第十談

 次の瞬間、真昼の足は動きを止めた。


 1歩前とは明らかに違う周囲の変化に、どこか抜けた調子で「あれ?」と小さな声が漏れる。


 真昼は屋外にいるはずだった。大きなクスノキ、確かにその横を歩いてた。目の前には豊かな里山の風景が広がり、空は徐々に日の光を失い始めていた。早く戻らないと桃香が心配するかな、そんな事を考えていたとき突然暗い室内に差し込む淡い光が見えた。室内?


 我に返った真昼はとっさに身を屈めた。


(な、何……どこ?……え?)


 薄明かりを頼りに周囲を見回すと、そこはそれほど大きくない部屋のようであった。


 壁や天井はのっぺりとした光沢感のある白色をしており、所々に接合部を思わせる小さな節目のようなものが見える。


 不思議なことにどの壁面にも汚れやシミの類は一つも見当たらず、それこそ「つい先ほど施工が完了したばかりです」と言われても納得してしまいそうな様相を呈していた。また、装飾や意匠、生活感を感じさせるような調度品も一切見て取れず、その徹底した無機的な美しさはこの空間に対する何か得体の知れない不気味さを演出する一因となっていた。


 正面の壁にはドアのような物とそれを挟む形で横長の窓が2つあり、室内をうっすらと照らしている明かりは、この窓から漏れ込んでいる隣の部屋の光らしかった。


 真昼は上目遣いに天井を見上げたが照明器具のようなものは見当たらず、壁同様に節目で区切られた白く美しい面が連続しているだけだった。


 徐々に高まる恐怖心と同調するかのように真昼の鼓動は激しさを増し、激流となって体内を駆け巡る血液が全身の毛細血管を圧迫していった。


 周囲の気温に反して体の各所からは嫌な汗が滲み出し、一刻も早くこの場を離れたいという焦燥感が思考活動を阻害する。


 真昼は思い出したように背後を振り返った。そこに退路は無く、周囲同様の無表情に並列する真っ白な壁面があるだけだった。


 ただ、背後の壁面だけは他の壁面とは若干異なっていた。


 壁面の中央よりやや上には奇妙な赤い図柄が大きく描かれており、その下には細かな図形のようなものが文字の羅列のように黒色で描かれていた。


 真昼は壁に近づくと、その絵とも文字ともとれるものを真剣に眺めてみた。それはアルファベットのようでもありカタカナ文字のようでもあったが、結局何を表しているかまでは分からなかった。


 解読を諦めて壁の図形から注意が離れると、真昼は視界に妙なものが映りこんでいることに気付いた。それらは目の前の壁から左右に沿って少し離れた場所にあり、そこから不規則に点々と置かれている何かの塊のようであった。


 個々の塊は矩形や流線型、あるいは管状の物体の集合物であり、一つとして同じ形の塊は無いように感じられた。雑多なものが積み上げられているだけなのか、それともひとまとまりの装置なのかは暗さから判別できなかったが、なぜか忌避感を感じさせるその姿に、近づいて調べてみようという気にはなれなかった。


 真昼は改めて窓側に向き直ると、体中に響き渡る心音を抑え込むように両腕で胸を押さえつけた。


 足元を見ると青みを帯びた濃灰色の床が部屋全体に広がっていたが、不思議とこの辺りの床だけが他の床よりも若干下がっているようであった。


 真昼はうずくまるように歩きだすと、上の床に繋がる緩やかなスロープを越え、明かりが漏れ込んでいる正面の窓へと向かって歩いた。


 ――タッ


 不意に背後から聞こえた音に真昼の背筋は凍り付いた。


 先ほどまで感じなかった何かの気配を確かに感じる。真昼はその場に立ち尽くし、どういうわけか動くことも振り返ることもできなくなってしまった。2本の腕では抑えきれないほど心臓は踊り狂い、目元にはじわじわと涙がにじみ出す。


「……日向、さん?」


 聞き覚えのある声をきっかけに真昼の体は緊縛から解放された。あわてて振り向いた先に立っていたのは義丸だった。


「大野君?」


「突然どこから……いや……ここ、どこだ?」


 義丸は慌てて周囲を見回し始めた。その様子を見ていた真昼は言い知れぬ安堵感と抜けるような脱力感に包まれその場に崩れ落ちた。驚いた義丸は真昼のそばに駆け寄った。


「だ、大丈夫?」


「うん、平気。気が付いたら私一人で、ここがどこかもわからないし、私どうしたらいいか……怖くて……」


 真昼はうつむいたまま、か細い声を絞り出すように喋った。傍目に分かるほど全身を震わせ、流れ落ちる涙が着衣に大きなシミを作り続ける。


 義丸は目の前で嗚咽する真昼にどうして良いか分からなかった。何か気の利いた言葉をかけて安心させるべきだろうが、真昼の涙を見た瞬間から焦りと心配と恐怖とが竜巻のように荒れ狂い、全ての思考を吹き飛ばしながら頭の中を真っ赤に染め上げてしまった。


