本をあなたが僕に渡して、彼を捕まえてしまえば一件落着でしょう? 」


 ディケンズはクレイハーの顔を見返しただけだったが、その目つきは実に雄弁に刑事の心中を語った。――おれだって、あんたみたいな馬鹿にはこれ以上関わりたくないよ。


 「それが、そう簡単にはいかんのですよ。公の仕事というものは、なんせ手続きがかさむもんでね。それに、あれだけ熱心に彼の行方を追ってたんですから、彼がどうしてこんな大それたことをしたのか、あなたもさぞご興味がおありかと思ったんだが……」

 「僕は本と時計台が心配だっただけだ」


 クレイハー氏は肌を青白くさせて喚いたが、ディケンズには何の感動も起こらなかった上に、喚いた声は甲高く裏返ってしまった。


 「申し訳ないが」


 と言ったディケンズの声には、つべこべ言わせない迫力があった。


 「あんたには、来たい来たくないに関わらずどうしても来てもらわにゃならんのです。この少年にかかっている不名誉な容疑の根拠は、今のところあんたの証言ひとつなんでね。それとも、わたしとこれ以上話をしたくない理由でもおありかな? 」


 ディケンズが現場はそのままにしておくようにと言ったので、急遽呼び出された管理人の立会いのもと、ヴィクトリアでは金の歯車が回ったままにされた。クレイハーは不満そうだったが、当分は金の歯車の部屋への立ち入りに制限がかかることになるというディケンズの宣言は取り下げられることはなかった。


 ほんの数時間前、やっとの思いで通ってきた秘密の道を戻りながら、エドワードは今が夜でよかったと心から思った。ドルトン氏が亡くなった翌日、重要参考人として引き立てられそうになったときに浴びた人々のまなざしの冷やかさは、ただ思い出すのにさえ大変な勇気が必要だったからだ。


 アーシアは唇を噛みしめて、毅然として前を向いていた。彼女がそんな顔をしなければならないのは自分のせいなのだと思うと、エドワードはいっそう惨めだった。アーシアほど、日の下を堂々と歩くのが似合う少女はいない。それが何を間違えたら、夜の町を刑事に促されて行くことになるのだろう?


 妖精の魔法は、解けてしまったのだ。現実はどこまでも非情で、ひとつ困難を乗り越えたと思ったら、またすぐに、今度はもっと深い困難の底に突き落とされるのだ――。


 エドワードは、アーシアの顔をまともに見られなかった。アーシアがあなたのせいじゃないわと言ってくれることは、分かりきっていたのだけど。



 ロナルド・クレイハーは、ティリパット氏ことアンソニー・レイクフィールド卿の姉の息子で、つまり甥にあたるということだった。エドワードが思っていた以上に、今回の『セオとブラン・ダムのおはなし』を取り巻く騒動はクレイハーによって大ごとになっていて、彼はエドワードが本とともに姿を消してすぐ、ポート・オブ・メイカーとルーミアの警察署に――『セオとブラン・ダムのおはなし』はルーミアのレイクフィールド家からドルトン氏に貸し出され、それをエドワードが盗んだということになっていたので――被害届と捜索願いを出し、「対象の年齢を考慮して」秘密裏にエドワードを(生死を問わずに)探していたらしい。


 実は、エドワードはアンメリー号で立ち寄った港ですでに刑事たちに発見されており、届け出てある航路はすべて調べ上げられ、ヴィクトリアのあるルーミアでは、クレイハーとともにディケンズが待ち構えていた。そして、メイガスの中庭でエドワードたちを見つけたディケンズは、クレイハーとともに彼らをずっとつけていたのだという。


 エドワードとアーシアは八時に起こされ、宿直の警察官たちと同じ朝食をふるまわれて、(「警察官と刑事の違いを知ってるか? 」などと、気さくに話しかけてくる警官もいた)九時から別々に話を聞かれた。エドワードにはアーシアが何を考え、エドワードのためにどう戦ってくれているかが分かった。アーシアはエドワードの無実を、あるいは本人以上に、堅く信じていた。


