第一談

(あと一分)


 その場に拘束された多数の人間の意識が一つに重なる。それは長い苦痛からの開放を切望する声にならない叫びであり、約束された幸せの到来を歓喜する福音の合唱でもあった。


 その想いの渦中にありながら、周囲の人間とは明らかに容姿を異にする中年の男がいた。壁際で何事かを熱心にまくし立ててはいるのだが、大半の者の耳にはその高話も届いていないようであった。


 正面に掛けられた質素な時計を、ある者は堂々と凝視し、またある者は盗み見る様に確認している。

あえて時計から目を逸らし、時の到来を黙して待つ者。

時計など気にもせず隣接する者と小声で雑談に興じる者。

また一部ではあるが、中年男性の弁舌に耳を傾けながら熱心に筆記している者もいた。


キーン、コーン、カーン、コーン。


 3時限目の終わりを告げる鐘の音が、乾季に訪れた恵みの雨の様相で校舎全体に降り注ぐ。


「では、時間なのでこれまでにします。なお――」


「起立、礼っ!」


 何者かが中年男の発言を遮るように発声し、場の全員がその号令に従う。


「おいおい、勝手に締めるな。次の授業までに教科書の今日やった所、もう一度よく読んでおけよ」


 中年男は苦笑いをしつつ教壇上に広げた授業資料を片付け、そばに駆け寄った生徒と二言三言会話をすると、昼休みの喧騒に包まれた教室を後にした。


 梅雨明け宣言後も不快な湿気はしつこく肌に纏わりついてくる。

室内の気温は34℃に達する勢いだが、何故か天井に据えられた業務用エアコンは運転を見合わせていた。


 1時限目はまだよかった。しかし2時限目以降の熱気と湿気に耐えかね、生徒達は幾度となく教師への嘆願を試みたが、願いは一度として聞き届けてもらえなかった。


「先生、暑いのでエアコンをお願いします」

「そんなに暑くないだろ」


「先生、暑くて集中できません」

「しっかりしろ、がんばれ」


「先生、暑いです」

「窓際の席の人は窓を全開にして下さい」


 どうやらこの教室のエアコンはインテリアとしてのみ機能しているらしい。それでも誰一人保健室送りにならず昼休みを迎えることができたのは、時折窓から吹き込む涼風が熱気に圧倒されそうな生徒達を気まぐれに癒してくれていたからかもしれない。


「涼しー!」


 女子生徒の1人が開け放たれた窓から気持ちよさそうに身を乗り出した。流される髪を気にしながら閉じていた目をゆっくりと開くと、そこには高名な絵画を思わせるような雄大で開放感に満ちた風景が広がっていた。


 まず、どこまでも澄み切った青く透明なキャンバスがその目に飛び込んでくる。雲一つ無いその青さに落下してしまいそうな不安感を覚えるが、少し視点を下ろしながら遥か遠方に見える山々に注意を向けると、まるで押し固められたかのような雲の大群が、山の稜線と空とを仲立ちするかのように力強く描かれている。

その雄大な山々の麓からは大小様々な建造物と、雑多な色をした無数の屋根が描き込まれており、遠近法を伴って四方八方からこの校舎を目指して迫っていた。


 幸いにも学校の周囲には高層建築物が1棟も無く、この美しい名画の鑑賞を邪魔する物は何もなかった。


 簡素なコンクリート作りの校門に据え付けられた黒地のブロンズ銘板には、飾り気の無い明朝体で“長野県北信高等学校”と記されていた。


 住宅街の一角に位置するこの学び舎は、地域でもそれなりの進学校として知られている。毎年名の知れた大学へ安定して合格者を輩出し、教師や学生に関するトラブルも殆ど耳にすることが無いため、保護者としても大切な我が子を安心して通学させられるそんな県立高校であった。


 真昼は昼食に備えて自分の机の上を片付けていた。


 エアコンを巡るクラスメートと教師の舌戦も、窓の外に描かれた大自然と人間の共同作品も、彼女の心情に少しの衝撃も与えることはなかった。


 当たり前の日常が当たり前に展開されている、ただそれだけであった。


 だが彼女の感情の源泉からは不思議と幸福の鉱泉が絶えず染み出していた。時に間欠泉のように噴出する幸福感に後押しされ、思わず笑みを浮かべそうになる顔を強張らせながらも、真昼は鼻歌交じりにスクールバッグから小奇麗な巾着袋を取り出した。


