土とミツバチ ②


 マルグッドは小さく口を開けて、生あくびを漏らした。太い指先をイェリコのスマートフォンに滑らせる。

 ──hum

 ハミングのことだ。いや、虫の羽音のことだったか、とイェリコが考える間もなく、マルグッドはスマートフォンの画面をノーンに示す。

 素早く、ノーンは後部座席の側面の窓を開けた。滑るように窓から身を乗り出し、イェリコたちが座る荷台へと身を投げ出す。

 慌てたのはイェリコだけだった。みっともなく悲鳴をあげて、ノーンに腕を伸ばす。その細い体を抱き留める。

 当のノーンは驚いたように目を瞬かせてイェリコを上目に見ると、小さく何事かを呟いた。恥じるように体を離し、荷台の真ん中へと座り込む。

 おそらく礼を言われたのだろう、とイェリコは見当を付ける。

 と、視界が白い布地に覆われた。

 ──ノーンの日傘だ。

 白い布地に、黄色い糸で花とミツバチが刺繍されている。そして緑色の糸で、三つ連なった正六角形が縫い付けられていた。マルグッドのパスポートに記されていたのと同じマークだった。

 幹線道路を走るピックアップトラックの荷台には強い風が吹き付けている。そんな中で日傘を広げ、ノーンは空を仰いだ。日傘の内張がいやに攻撃的に輝いていた。

 むーん、とこもったモータ音がした。むむ、と小刻みに切れてはまた、むーん、と間延びする。ドローンのモータ音ではなく、虫の羽音だ。さきほど後部座席の窓越しにノーンとスマートフォンでやりとりをしていたときに聞こえた羽音だった。

 見回しても、やはり虫の姿はなかった。強風に煽られる日傘と、その柄を握りしめるノーンの手の震えだけがある。

 ややあって、甲高く途切れることのないモータ音が降ってくる。今度こそ、ドローンのモータ音だ。

 空の高いところに長い雲がなびいている。その下を航空機が横切っていく。

「ドローンだよ」マルグッドの囁きがした。

 イェリコがレースで用いていた機体はどれも蜘蛛やアメンボのようにアームを広げ、その先にプロペラを備えたものだった。

 けれど頭上にあるのは十字型の──旅客機や戦闘機に似た形をしている。

 雲の下にいたドローンが見る間に高度を落として来た。甲高い飛行音が鼓膜をつんざき、なにも聞こえなくなる。

「ゴールデン・トライアングルが近いからね」マルグッドの声は怒鳴りに近い。「どこも監視のためにドローンを飛ばしているんだよ」

「ゴールデン・トライアングルって?」イェリコも怒鳴り返す。

「麻薬地帯のことだよ。タイ、ミャンマー、ラオス、中国の国境が接する山岳地帯では芥子の栽培が行われているんだ。ちょうど芥子の花が最盛期だからね、上空から花の咲き具合を調べて、今から収穫量を予測するんだ」

 どうしてそんなドローンが自分たちのピックアップトラックの頭上にぴたりとついてくるのかが理解できず、戸惑いばかりが募る。

「今、このドローンのカメラにはボクたちが捉えられているけれど、このドローンはボクたちが見えていない。もちろんドローンを遠隔で操作している、モニタの向こうの人間にも見えていない。ドローンから送信されている画像自体が、彼女のコントロール下にあるからだよ」

 マルグッドはノーンを、彼女が握る日傘を指す。

「彼女の鼻歌humは全てのドローンにアクセスし、掌握する。それが監視ドローンでも自爆ドローンでも、だ。もちろんドローンだけじゃない。電気回路を持ち、周波数を発し、受信あるいは送信機能をもつ機械なら、どんな相手にだってアクセスできる。きみのスマートフォンにも、ね」

 最強の兵器だ、とマルグッドはしかめ面を崩すこともなく言い切った。

 イェリコの頭上から、ふわりと十字型の監視ドローンが浮き上がる。柔らかな軌跡と甲走った飛行音とがちぐはぐだった。

 監視ドローンが雲の高度へと舞い上がっていく。むーん、と虫の羽音が戻ってきた。

 いや、ノーンの──戦場のミツバチの鼻歌だ。囀り、と呼んでもいいだろう。

 イェリコは呆然と彼女の日傘を見る。そこに刺繍された花とミツバチと、三室きりの蜂の巣を、見る。

 マルグッドが所属する組織はあらゆるドローン兵器に、おおよそ全ての機械に、アクセスし掌握し操ることのできる〈ミツバチ〉たちを擁しているのだ。

 なんて名だったっけ? と記憶を辿る。思い出せない。

 苛烈な太陽が高く昇りつつある。容赦なく照りつける陽光に焼かれて、日除け代りのセーターが熱を抱き始めていた。

 それなのに、イェリコは薄ら寒さを覚える。

 強風に抗い、華奢な体で必死に日傘を握りしめるノーンミツバチに、得体の知れない畏れを抱く。マルグッドは、そして彼女たちは、あの夜、イェリコからドローンレースを奪った爆弾テロに対抗し得る存在なのだ。

 ノーンの日傘の脇から漏れ届く日差しが、あのドローンレースの最後に見たトルコランプのきらめきに似て明滅していた。

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