 だが、ディケンズがふたりの言い分を拾ってくれるかどうかは、また別の問題だった。アーシアの聴取が先に終わり、エドワードが呼ばれたとき、ディケンズは険しい目をしてこう口を切った。


 「最初に言っておこう。おれは、恩を仇で返すような人間は好かん。刑事として個人的な好みを出さんようにしなければならないのは重々承知だが、刑事も人間だからな」


 エドワードは机を挟んでディケンズの向かいに腰を下ろしながら、身構えて次の言葉を待った。もしディケンズがクレイハーの言うことを真に受けているのなら、世話になっている親方を私欲のために手にかけた(クレイハーは警察署に届け出るときそう説明したらしい――例の晩、ドルトン氏に貸し出されていたクレイハーの本を盗もうとしたエドワードは、それを咎めた親方を路地裏で撃ち殺した、ということになっていた)エドワードこそ、彼の毛嫌いする人種に違いない。


 ディケンズはエドワードの強張った顔をちらりと一瞥し、手元の書類に目を落とした。


 「同じくらい、濡れ衣というやつが嫌いだ。それを平気で他人に着せようとするやつもな」


 エドワードは困惑した。ディケンズは構わずに続けた。


 「君はずいぶんいい友だちに恵まれたな。あのお嬢さんは、最初から最後まで君は無実だと言っていたぞ。つきあいは長いのか? 」

 「いいえ」


 ここで「はい」と言えたらどんなにいいだろう、とエドワードは思った。だが、大した時間を共にしていないことを頭では分かっていても、ずっと一緒にいたような感覚もあった。


 「少し前に、彼女のおじさんの船で知り合ったばかりです」

 「なら、無実だという証言を頭から信じるわけにはいかんな。もっとも、知り合って長い間柄なら余計に参考にするわけにはいかないんだが……」

 「アーシアは、何て? 」


 教えてもらえるとは思えなかったが、エドワードは質問した。ディケンズは机の上に大きな本を置いた。『セオとブラン・ダムのおはなし』だ。ディケンズは例の中書きが見えるように本を開き、エドワードの方へ向けた。

 エドワードはディケンズと中書きを交互に見た。


 「僕の父と、親方に宛てたものです」

 「そのようだな」


 ディケンズはそっけなく言った。


 「君の友だちはこの中書きを証拠に、この本は君の親方と父上に正式に贈られたものであり、所有権はもともと君にあったのだと主張した。クレイハー氏は盗まれたと言っているが、この本はそもそも貸し出されたものではなく、最初から君の親方の店に置かれていたものだ、と。それを奪おうとしたのがクレイハーであり、君はそのためにポート・オブ・メイカーから逃げ出さねばならなかったのだと」


 アーシアの理路整然としたもの言いには聴き手を頷かせる力が少なからずあるのだが、ディケンズも例外ではなかったらしい。あくまでも参考にはなる、という程度なのだろうが、自分が話していたらこれほど分かりやすく説明できただろうかとエドワードは思った――先に呼ばれたのが、アーシアで本当によかった。


 ディケンズは書類をめくった。


 「ポート・オブ・メイカーの警察署から、君に関する情報をもらった。ドルトン氏が殺害された事件で、君は事件の重要参考人として警官から同行を求められたが、近所に住む肉屋の主人の証言でそれを免れた。――まあ、あくまで個人的に言わせてもらえば、君を連れて行こうとしたのは少し性急な判断だったように思う」

 「はい」

 「その十日あと、君は突然町から姿を消し、同時に警察署ではクレイハー氏からの捜索願いを受理した、とこういうことだ。クレイハー氏はその晩君を訪ねたと言っている――彼の言い分によると、本を返してもらうために、だ」

