2、『セオとブラン・ダムのおはなし』

 十日が過ぎた。才ある職人だったウィリアム・ドルトンとその弟子のために職人組合はかなりの額を援助してくれ、何ひとつ欠くことのない立派で厳かな葬儀をしたあと、しばらく喪に服していてもよかったのだが、エドワードは親方の跡を継ぐ形でひっそりと店を開け、数日に一度、職人街の中央広場にある時計台の時計のねじを巻いた。近所に住む人たちは、本心はどうあれ、エドワードに対する表向きの態度を変えはしなかった。何かあれば訪ねてきたし、道で会えば立ち話をした。大変だろうけど力を落とさずに、と励ましてくれる人も少なからずいた。


 変わったのはエドワードの方で、それまでも決して口数の多い少年ではなかったが、ドルトン氏を亡くしてからあとはますます無口になった。数日の間着ていた黒づくめの服はさすがにやめたが、エドワードは喪章代わりに帽子につけた黒いリボンを外さず、用があって出歩く他は、店でからくりや時計の修理を請け負っていた。


 新作の設計は、はかどらなかった――なにか新しいもの、ドルトン親方に恥じない美しいものを作ろうとすればするほど、実用的な、無難で無粋なものしか頭に浮かんでこないことに、これまでもエドワードはひそかに悩んできたのだが、遊び心や創造性を見習うべきドルトン氏を喪ってからは、ますます心が干からび、かたくなになっていくのが分かるようだった。


 喋らなくなった人形や踊らなくなったオルゴールの上のバレリーナや、鳴かなくなった時計の鳩が、エドワードが歯車だとかゼンマイだとか金属の糸だとかをほんの少し触ったり取り替えたりするだけで元通りになり、持ち主の手に引き取られていくという光景は、今のエドワードにはちょっとした悪い冗談のように見えた。そして思うのだ――人間が「故障」するのもこういう些細なことが原因に違いないが、人間の場合は完全に動かなくなってからでは手遅れなのだと。


 時計台の鐘が音高く三度鳴った。エドワードは目の前で分解したままの時計から目を上げて体を起こし、顔をしかめた。思ったよりも肩が凝っていて、首が痛んだのだ。


 ドルトンさんは自分の持つありとあらゆる技術を惜しみなく弟子に仕込んでくれていたので、店に持ち込まれた大抵のものはたやすく修理できるものばかりだったが、そんなエドワードも今回は珍しく煮詰まっていた。あるお屋敷から依頼された大きめの置き時計で、少々複雑な機構が組み込まれている。素晴らしい技術だが、これを作った人は、時計が壊れたときに修理するのが自分以外の誰かになるかもしれないとは考えなかったに違いない。


 午前中から取り組んで、時計はばらばらになっていた。元のように組み立てるのは簡単だ。だが、仕組みは分かってもどこに不具合があるのかがどうしても分からず、お手上げだった。


 エドワードは体を伸ばしながら二階へ上がり、本棚を探した。『上級機構技術』か『時計職人のための技術大全~趣味から実用まで~』あたりを見れば、いい解決策が思い浮かぶかもしれない。


 二冊ともすぐ手に取れる場所に置いてあったのだが、エドワードは思いがけず本棚の前で長居することになった。『上級機構技術』のそばに、見慣れない本があったのだ。茶色い革の背に金の箔押しで、『セオとブラン・ダムのおはなし』と書かれている。『技法と機構』とか『歯車の滑らかな噛み合いについて』とか『時計職人必携カタログ』とかの中で『おはなし』は明らかに浮いた本だった。


 詩集や物語のための場所に、この本もあっただろうか? あったかもしれない。敬愛する親方の再三の勧めにも関わらず、エドワードは物語の類には長いこと手を触れていないから確かな記憶ではなかったが、現に本があるのだから仕方がない。


 特に読んでみようと思ったわけではないが、エドワードは本を引っ張り出した。そして、何となく表紙を確かめた。同類の場所へ戻してやろうと思っただけなのだが――。


 なんという豪華な装丁だろう! 『セオとブラン・ダムのおはなし』の表紙には、彼が「セオ」なのだろう、少年が白い塔を見上げている様子が見事に描かれている。その絵を小粒の透明な石が円く縁取り、七粒ごとに、赤い石がはまっている――まさか、ダイヤモンドとルビー? いや、ガラスかもしれないじゃないか。でも、赤いガラスは作るのがすごく難しいと聞いたこともあるし……。どっちにしたって、かなりお金と手間のかかった本に違いない。


 エドワードはぼんやりと本を見つめた。今までこんな本があることを知らなかったのが信じられなかった。


 しかし、『セオとブラン・ダムのおはなし』の真の謎は、外側ではなく中にあった。本文はどのページも手書きで、走り書きのような部分や、インクがにじんだところがそのまま残されていた。挿絵はなし。ただ、ところどころに落書きのような絵が小さく割り込んでいた。著者名を確かめた……アンソニー・ティリパット。有名な作家だ。


 『上級機構技術』をうっちゃって、エドワードは『セオとブラン・ダムのおはなし』に夢中になった。なぜティリパット氏の直筆の作品が煌びやかに飾られ、ドルトンからくり店の本棚に収められていたのだろう? 何か、大きな秘密があるのだろうか? 