 義丸は震える真昼の横にしゃがみ込んだまま、じっと床を見つめることしかできなかった。


 溢れ出る感情を抑えることができず、真昼は静かに泣き続けたが、しばらくするとそれも収まり室内は再び静寂に包まれた。


「――ごめんね、本当、もうどうしていいか分からなくて」


 落ち着きを取り戻した真昼は涙を拭いながら笑顔で義丸に語りかけた。


「うん……ごめん」


 義丸は何もできない自分に言い知れぬ罪悪感を感じ、意図せず謝罪の言葉を口にした。


「何で大野君が謝るの?」


「あ……いや、うん……」


「でも、ここなんだろうね」

 

 真昼の心は先ほどよりも随分楽になっていた。


 それはヘドロのように纏わり付いていた嫌な感情が、涙に溶けて流れ落ちたからかもしれない。それに加えて見知った誰かが傍にいるという現実も真昼の心の安定に大きく寄与していることは疑いようもなかった。


 義丸は無言でスマホを取り出すと、画面を確認するなりつぶやいた。


「やっぱり駄目か」


 この場所には電波が届いていないらしく画面には圏外の文字が浮かんでいた。真昼も慌てて自分のスマホを取り出すが、画面を見るなり落胆した様子で上着のポケットにしまいこんだ。


「あのさ、このままここに居てもしょうがないから、私、向こうの部屋に行ってみようと思うんだけど」


 真昼は正面の窓を指差した。窓の先は確かに小さな部屋になっているようだった。


「そう……だね」


 義丸は再度周囲を見回しながら真昼の提案に同意した。



 2人は窓のそばまで近づくと注意深く中の様子をうかがった。


 そこは横長の小さな部屋であり、いま覗き込んでいる窓の少し先はもう壁になっていた。こちらの部屋と同様に床以外は全て白一色であり、影の具合から見て上から明かりが差しているようではあったが、天井には照明器具のような物は見当たらず、まるで天井全体が発光しているようだった。


 窓側にはテーブルのような板が並び、カフェの窓際席を連想させる作りになっている。部屋の両端には白塗りの扉が付いたキャビネットのようなものが据え付けられており、正面の壁の中央にもこちらの壁にあるドアのようなものが存在していた。


「何かの研究施設か病院みたいな雰囲気だね」


 窓の下にしゃがみ込んでいた義丸が言い、最後に「研究施設は行ったことないけど」と付け加えた。


「私もそんな気がしてた」


 義丸のすぐ横で同じようにしゃがみ込んでいた真昼が答える。


「そっちの四角い所から入れるのかな?」


「多分、あれがドアなんだと思うんだけど」


 2人は壁の一部を見つめた。真昼が指摘した“四角い所”とは、高さ2メートル、横幅が1メートルほどの長方形をしたくぼみであったが、表面にドアノブや引き手のような金具は見当たらなかった。


「俺、ちょっと調べてみるよ」


 そう言うと、義丸はしゃがんだまま窪みの方へ向かって行った。


「気をつけてね」


 義丸が窪みの前に到着すると、壁は突然縦に割れ、低いモーター音と共に左右の壁へと吸い込まれていった。


「――自動ドアみたい」


 一瞬の出来事に、義丸はその場で硬直したまま小声を漏らした。


「そうみたいだね」


 義丸は狭い室内を見回した後、スッと立ち上がり部屋の中へと入っていった。


 義丸が入口の前を離れた途端にドアは静かに閉じてしまったが、再び入口の前に立つとドアは当たり前のように2つに割れた。義丸と真昼は同時にため息を漏らした。


 義丸はしばらく室内を調べて回り、窓の前まで近づくと口をパクパクさせながら真昼に何かを喋り始めた。何も聞こえない真昼が首を傾げると、それを察した義丸は喋るのを止めてオーバーアクションで手招きを始めた。


「綺麗なもんだね。何も無いよ」


 義丸はテーブルの下に置かれているイスのような物を引っ張り出して腰かけた。それは地面から噴き出す水のような形をした物体だったが、座り心地は悪くなかった。


「そっちのドアはどこに続いてるんだろう?」


 真昼は義丸の横に立ったまま反対側の壁にあるドアを眺めた。


「行ってみようか」


 義丸はイスから立ち上がった。


「大丈夫かな?変なお化けとか出てこないかな?」


「わかんない。でもここを通るしかないっぽいし――そうだ、日向さんはそっちの部屋で隠れてて」


「ええ?」


「何が出てくるかわからないから、念のため」


 全く予測がつかないこの状況で、この先どんな危険が潜んでいるか分かったものではない。義丸は真昼を気遣い、この先の調査は自分一人で行おうと決めていた。


「駄目だよ、私だけ隠れてるなんてできないよ!」


「いや、でも……」


「私もここにいる!」


 真昼の突き刺すような視線が真っ直ぐに義丸を貫く。


「――分かったよ」


 真昼の予想外の反応を受け、義丸の駆動系を支配していたヒロイックな思想は瞬時に霧散した。


 熱源を失った義丸は真昼の申し出を無条件に受け入れるしかなかった。

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