 「はい」

 「路地裏から町へ出ようとしていた君に話しかけたが、君は一度偽名を使って身元を偽り、さらにこの本を抱えて逃げ出した、ということだが」


 エドワードは面食らった。それは確かに本当のことで、クレイハーがドルトン氏に本を貸していた、という前提のもとでは、エドワードの立場をいくぶん危うくしていた。


 いくらクレイハーがずる賢くても、嘘をついているのだから完全に筋を通すのは不可能だとエドワードは思っていたが、もともとの本の所在を明確に証明できない以上、エドワードの潔白を証明するのは思いのほか難しいことのようだった。


 ディケンズは思惑を一切悟らせない顔をしていた。優れた刑事の顔だった。


 「偽名を使ったというのは、どういうことだ? 」

 「クレイハーさんたちが大勢でうちの店に来て、僕はそのときお向かいの肉屋さんにいたんですが、もしかしたら親方を撃ったやつらが来たんじゃないかと思って。僕のことを探していると分かったので、肉屋のリジーさんが裏口から逃がしてくれたんです。でも、そのうちのひとりと路地裏で鉢合わせてしまって、咄嗟に嘘の名前を使いました」


 エドワードはそのときのことを思い出しながら説明した。


 「路地裏に隠れているとき、やつらが話しているのが聞こえたんです。うちの親方も人気のない路地を通ってきたからずいぶん助かったって……地元の人しか通らないような路地裏を、僕が通ろうとしているんじゃないかって」

 「それから? 」

 「鉢合わせた男に嘘をついたけど、僕の両親のことを知っているやつがいて……そのあと、クレイハーさんがこの本に目をつけたんです。貸さないなら親方と同じように死ぬかって」

 「その男……君のご両親のことを知っていたというのは、どんな男だった? 君は、その男のことを知っていたのか? 」

 「細面に、眼鏡の人です。他のやつらに、エルギンと呼ばれていました。僕は、一度も会ったことない人でした」

 「よし……」


 ディケンズは手帳に書き留めながら質問した。


 「肉屋から逃げて、どこへ行こうとしていた? 最初から船に乗るつもりだったのか? 」

 「大通りの路面電車に乗って、ポート・オブ・メイカーの警察署へ行くつもりでした」


 ディケンズはちょっと身を乗り出した。


 「警察署? 本を持ってか? 」

 「はい、あの……リジーさんが電話してくれたはずなんですが……」

 「そうか、それはまた照会しよう。……君はこの本を警察署に持って行って、どうするつもりだったんだ? 時計台の遺産のことを知って、届け出るつもりだったのか? 」

 「そのときは、この本がどんなものなのかも分かりませんでした。ルーミアに行くことになったのだって、偶然だったし……時計台に何があるか知ったのは、あの部屋に入ってからなんです。この本には、そこへ行くまでのことは書いてあるけど、何が見つかるかまでは書いてなかったので……ただ、リジーさんはこの本が僕にとって重要なものだと思ったみたいです。あの、父と親方の名前が書いてあったから」


 ディケンズは唸りながらエドワードの証言を書き取った。もっとはつらつとした話し方ができればいいのに、とエドワードは思った。


 「この本には、何が書いてある? 君は全部読んだのか? 」

 「これは物語の本です。でも、その物語に出てくる時計台とヴィクトリアがそっくりで、この本をヒントにしてヴィクトリアで仕掛けを動かすと、あの歯車の部屋に行かれるんです。でも、そのまま書いてあるわけじゃなくて……」


 そこでエドワードはふいに、自分がヴィクトリアの謎解きのために選ばれたことを証明できる可能性があることに気がついた。アーシアが言っていたではないか……エドワードが金の歯車に辿り着けたことこそ、彼が選ばれた証であると。ディケンズのペンが止まるのを待ってから、エドワードは言った。


 「あの部屋に入るための最後の仕掛けのことは、この本には書いてないんです」


 ディケンズの反応は素早かった。


 「君たちがずいぶん長いこと困っていたところだな。ボタンの仕掛けだったが……書いてないとしたら、何がきっかけで解いたんだ? 」

 「親方が、よく歌を歌っていたんです。あの押しボタンに描いてあった、ナナカマドやフクロウが出てくる歌です。ヴィクトリアの人形が踊るときに流れる曲の、替え歌だったんですけど」