 エドワードは本を引っくり返したり、適当に開いてみたり、文頭の文字を拾って繋げてみたり、しばらく時間をかけてありとあらゆる方法を試したが、細長く美しい字が並んでいるばかりで、分解できそうな仕掛けも、解読できそうな暗号も隠れているようではなかった。本当に、ただの本だ。それとも、手書きであるということに何か価値があるのだろうか? だがエドワードは、本の価値の基準など知らなかった。


 どうやら自分の手に負えそうもないということしか分からなかったので、エドワードはがっかりして、『セオとブラン・ダムのおはなし』を空色の詩集の隣に挿し込むと、『上級機構技術』と『時計職人のための技術大全』を持って下へ降りた。彼は分解したままの置き時計を早く何とかしなければならないことを思い出したのだった。


 『セオとブラン・ダムのおはなし』はまったく余計な寄り道だったが、頭を切り替えるいい刺激にはなった。あれほど手を焼いた置き時計の故障の原因が、驚くほど簡単に見つかったのだ。歯車の一部が欠けて一部は噛み合わなくなり、一部は欠けた歯が挟まって動かなくなっていた。たったそれだけのことだったが、煮詰まっていたままではまだ時間がかかったに違いなかった。集中力を欠いた人間の目には、小さな原因から見えなくなっていくものなのだ。


 エドワードは新しい歯車を用意し、欠けた金属の歯を機構の間から慎重に取り除いた。他の歯車を確かめてから時計を組み立て、ゼンマイを巻くと、すぐにじりじりと音を立てながら針が動きはじめた。時計を持ち込んだ老婦人は故障した経緯を詳しく語らなかったが、置いてあった暖炉か、棚か、とにかく高いところから落としてしまったのだろう。


 ドルトン親方の声がするようだった。


 「いいかね、なぜ修理に出すはめになったのか話したがらないお客の話を強いて聞き出してはいかんよ。夫婦喧嘩で投げたからだとか、そんな事情には首を突っ込まん方が身のためだ」


 高台にあるお屋敷に時計を届けた帰り、エドワードはふと思いついて坂の途中にある書店に立ち寄った。アンソニー・ティリパットの本を見てみようと思ったのだ。どの町にもあるような小さな書店だったが、彼の主だった作品はきちんと置かれていた。『塔の町』『マリ姫とドラゴン・ラース』『聖剣伝説』……


 「すみません」


 エドワードは暇そうに突っ立っている女性の書店員に尋ねた。お客はエドワードひとりきりだった。


 「アンソニー・ティリパットの本って、他にありますか? 」

 「そこにあるだけですよ」


 書店員は今の彼女に持てる精一杯の愛想を振りまいたが、こらえきれずに壁にかかっている時計をちらりと見た。


 「もし他の本をお求めなら、別の町から取り寄せられるわよ」

 「いえ、別に……」


 買うつもりで書店を訪ねたわけではないエドワードは彼女の申し出を断ったが、あまり礼儀に欠けてはと、こうつけ加えた。


 「すぐじゃなくてもいいんです」

 「そう」


 書店員はにっこり笑って言った。


 「なら、お店を閉めてもいいかしら? そろそろ六時だから」



 エドワードはアンソニー・ティリパットに詳しいわけではなかったが、ティリパット氏が多作の作家であり、書店に並んでいた他にもたくさんの作品があることは知っていた。『セオとブラン・ダムのおはなし』も、そんな作品群の中のひとつなのだろう――その自筆原稿が、店の書棚にあったものに違いない。


 ティリパット氏には、世に出す前の自筆の原稿を宝石で飾り立てる趣味があったのかもしれないし、別の人の手によってそう仕立てられたのかもしれない。それをたまたまドルトンさんが手に入れたのだとしても、何もおかしくはない。きっと、『マリ姫とドラゴン・ラース』や『塔の町』では作品自体があまりに有名だから、同じように飾り立てられた唯一の自筆原稿ともなると手が届かなかったのだろう、とエドワードは結論づけた。


 「こりゃあ、おもしろいものを見つけたもんだねえ」


 エドワードに渡された『セオとブラン・ダムのおはなし』をまじまじと見つめて、リジーさんはこの頃に似つかわしくない華やいだ声を上げた。エドワードは夕食のスープ椀に口をつけようとした格好のまま思わずリジーさんの方を見た。誰かの嬉しそうな声を聞いたのはずいぶん久しぶりのような気がした。そして、リジーさんのためにこの本を持っていこうと考えたのは正しかったのだとひそかに嬉しくなった。ドルトン氏と同じか、それ以上にリジーさんは本が好きな人だったから、このところの感謝を伝えるにはちょうどよかったのだ。