 包みを開くと、素朴で少し大きめの弁当箱が姿を現した。


「もー、先に食べ始めないでよ」


 不意に声を掛けられた真昼は声のする方に目を向けた。そこには見慣れたショートヘアの女子生徒が、可愛らしい弁当包みを片手に立っていた。女子生徒は斉藤さいとう桃香ももかだった。


 桃香は真昼の前の机に弁当包みを乗せると、椅子を脇によけ、机を前後逆向きにしようと動かし始めた。


栄谷はえだに君、まだ来てないね。昨日も午後からいなかったけど、大丈夫かな……」


 桃香は真昼の隣の席を心配そうに眺めながら向かい合うように机を繋げ、よけておいた椅子を引き寄せて座った。


「やっぱり、ももちゃん的には気になっちゃいますか?」


 真昼はうっすらと口角を上げながら、わざとらしい上目遣いで質問を投げかけた。


「いや、そんなんじゃないって!なんとなくだよ、なんとなく」


「そっか」


 急いで弁当箱の包みを開く桃香を眺めながら、真昼は腹話術人形の口のように箸をパチパチと開閉させた。


(相変わらずわかりやすいなぁ。でも、栄谷君のどこがそんなにいいんだろう?)


 真昼と桃花は保育園のころからの仲良しである。家が近いこともあって、2人はいつも一緒に遊んでいた。


 小学校に入学してからは別々のクラスとなり、中学生の時に真昼が引っ越すまで一度として同じクラスになることは無かったが、硬い友情で結ばれた2人の交流が途絶える事はなかった。


 今年、北信高校に2人で合格した時は「また同じ学校だね!」と、人目もはばからず抱き合って喜び合い、クラス分け発表時にも同じ1年3組と判るや否や「ようやく願いが叶ったね!」と、やはり人目もはばからず抱き合って喜んだ。


「いただきまーす」


「はい、いただきます」


 桃香の挨拶に合わせながらも真昼は弁当に手をつけず何となく桃香を眺めていた。


「そういえば、夏休みって何か予定入れた?」


 自分の弁当箱に敷き詰められたおかずを確認しながら桃香が言った。


「え?いや、今のところ特に何もないけど」


「みんなでどこか遊びにいきたいね」


「遊びって、泊まりで?」


「流石に泊まりは無理だと思うけど」


 話に引っ張られながら真昼も弁当に手を付け始めると、今度は2人の女子生徒が教室の外から真昼の席に駆け寄ってきた。


「もー、伊藤ちゃん話なっがい!」


花音かのん、先生にちゃん付けしたらダメだよ」


 花音と呼ばれた茶髪の女子生徒は真昼の弁当箱の横に自分の弁当包みを置くと、誰もいない席から勝手に椅子を引っ張り出し勢いよく腰を落とした。


「桃香ちゃん、この椅子借りても大丈夫かな?」


 花音の後ろからついてきた黒髪の女子生徒は空席の椅子を軽くなでながら小さな声で桃香にたずねた。


「いいよ、いいよ。使って」


「ありがとう」


「いつも思うけど、性格だけは真反対だよね」


 憤慨している花音を覗き込みながら真昼は白米を口に運んだ。


詩音しおんが良い子ちゃん過ぎるんだよ」


 花音はいつの間にか真昼の机の上に弁当箱を広げ、早くも食事を始めている。


 真昼と桃香の共通の友人である椿つばき花音と椿詩音は一卵性双生児であった。当然、同じ場所で生まれ、同じものを食べ、同じように育ったはずなのだが、どういうわけか2人の内面には大きな差異が生じていた。


 姉の花音は派手好きで社交性も高く自己主張の強いタイプだが、妹の詩音は内向的で物静かな控え目の性格であった。そのため“普段から問題ばかり起こす姉”と“終始振り回され続ける妹”という役割分担が彼女達の中にできあがっていた。


 ただ、そんな太陽と月のような2人にも双子らしい大きな共通点が1つある。それは外見的な姿形である。細かな違いはあれど、髪を黒く染めて控えめな表情をした花音がポニーテールを下ろした詩音の横に並んでしまえば、友人の真昼であっても即座に判別できないほど2人の容姿はよく似通っていた。