 「なるほど」


 ディケンズの返事は短かった。


 「よく分かった」



 「あの人、もっと話の分かる人だと思ってたわ! 」


 アーシアは宿の部屋へ入ってくるなりディケンズへの怒りをぶちまけた。エドワードは拘束こそされなかったが、警察が指定した宿に寝泊まりするように言われ、聴取のあと丸一日、アーシアとは話をすることができなかった。


 『セオとブラン・ダムのおはなし』は、一時的にディケンズの手元に置かれることになった。賑やかにやってきたアーシアには、本の扱いも含めてすべてが不服のようだった。


 「どうしてあなたが閉じ込められて、クレイハーが自由に外を歩き回ってるのよ! あの卑しい口の利きかたったら! あれで貴族の生まれなんていうんだから! 」

 「閉じ込められてるわけじゃないよ……」

 「似たようなものよ! 失礼しちゃうわ! 」

 「しかたないよ。僕、町を出て旅をしてるんだもの」


 エドワードはアーシアを宥めた。宿の指定があったことは、エドワードの行動を制限するという目的も確かにあったろうが、ディケンズなりの配慮もかなり感じられた。というのも、滞在中の費用は警察で工面してくれることになっていたし、ルーミアの町を見下ろす高台に建てられた、小ぢんまりとした清潔な宿は、どんな下世話な詮索も一切受け付けなく思えたからだ。エドワードはあくまで一人の客として宿の主人から丁重にもてなされ、クレイハーがどんなに騒ぎ立てても、殺人と窃盗の容疑という、不名誉であるばかりか恐ろしい肩書きに向けられるであろう人々の感情から完全に守られていた。


 それに、アーシアがどう扱われるかを心配していたエドワードにしてみれば、彼女がいつも通りの気丈な様子で(たとえそれが怒りからくるものであっても)元気そうにしているのが嬉しかった。しかし――。


 アーシアに続いてのっそりと部屋に入ってきた人物を見て、エドワードは心臓が縮まるような思いがした。


 「……大変だったな」


 ウィル・マードックは相変わらずの無愛想な顔で、彼なりの気遣いの言葉をエドワードにかけた。もしエドワードがマードック船長の顔を臆せず見返していたら、彼の冷静な瞳の中にいたわりの色があるのが分かったに違いない。だが、このときエドワードは、ディケンズに連れられて時計台を後にしたときにアーシアの顔をまともに見られなかったように、今はマードックの顔を見ることができなかった。


 「……ごめんなさい。アーシアをこんな目に……」

 「エディったら! 」


 アーシアが甲高い声で叫んだ。マードックは黙っていたが、やがて言った。


 「おまえに謝られる筋合いはない。顔を上げなさい」


 エドワードは恐る恐る顔を上げた。マードックはため息をついた。


 「そんなに神妙にしていなくてもいい。警察の腰が重いのは、今にはじまったことじゃない」


 マードックは言ってくれたが、アーシアの顔を見る限り、エドワードを疑うようなそぶりを少しでも見せたら、彼女が黙っていないのだろうという気がした。


 マードックの言うとおり、ディケンズたちの対応はかなり慎重なものだった。ドルトン氏とコーディ氏に宛てた中書きは、エドワードに大きな謎を投げかけはしたが、事件の解決には思っていたほどの切り札にはならなかった。本の最初に誰かへの感謝を表すのは珍しいことではないし、名前が書いてあったからといって所有者であったことの証明にはならない、というのが警察の見解だった(「あれは普通の本じゃないのよ! 」とアーシアが叫んだ)。


 さらに、エドワードが確かにアルフレッド・コーディの息子なのかをポート・オブ・メイカーの役所に問い合わせる、とディケンズが言ったことで、エドワードはひどく動揺させられた。自分がどこの誰なのかさえ、自分ひとりでは明らかにすることもできないのだ。


 いったい、この世界に生きている人たちは、みんな揃いも揃ってなんて不確かに生きていることだろう! 