 「ウィリアムは確かに本が好きだったけど、まさかこんな綺麗な本を集めていたなんてねえ」

 「集めていたわけじゃないと思う。そんな変な本、他にはなかったもの」


 エドワードはパン籠からライ麦パンを取って千切った。リジーさんはエドワードがライ麦パンを好きなのだと思っていつも買っておいてくれる。本当は歯の弱いリジーさんに歯ごたえのあるライ麦パンは億劫だろうと、一緒に食事をするとき積極的に選ぶようにしていただけだったのだが。


 リジーさんは本の表紙越しにエドワードを見た。


 「あんた、中はもう読んだのかい? 」

 「まだだよ。まだだけど、当分次の認定会のことで忙しいから。よかったら、リジーさん先に読んでもらえないかなって。リジーさんもそういう本、好きでしょ? 」

 「よおく分かってるじゃないか」


 リジーさんはにこにこしながら最初の数ページをめくったが、ふとそのほほえみが消えた。本文を真剣に読みはじめたのだとエドワードは思ったが、そうではなかった。


 リジーさんは本を持ち上げて、開いたページをエドワードの目の前に広げた。


 「エディ、あんたこれを見たかい? 」


 それは本の見返しの遊びの紙だった。本文と同じ、恐らくアンソニー・ティリパットの筆跡で、次のように書かれていた。



「時と歯車の誠実な友、ウィリアム・ドルトンとアルフレッド・コーディに。 A・T」



 エドワードは唖然とした。一方で、リジーさんはますますにこにこしはじめた。


 「まさか、あんたの父さんたちにこんな知り合いがいたとは思わなかったねえ」

 「どうしてこんなところに、親方と父さんの名前が……? 」

 「なんだろうねえ、もしかしたら、仕事のお礼じゃないのかい? ウィリアムとアルフレッドは、一緒に仕事をしてたんだから。あんたの母さんも本が好きだったからね。一冊、特別な本を分けてもらったのかもしれないだろ」


 エドワードは何も言わなかった。父と母に死に分かれたのは、五年前だ。ふたりで出かけた先で、車の事故に遭った。エドワードだけは、そのときはまだ弟子ではなかったのだが、なぜかドルトン氏に預けられていて無事だった。ふたりを轢いた犯人は見つからないまま、エドワードの中のふたりの記憶だけが淡くなっていきつつあった。


 リジーさんは構わず話を続けた。


 「この本は、ウィリアムとアルフレッドのためだけにこんなきんきらに作られたってことかねえ、アンソニー・ティリパットに? 」

 「多分ね」


 エドワードは気のなさそうな声で言ったが、これは彼の癖のようなものだった。心の中に嵐や高波が来ても、そのしけ具合は外からはあまり分からなかった。


 リジーさんはほくほくしていた。思いがけず身近なところから何か神秘な、秘密を持っていそうなものが見つかったとき、人はついそんな顔になるものだ。『セオとブラン・ダムのおはなし』を眺めるリジーさんの顔は、海辺で拾った瓶から宝の地図を見つけたというのと限りなく近かった。


 しかし、そのまま読みはじめるかと思いきや、リジーさんは本を閉じてエドワードに差し出した。


 「これは、あたしが読むにはまだちっと早いようだね」

 「僕が読めってこと? でも……」


 エドワードのところになど置いてあったら、十年経っても未読のままかもしれない。リジーさんに読んでもらう方が、本だって幸せに違いない。だがリジーさんは本を受け取らなかった。くるくるの白髪頭を振ると、昔からある花の香油が香った。


 「あんた、それはいけないね。あたしが読むんなら、まずあんたがきちんと目を通して、誰に貸しても構わないと判断してからさね」

 「だけど僕、多分読まないから……」

 「エディ」


 リジーさんは噛んで含めるような口調で言いながら、ダイヤモンド(エドワードはまだガラス製の可能性を疑っていたが)のついた革表紙をとんとん叩いた。


 「あたしの言うことなんざあてにならないと思えるかもしれないけど、あんたのためになるかもしれないからまあお聞き(これが人に話を聞かせたいときのリジーさんのお決まりの文句だった)。エディ、これはただの本じゃないよ。ただ、ごてごて飾られた本じゃない。いっぱしの金を持っている人間なら、紙っぺら一枚にだっていろんなものをくっつけたがるものさ。……だけど、あんたの父さんたちの名前をここに書いてある本は、どんな金持ちにだって用意できるもんじゃないからね」


 エドワードは神妙に耳を傾けた。リジーさんはどうやら、ウィリアム・ドルトンとアルフレッド・コーディの名に、宝石の飾り以上の値打ちがあるという考えらしい。値打ちと、謎が。


 「ウィリアムは、あんたに本を読むように言わなかったかい? 」


 リジーさんは重々しく尋ねた。エドワードは答えに詰まった。


 リジーさんは首を横に振った。


 「責めてるわけじゃないよ。ただ、あんたに知っておいてほしかったのさ。ウィリアムが本を読むように言ったのは、ウィリアムの考えからだけじゃない。アルフレッドと、あんたの母さんのマーガレットが、あんたをそうやって育てようとしてたんだ。もちろん、本ばかり読ませようとしてたわけじゃないよ。あんたにはあんたの考えもあるだろうしね……だけどね、ウィリアムとアルフレッドに贈られた、こんな特別な本なら、読んでみたらどうだい? 」