 その上、二輪咲きの山百合を擬人化したようなその容貌は、意図せず人の視線を引き寄せてしまうほどの純粋な美しさがあり、入学当初は「ヤバい美少女姉妹が入学してきた」と、それなりに校内を賑わせてもいた。


「花音、“いただきます”を忘れてるよ」


「はいはい、いただいてまーす」


 詩音は呆れたように深いため息をつくと、膝の上に置いた弁当包みを開き始めた。


「やっぱ机2つで4人は狭いって、4つ並べちゃお?」


 そう言うが早いか桃香は立ち上がり、すぐ隣の机をつかむと椅子ごと一緒に向きを変え始めた。


「はいはい、かのちゃん、その椅子の机も持ってきてくださーい」


「え、マジで?」


 真昼は椅子を抜き取られた机を箸で指すと、自身の机からの退去を迫った。


 かくして4つの机は陸続きの大陸となり、小島の領土争いから解放された少女達はそれぞれの支配地域へと収まった。


「ねぇねぇ、夏休みさ、みんなで海行こうよ、海!」


「海って、新潟?どうやっていくの?」


「パパに車出してもらえばいいよ」


「仕事があるでしょ。それに夏休みイコール海って短絡的すぎない?」 


 花音と詩音が夏休みの計画を勝手に立案している中、真昼は黙々と箸を進めていた。桃香は「みんなで海」というフレーズに少なからず関心を示しているようだったが、残念ながら真昼の心を揺り動かすだけの力を持ち合わせてはいないようだった。


 もちろんみんなで海に遊びに行くことが嫌なわけではなく、普段の真昼であれば率先して話に加わっているだろう。しかし、今の真昼の心中はそれどころではなかった。

期末試験が終了し順当な結果を出す事ができた開放感からか、本人も押えきれないほどの強烈な多幸感に包み込まれていたからだ。


 その結果、意図的に感覚器官を使用していないと大抵の外部信号は幸せのカーテンによってシャットアウトされてしまい、頬がゆるみきった締りのない顔だけがアウトプットされていた。


「とにかく任せといてよ、なんとかパパにお願いしてみるからさ」


 先ほどから逐一計画の粗さを詩音に指摘されていた花音だったが、桃香と真昼の表情から賛同を得たと確信し、満足気に話をまとめにかかった。


「あれ?花音じゃん、今日はこっちでメシ食ってるん?」


 突然、背後から声を掛けられ花音は振り向いた。そこには購買部で購入してきたらしい総菜パンを持った男子生徒が立っていた。


「なんだ、恒美つねみか。どうかしたん?」


「どうかしたって、それ、俺の机なんだけど」


「だから?」


「――まぁ使わないからいいけどさ、汚すなよ」


 恒美は呆れ顔でその場を後にし、教室の隅で一人食事をしていた男子生徒のそばに歩いていった。


「机貸してね、ぐらい言わないとだめだよ花音」


「いーの、いーの、適当に相手しとけば」


「適当って、大網おおあみ君が可哀想でしょ。塾で話す時もいい加減な態度ばかりしてるし」


「だってウザいんだもん。昔からそうだったじゃん、何かにつけて話しかけてくるの」


「小学校から大網君と同じ塾だっけ?」


 桃香が口をはさんだ。


「そ、ずっと腐れ縁。まさか同じ高校に通うことになるとはね」


「でも花音ちゃんと詩音ちゃんのお母さんすごいよね、前まではいつもあそこまで送り迎えしてくれてたんでしょ?」


「うん、家のそばにも塾はあるんだけどママの知り合いの勧めでね」


「面倒臭がってたけどね。自業自得だよ」


「花音、ママにそんなこと言っちゃダメでしょ」


「そうそう!それより昨日の夜にすっごい面白い動画見つけちゃって、絶対桃香が好きそうなヤツ」


 午前中の授業で溜め込まれた圧力を一気に放出するかのように3人の会話は止まることなく続いていた。


 その後、話題の定まらない彼女達の会話は、花音が猛スピードで走り出せば並走していた桃香が何の前触れもなく左折する。詩音が皆を制止して来た道を戻ろうとするが、花音はいつの間にかはるか彼方を1人で爆走している。そんな調子であった。


 真昼は機械的に相槌を打ちながらも、淡い微笑みを浮かべたまま一人黙々と食事を続けていた。

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