 「ドルトンさんを撃ったのはクレイハーたちだって分かっているのに、どうして……」


 アーシアが唇を噛んだ。エドワードは彼女を宥めた。


 「クレイハーの手下のひとりが言ってたのを僕が聞いただけだもの……ディケンズさんとしては、証拠にはできないよ」

 「だったらクレイハーの言うことにだって、何の証拠があるっていうのよ? 今となっては……」

 「アーシア」


 マードックが静かに声をかけた。アーシアは感情的になりかけていた主張を、しぶしぶ取り下げた。


 「……分かってるわ。こんなこと言ったって、意味がないことくらい」


 どうやら、手詰まりだった。ディケンズは取り調べる側の義務としてエドワードの話をきちんと聞いてくれたが、レイクフィールド卿とは(明らかにできる事実がないという意味で)縁もゆかりもないエドワードのもとに『セオとブラン・ダムのおはなし』があったというのは、事実であるにも関わらず苦しい言い訳みたいに思えた。本が書かれたわけをエドワードが最初から知っていて、ヴィクトリアに眠るレイクフィールド家の遺産のために凶行に走ったという方が、よほど筋が通っている。たとえば、ドルトン氏が息を吹き返して弟子の潔白を証明してくれるようなことでも起こらない限り、この状況をエドワードの側から動かすことはできそうもなかった。


 「僕、正しいことを言ってるんだよね? 」


 エドワードはアーシアに聞いた。マードックが眉根を寄せた。


 「僕が知っていることって、本当にあったことなんだろうか? 僕が、親方を撃ったんじゃないよね? 」

 「冷静になって、エディ。ドルトンさんが亡くなってすぐ、たまたま・・・・本を返してもらいに来るなんて不自然だわ。それもお店が閉まってから、銃を持って、でしょう? 」

 「僕の言い分がみんな正しいならね」


 アーシアは悲しげな顔をエドワードに向けた。


 「エディ、お願い。投げやりになってはだめよ……」

 「悪かったよ。僕はただ、誰を恨んだらいいのか正確に知りたかっただけなんだ。……時計屋だからね」


 アーシアもマードックも、笑ってはくれなかった。アーシアは呟いた。


 「あなた、人に悪意を抱くのに慣れてないのね」

 「船長」


 この上アーシアの気持ちを傷つけたくはなかったが、エドワードの時計屋じみた〈正確で合理的〉な部分は、結果が同じなら彼女の名誉と安全を優先しなくてはならないと主人に忠告した。嫌な思いをさせるのならなるべく一度の機会で済ませるべきだ――そして、彼女本人にかけ合うよりも、身元保証人であるマードックに頼んだ方がいい、とも。


 「アーシアを連れて戻ってください。……航海も続けてください」

 「勝手なこと言わないで! 」


 アーシアは怒ったが、マードックは頷いた。


 「それでいいんだな」


 エドワードが頷くと、マードックはアーシアの肩を抱いて促した。


 アーシアはなかなか動かなかった。それ以上はエドワードを詰ることも、エドワードがひそかに恐れたように、泣き出すこともなかった。ただ、決心して部屋を出ていくまで、ずいぶん長いこと彼の目を見ていたというだけだった。


 「本心じゃないわね」


 マードックに連れられて外へ出たアーシアは、振り向きざまに言った。彼女の目は力なく、それでも本来の光を失うことなく輝いていた。


 「僕は、」


 とエドワードはアーシアから目を逸らしながら答えた。


 「君がうつむいて歩くところだけは見たくないんだよ」


 アーシアは静かに扉を閉めた。望んで閉めさせた扉をぼんやりと見つめながら、エドワードは考えた。


 アーシアと離れることを決意したのは確かにエドワードの本心の総意には違いないが、そこへ至るまでに、かなり多くの望みを踏み潰したのだ、と。

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