 エドワードは頷いた。リジーさんの話を聞いているうちに、ドルトンさんがあれほど詩や物語をエドワードに勧めたのは、せめて『セオとブラン・ダムのおはなし』をエドワードに読ませるためだったのではないかと思えてきた。ドルトンさんはきっと、エドワードが心から本を好きになったあとで、自然と『おはなし』に手を伸ばしてほしかったのだろう。それでも腰の重たいエドワードのために、わざわざ不自然な場所に挿しておいたのではないか――。そしてその計画が陽の目を見る前に、彼は殺されてしまった――。


 「その本は、エディ、あんたが持っていなくてはいけないよ。きっと見かけ以上に、あんたにとって価値のあるものになるだろうからね」


 エドワードは本を受け取り、中書きのふたりの名前を指でなぞってみた。仕方なく、そのまま第一ページ目を開こうとしたが、ちょうどそのとき自分の店の方から物音がしたような気がして、リジーさんの家の窓から外を窺った。もうすっかり、夕食に出かける前に灯かりを点けてくる習慣がついていて、店は明るい。まだ営業中だと思い込んだお客がいるなら挨拶しなければならないとエドワードは思ったのだったが、店の前にいるのはどうやらお客ではなかった。


 扉を叩き、応答がないと分かるとその手つきは乱暴になって、しまいにドアノブをがちゃがちゃいわせている。そして、鍵がかかっていてどうやっても開かないと分かると、またどんどんやりだした。家人の対応を待つというより、無理にでも扉を破ろうとしているみたいだ。全員が黒っぽい服を着ていて見えにくいが、ふたり以上はいる。ドルトンからくり店からのわずかな明るみが人の形にぽっかり吸い取られたみたいに、彼らは真っ黒な影になってうろついていた。


 「警察だ! 」


 エドワードは頭を引っ込めた。やましいことは何もないのに、エドワードにとってあの青い制服は、人生でもっとも苦い思い出に直結していた。


 リジーさんはもっと冷静に、厚い遮光カーテンの影から彼らを観察した。


 「警察には見えないね……乱暴すぎるよ。警察を呼ばれたら、困る方の連中じゃないのかい」

 「そんな」


 エドワードは愕然とした。警察を呼ばれたら困るような輩が、よりによってドルトンからくり店を訪ねてくる理由はひとつしかない。


 ドルトンさんを撃った犯人はまだ分かっていないが、犯人の方では、ドルトンさんには弟子がいることを知っているかもしれない。その弟子がいっとき警察に疑われながらも、裁きを免れたということを知っているかもしれないのだ。


 殺人犯の心理など、正しく理解できるわけがない――人のいいドルトンさんを殺したあとで、残った弟子の方を殺そうと考えたとしたって、おかしくない。からくり店には、値打ちのあるものだって少なくないことだし――。


 影男たちは相変わらず扉を叩き続けていたが、そのうちにひとり、ふたりとその場を離れて、通りをうろつきだした。


 「こっちへ来るよ」


 リジーさんがほとんど聞き取れないくらいの声で言ったとき、肉屋の表の扉を誰かが叩くのが聞こえた。


 リジーさんはエドワードに静かにしているように命じてから、いかにも夕食時を邪魔されて迷惑だといった風情で店へ出ていった。


 「はい、どなた? 今日はもうおしまいですよ」

 「これはどうも、申し訳ありませんね」


 エドワードはリジーさんの出ていった扉に耳をくっつけて、店先の会話を聞いた。影男のひとりは、なかなか丁重な物腰だった。


 「実は、お向かいのからくり店に用がありまして。今日は、どなたかいらっしゃらないのですか? 」

 「ああ、若い弟子がひとりいるはずだよ。でも、あの子も最近なかなか忙しいみたいでね。夜遅くまでああやって明かりが点いてるけど、まさかずっと起きているわけにもいかないだろうから、もしかしたら中で居眠りでもしているんじゃないかね。なんせ、時計のこととなるとものを食べるのも忘れちまうような子だよ。それか、組合会館に出かけているかもしれないね。どっちにしても、あんたたちの相手はできないんじゃないかい? 悪いことは言わないから、日を改めなよ」

 「ふむ、そうですか。ご忠告どうも」


 影男は帽子を上げて挨拶しがてら立ち去りかけたようだったが、その前にふと立ち止まって、こちらの気配を探っているような、気味の悪い間があった。


 リジーさんはとびきり機嫌の悪い声で問いただした。


 「なんだい? サンドイッチなら、今日はもう作らないよ」

 「いえ、それはまた次の機会に。……ときに、からくり店のその弟子は、なんという名前の人でしたかな? 」

 「……ウィルフレッドさ。ウィルフレッド・コレットだよ」

 「そうですか……いや、どうもありがとう」


 扉が閉まる音、鍵をかける小さな音が続けてして、リジーさんが部屋に戻ってきた。顔色があまりよくない。


 「あんた、ここにいたら危ないね。逃げた方がいい。今すぐにだ」


 エドワードは訳が分からなかった。しかしリジーさんは、机に乗っているふたり分の食事を片付けながらエドワードを促した。


 「警察署まで行くんだ。そして、誰かに来てもらう。本当に時計の修理を頼みたいお客なら、それまでさ。あんたは一晩、ここへ戻って来ない方がいい」

 「どうしてさ? さっきの人は……」

 「納得して戻ったじゃないかって? でも、他のうちにもあの調子で訪ねて回っているとしたら、あんたがここでこうして過ごしていることなんかすぐに分かっちまうよ。あの男の目ときたら、あたしの言うことなんか信用しちゃいなかった」

 「でも、それならもしあいつらがまたここへ来たら、リジーさんだって危ないよ! 」

 「どっちもどっちさ。あいつらがまたやって来たときあたしまでいなくなってたら、あいつらの鬼ごっこの相手がひとり増えるだけさね。まあ、ウィリアムのことで大騒ぎになっているときに、向かいの店でも誰かが殺されたなんてことに、あたしが犯人だったらしたくないけどね。人殺しするようなやつに、そんな頭があればの話だけどさ」


 リジーさんは警察署までかかるより少し多めのお金をエドワードに持たせ、帽子を目深にかぶせた。


 「大通りまで出て、路面電車に乗る。やつらが乗ってるかもしれないから、絶対に帽子を取るんじゃないよ。あたしが電話しておくから」


 リジーさんは肉屋の裏口からさっと外を窺ってエドワードを外に出し、その背を押した。


 「さあ、お行き。……と、いけない、これも持っておいき」


 リジーさんは『セオとブラン・ダムのおはなし』をエドワードに渡した。


 「もしやつらに見つかったら、大急ぎでこの本を返さないといけないんだ、とか何とか言ってすぐにそこから離れるんだよ。まさか、警察署へ行く人間がこんな本を持ち歩いてるなんて思わないだろうさ」


 エドワードは細い裏道を、物音を立てないように歩いた。もうしばらく行ってからなら人通りも増えるから、それに紛れて大通りへ出てしまおうと思った。立ち並ぶ建物と建物のわずかな隙間から連中を窺うと、彼らのうちの賢明な何人かが辺りを警戒している。日が暮れてから大きな物音を立てると人目につくからだろう。


 これで彼らがこの職人街の人間ではないということがエドワードには分かった。この一帯の職人街には特別な条例があって、所属する組合に届け出れば、作業に伴う騒音に限り午後の八時半まではごく大らかに許可されることになっている。たとえそれが、彫刻する鑿や顔料を砕く金槌の音ではなく、集中するのに必要な下手な鼻歌だったとしても。現に今も、あちこちの工房から時々やかましい音がしている。焦れて木の扉を叩くようなこもった鈍い音になんか、誰も注意しやしない。


 午後八時には時計台の鐘が鳴り、八時半には職人たちを促す鐘がまた鳴る(これを聞いた上でまだやかましい作業をしたければ、地下室へ入らなければならない)。今が何時なのか、知るすべがないことが悔やまれた――店で散々時計をいじっているくせに、エドワードは懐中時計のようなものを持たないのだ。もし八時十五分だとか、二十分だとかなら、もう少しこの暗い裏道にうずくまって待っていれば、八時半の鐘が鳴り終わるのと同時に、彼らは本当に人目を気にしなければならなくなる。ドルトンからくり店の隣の家は仕立て屋のウィンザートンさんだ。そのおかみさんは普段はとても優しいが、子どもが寝つく時間に大きな音を立てる人には決していい顔をしない。


エドワードは今日一日の行動を思い返しながら、今の時間を推測しようとした……修理した時計を届けて、書店に寄ったのが六時前。リジーさんとの夕食は大体七時からで、八時頃には食事が終わって、それから九時までは、そのままリジーさんとお茶を飲むことが多い。今日は食事の途中で邪魔が入り、鐘の音も聞いていないから、きっとまだ八時前だ。こんなことなら昨日時計台に行ったときに、三十分くらい針を進めておけばよかった!


 「おい、家の裏はどうだ? 」


 ふいに影男の誰かがそう言うのが聞こえ、エドワードはぎくりとした。別の男が返事をする。


 「そんなところにいるの、野良猫くらいだろ」

 「分からねえだろう。地元の人間なら裏から帰ってくるのかもしれねえじゃねえか。ドルトンだって、変な路地裏にいただろうが」

 「まあな。確かに、それでずいぶん助かったからな」


 革靴が石畳を歩いて近づいてくる足音ひとつごとに、エドワードは体が動かなくなるのを感じた。来た道を走って戻ったら気づかれてしまう。といってこのままでは、影男がエドワードの隠れているまさにその店の横から顔を出すだろう。さらに残念ながら、十五歳の少年が十分身を隠せるようなものはそばにはなかった。だが、エドワードが冷静でいるのに苦労したのは、恐怖のためばかりではなかった。


 みずから影たちの中へ踏み込んでいって誰彼構わずぶん殴りたい衝動と、ひそめている声で喚き散らしたい衝動に襲われ、エドワードは吐き気をこらえるみたいに口を手で押さえた。恐怖と、それに勝る怒りとで胃の辺りが何方向にも引きつれる感じがし、そのうち本当の吐き気もこみ上げてきた。


 あの男たちが、ドルトンさんを撃ったのだ。優れた機構を生み出す繊細な手に冷たい石畳を掴ませ、二度と時計のねじを巻けないようにしてしまった。そして今、エドワードのことを探している――。


 エドワードが逃げも隠れもせずに男がやってくるのを待ち受けられたのは、この憎しみの混ざった怒りがあったからだ。変な路地裏にいた? それで助かっただって? 人をひとり殺しておきながらぬけぬけと、宵闇に乗じて性懲りもなく再びこの職人街へ足を踏み入れた報いを必ず受けさせてやる! 


 エドワードは慎重に来た道を数歩戻り、男が家の影から顔を覗かせるのと同時に男の目の前を横切った。


 「おや、坊ちゃん」


 男はエドワードが思ったとおりに声をかけてきた。エドワードはこのことを予想し、何なら期待していたというのに思わずぎくりとしたが、夜たまたまひとりで外出するはめになった普通の少年だって、人気のないところで急に声をかけられたらこんなふうだろうと思い直した。


 影男たちに特別な警戒のない、普通の少年なら、ここでどうする? エドワードは動揺を見せずに立ち止まり、声をかけてきた男は自分に何の用があるのか、続きを待ってみせた。坊ちゃんという呼び方は気に食わないなと、眉をひそめさえして。


 男は後ろの仲間に目配せしてからエドワードに笑いかけた。粘つくような、煙草のヤニの臭いがした。


 「こんばんは。こんなに遅くに、どこへ行くんだね? 」

 「遅くって? まだ八時にもなってないじゃないか。パンを買いに行くんだ。大通りまでね」


 もちろんこれは嘘だが嘘にしてはあまりにもっともらしく、エドワードでさえ話しているうちに本当にそんな気がしてくるくらいだった。親方とふたり作業に夢中になり、明日のパンを買いに行くのを忘れて今ぐらいにおつかいに出るのはしょっちゅうだった。職人街にはそんな生活をしている人が他にもいるらしく、電話一本でパン屋の方でも取り置きして待っていてくれる。けれどその用事は書店へ寄ったあと忘れずに済ませたので、やはり嘘だった。


 「それに、本を返さなきゃいけないんだ。昼間忘れてたから」

 「本? 」


 ヤニ男が眉をひそめた。ほら、とエドワードは本をちらりと見せた。ヤニ男はさらに聞いてきた。


 「裏の道から出てきたが、どこのうちの子だね? 」

 「うちは肉屋だよ」


 エドワードはリジーさんの店の方を指差した。ヤニ男は一瞬つられてそちらを見たが、すぐにエドワードに視線を戻した。


 「我々はその向かいのからくり屋に用があるんだが」


 ヤニ男が言った。エドワードは不自然にならない程度にヤニ男をよく観察した。ヤニ男にまったく疑わせずにこの場を去ることしか考えていなかったが、この男たちのことを探ってみるのも悪くない。


 ヤニ男は続けた。


 「灯かりは点いているんだが、誰もいないようなんだ」

 「ああ、ウィルに用事か。からくり屋のウィルフレッドだろ」


 さも近所の少年のことを話すような口ぶりで、エドワードは言った。今あのからくり屋に住んでいるのはエドワード・コーディではなく、ウィルフレッド・コレットなのだ。


 「今日はあのうち、誰もいないよ。灯かりは六時になったら勝手に点くんだ」

 「そんなことができるのかね」

 「さあ。でもあそこはからくり屋だから、そんな仕掛けもあるんじゃないの」


 ランプの自動点火装置なんてそう簡単にできるわけないじゃないか、とエドワードは思った。少なくとも、火を使うランプではかなり難しいし、安全でもない。しかし、もっと簡単に部屋を明るくする装置なら作ることができるかもしれない。エドワードは、こんな状況ではあったが、いつかそんなからくりを設計してみるのも悪くないと思った。たとえば、時計に電球が組み込まれていて、決まった時間に点いたり消えたりするとか……もしそんなものが自力で組み立てられれば、認定会どころか特許を取ることだって夢じゃない。


 エドワードはここ最近、次の認定会に出品するためのからくり時計の設計を焦っていた。新しいものを作るための気力のすべてを、そのために費やしていた。時計の歯車の動力を利用して、売りもの、もしくは芸術作品として評価できるようなものを作らなくてはならない。もちろん、時計としての性能を犠牲にしてはいけない――人形を動かしたり、中の機構が外から見えるようにしたり、音楽が流れるようにしたり……連日連夜、寝る間も惜しんで新しい案を出しては、設計図を描いての繰り返し。どの世代のどんなに優秀な弟子も、そうやって一人前になってきたのだ。


 親方たちに認められれば、弟子としての修業期間を終えて、ひとりの職人を名乗ることができる。あの夜ドルトンさんが出かけた会合は、認定会について話し合うための場だったのだ。


 芸術作品として評価されるようなものを作れるほどには、エドワードの想像力は力がなかった。だから、性能を重視した、長い間使ってもらえるようなものを作りたいと思っていた。物語をこよなく愛したドルトン氏の弟子としてはおもしろみに欠けると誰もが思うだろうが、彼がいかに優れた職人であったか、いかに優れた親方であったかを証明することくらいはできるはずだった。


 だが、エドワードがどんな力作を発表しても、ドルトンさんがそれを見てくれることはもはや永遠にない。自分が育てた弟子が優れた職人に育ったと、他の親方たちに向かってささやかに自慢することも彼にはできないのだ。そんなことを考えてまたぶり返してきた怒りが、思いがけず大胆なことをエドワードに踏み切らせた。


 「こないだ親方が死んじまったんで、ウィルは大変なんだ。聞いた話じゃ、会合に行くって出かけたっきり帰って来なかったんだって。歩いて帰ってくる途中で、銃で撃ち殺されたんだってさ……ほんとは、おれもあんまり夜出歩きたくないんだ」


 ヤニ男は同情しているような声をかすかに出しただけで何も言わなかったが、鎌をかけるような言葉を出してきた少年の正体を見透かそうとでもいうかのように目を眇めた。お互いに相手の腹を探っているときの、独特の重苦しい沈黙が下りてきた。エドワードはさらにひと押しした。


 「用があるんなら、聞いておこうか? 明日の朝にでも伝えておくよ」

 「いや、結構だ。それより、君にもう少し聞きたいことがある」


 ヤニ男がそう言ったとき、別の男が足早に近づいてきて、ヤニ男に何か耳打ちした。エドワードは肩をすくめてさっさと行き過ぎようとしたのだが――。


 「待ちなさい」


 ヤニ男がエドワードを呼び止めた。


 「君は、何か我々に嘘をついているんじゃないかね? 」

 「何のこと? 」

 「ウィルフレッド・コレットという少年はいない」


 ヤニ男は冷たく言った。


 「その名を出してきたのは、君とあの肉屋のばあさんだけだ。肉屋にはあのばあさんひとりで住んでいて、孫どころか子どももいないそうじゃないか」

 「それがなに? おれは、うちが肉屋だって言っただけだよ。おれ、住み込みで雇われてるんだ」


 エドワードは内心冷や汗をかきながら言いつくろったが、エドワードの口は――エドワード自身にも信じられないことに――このとき本人の意思とはほとんど関わりなくぺらぺらと動いていた。


 「ウィルのことだって、たまたまだろ? 他にそう言う人がいなかったからって、あんたたちに何か都合の悪いことでもあるのか? 」

 「あるさ。たとえば、君こそが我々の探しているウィルフレッド・コレットかもしれないしね」


 ヤニ男は耳打ちしてきた男と一緒にいきなりエドワードの肩を壁に押さえつけた。エドワードは抵抗したが、大人ふたりの力には適わない。


 「おい、エルギン。来いよ」


 三人目の男が近づいてきて、エドワードの顔を覗き込んだ。細面に、薄い髪。小さな眼鏡。知らない顔だ。それから、ふいにエドワードの帽子を取った。暗闇に目が慣れないのか、エルギンはしばらく目を細めたり開いたりしながらエドワードの顔を見ていた。


 「どうだ? 」

 「ああ」


 エルギンは仲間が急かすので、うるさそうに相槌を打った。


 「こりゃあよく似てるな。母親にそっくりだ。髪の色は父親譲りだな。名前はなんてったか……確か、エドガ―だかエドウィンだか……」

 「ウィリアムとアルフレッドでウィルフレッドってわけか。咄嗟の嘘にしてはよくできてるな」


 ヤニ男が嘲るように言った。どうやら、エドワードが誰なのか、相手には完全に知られてしまっているようだった。


 「クレイハーさん、こっちです! 」

 「見つけたのか? 」


 今度はずいぶん若い男だ。大股でやって来てエドワードを見下ろす様子は横柄だった。


 「おい、おまえ」


 クレイハーはヤニ男に向かって言った。


 「あんなに大声で呼ぶな。誰かに聞かれたらどうするんだ、馬鹿が」

 「申し訳ありません」


 ヤニ男は腰から体を折ってへりくだった。クレイハーの方が、立場はずっと上らしい。


 エドワードはクレイハーを見た。クレイハーも彼を見ていた。癖のある赤毛に、そばかすだらけの顔。薄青い目は小さく、ずるい感じがした。


 「なぜ嘘の名前を使ったんだい? 」


 クレイハーが聞いた。エドワードは慎重に答えた。


 「最近物騒だから、見ず知らずの人をあまり信用するわけにはいかないんだ」

 「なるほど。それは賢明だ。まあ心配しなくても、僕らは別に君自身になにか用があるわけではない」


 クレイハーはエドワードを指差した。エドワードが持っている、『セオとブラン・ダムのおはなし』を。


 「君があのからくり店の弟子であるということと、その君が本を持っているということが大事なんだ」

 「本? 」


 エドワードはぽかんとした。何を言われているのかよく分からなかった。本といったって、エドワードが今持っているのは、中は手書きだし、本屋に置いてあるような有名な作品でもないし、表紙だけがあまりに煌びやかな古い変な本だ。まともに文章が書いてあるのかすらまだ分からない。父と親方の名前が入っていることだけが本の価値を少し上げていたが、それだってエドワード以外の人にとっては取るに足らない情報だろう。彼らが探しているのは別の本に決まっている。


 エドワードはクレイハーたちに『セオとブラン・ダムのおはなし』を見せた。表紙の宝石は反射する光もなく黒ずんで見えたが、クレイハーは食い入るように本を見つめた。それから、仲間の男たちに声をかけた。


 「おい、何だった? おじさんの、あの本の名前は? 」

 「さて……」


 男たちはしきりと首を傾げた。ものの数秒でクレイハーはいらいらしはじめ、三人が「申し訳ございません」と頭を下げようとするのを乱暴に遮った。


 「もういい、役立たずどもめ。三人もいて、誰も覚えてないのか。まあいい、あとから確かめれば同じことだ」


 クレイハーはエドワードに向き直り、本人はさりげなくしたつもりかもしれないが、不躾にじろじろ見た。


 「僕の聞いた話だと、その本はドルトン氏が持っているということだった。その本が、僕らの探している本だとすれば、だけどね」

 「それが? 」

 「どうしてその本を持って出かけようとしているんだ? 誰かに頼まれたとか? 」

 「別に。僕も見つけたばかりの本だから」

 「ふうん。それなら、僕らに貸してくれても構わないね? 用が済んだら君に返すし、もちろん礼はしよう。君に返すまで管理もきちんとすると約束するよ。悪くない話だろう。穏便に進めようじゃないか」


 エドワードは迷った。クレイハーの言うとおり、確かに本を貸すだけならば悪い話ではないし、相手にエドワードの顔を知られてしまった以上、一番安全が保障されそうな道ではある。


 しかし、親方は本当にそれを喜ぶだろうか? 父は? 母は? ティリパット氏は? 


 「さあ、どうする? 」


 気短かなクレイハーは答えを急かした。


 「僕らにそれを貸してくれるかい? それとも、君の親方と同じように今ここで死ぬかい? 」


 これは失言だった。エドワードは我に返った。僕は一体何を迷っていたんだ? こいつらは、親方を殺したんだ! こんなやつらの言うとおりにして、いい方へ転ぶはずがないじゃないか!


 「なんだ。何を迷っているんだ? 」


 クレイハーがエドワードにもう一歩近づこうとした。そのとき、ごく近くから大きな澄んだ音が立て続けに鳴りだした。さっきあれほど待った、八時の合図だ。男たちがぎょっとしてエドワードから目を離した隙に、エドワードは自分を捕まえているふたりの手を振りほどき、大通りに向かって駆け出した。なんて馬鹿なことをしたのだろうと思いながら。だが同時に、なぜか少しほっとしてもいた。


 追え、とクレイハーが怒鳴るのが聞こえた。エドワードはいざというとき、自分にこんなに速く走る力があることを知らなかった。誰にも追いつかれることなく大通りの人ごみに紛れてから後ろを振り返ると、かなり遠くの方で彼らはエドワードの姿を探していた。クレイハーが何か叫んでいるのが身振りで分かった。あちこちの酒場から流れてくる大音量のどんちゃん騒ぎに大方かき消されていたが、何もかも思い通りにならずに焦れた彼は懐から黒光りするものを取り出そうとしていた。拳銃だ。


 恐怖で足がもつれたが、エドワードは走り続けた。二本先の路地から影男のひとりが辺りを見回しながら出てくるのが見えて、道を突っ切って細い道へ入る。通ったことのない路地だ。追ってくる足音は、したかもしれないし、気のせいだったかもしれない。どこへ向かっているとも分からずにエドワードは走った。路面電車の停留所からどんどん遠ざかっていることだけは、確かに分かった。


 喧騒から遠ざかり、左右が狭く守られた路地からいきなり開けた場所へ出て、エドワードは驚いて立ち止まった。波止場だ。灯かりも建物の影もない、果てしなく続いていそうな暗い波間から、亡霊の囁きのような潮騒が聞こえる。正面の積み荷の山は巨人に似た影を作り、停泊中の帆船が、波に合わせてゆらゆらと上下していた。月の明るい夜だった。



 逃げた少年を追ってきた男たちは、積み荷という積み荷を調べ、大きな錠の鎖された倉庫や、桟橋の下までくまなく探した。エドワードに対する猶予は、もう十分に取った。彼を見つけ次第、彼らの頭目の裁量ひとつでエドワードの運命は決まるはずだった。


 けれど、一体どうしたというのだろう――たった一冊の〈まともでない〉本を守ろうとしたがために訳も分からず短い人生を終えることになるはずだった不幸な少年の姿は、波止場のどこにもなかった。

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