還暦サラリーマンの迷走

@isasa130

第1話

 武井孝雄、サラリーマン生活三十八年。あと二年で還暦定年である。一般的にはその後五年間の延長はあるだろうが、待遇は保障されない。仕事内容も収入も思いのほか苦しいと先輩方は言っていた。

 今後どうなるだろう。武井は営業の世界で脚光を浴びるような時代もあったが、登り詰めるまでには至らない。そもそも八百人の営業組織を経営陣に変わって束ねられる器ではないだろうし、ずっと現場が好きなタイプでもある。

 しかし、昨今の時代の変化についていくのは大変だ。十年前から稟議書は紙ではなくワークフローであり、会議はリモート会議の時代。更にどんどん変化していく。新しく覚える事が次から次へと現れる。知らないカタカナ言葉に知っているような顔をして、こっそりスマホで検索して乗り切っている。一ヶ月もしたらまた新しいカタカナ語が飛び交っている。

 そんな時代に業務改革が行われる事になった。八百人の営業組織を六地区に分けていたが、その地区管理体制を見直すらしい。その一員だった武井は次のステージを待つ立場にあった。同僚の中には転職を考える者もいれば、営業の現場に戻ると言う者もいる。

 そんな折にグループ会社の保険部門の社長が武井に声を掛けてきた。

「武井君、うちに来ないか?営業部長として。」

「すいません。ありがたいお誘いなんですが、僕、保険はずぶの素人ですよ。」

「それでいいんだよ、保険の事は勉強して覚えればいい、このグループで長年営業に居た武井君だからできる仕事があるから。うちに来れば六十五歳まで安泰だよ。」

「そうですか、でも僕はサラリーマンですから、今の直属の上司が何と言うかですよね。」

「じゃあ私が話してみるからいいね?」

「はぁ、そうですね。」

 グループ傘下の保険会社である。武井も何年か前に保険の募集人資格試験には合格している。保険金と保険料の区別さえ知らないでいたが、一時勉強して合格はしている。しかし本気で販売したことは無い。そう、既にほとんど忘れている。

 社長は、武井より二つ年上で紳士的な人だ。他社の保険会社からの引き抜きでグループに入社した。穏やかに話し、グループの営業とは少し違うタイプのようだ。

グループの営業はどちらかと言うと勢いと乗りで突っ走るタイプの営業会社である。誰かが落ち込んでいても誰かが元気で突き進んでいる。全体として、四十年前ならば、駅前でセールスガラスを歌わせるようなガッツで走るタイプの会社である。たまに、はみ出したり、スピードオーバーを犯すやんちゃな営業もいるが、それがこの会社の持ち味的な所がある。

 この社長は全く違うタイプで武井にとって嫌いなタイプでは無い。どちらかと言えばこんな上司はいいなと思っていた。

 そして次のステージが分からない今、ありがたい誘いでもあった。特に定年を間近に控えた壮年期の武井にとって次のステージは予想さえ難しい。なぜならば、年齢・残り年数。

 会社としては将来を見越して人材を育成したいはずである。ある程度のポジションを若手に与え、長期的に組織を運営したいはずだ。次世代の育成である。武井も若いうちからポジションを与えられて管理職に就いていたからこのグループの考え方はわかる。しかし、上層部に食い込めなかった現場主義者はあるタイミングで邪魔になるのかも知れない。多くの先輩方を横目で見ていたが、いよいよ自分の番かもしれないと思った。保険業界の事は素人でよく分からないが、それでも良いとおっしゃるのならば誘いに乗ってみよう。

 そして社長が再び声を掛けてきた。「武井君決まったよ。グループの専務から了解が出たから、来年の早いうちに移動になるから。よろしく。」

「そうですか、よろしくお願いします。」もう後戻りはできない。

 あとで知った事だが、社長は武井の直属の上司には一言も相談しないでグループの専務に直接提案して了解を取り付けたらしい。武井の上司は決まった後に専務から言われた訳で、そうとうヘソを曲げたと人伝えに聞いた。


 そうは言っても決まった事で、それから三ヶ月後には転籍となった。その保険部門は9階建てグループ本社ビルの5Fフロアの一室にひっそりと入居していた。グループの営業本部は同じビルの3階と4階に入居している。たまに元の上司と顔を合わせるが「頑張れよ。」とは言ってくれたがほとんど話す事はなくなった。まぁ仕方ない。

 そして肝心の新しい職場は、わずか八名の保険会社である。営業部長と言う肩書きはもらったが、年収はほんの少し減額になった。騒ぐ程ではない。

部下は三名の女性営業スタッフのみ。女性スタッフはそれぞれ数年の経験があり、日々の業務に部長の助けはいらない。それよりも武井自身が部下から色々と教えてもらう状況だ。

 何がどこに置いてあるとか、伝票の処理・保存場所、パソコンのデータに関する事はかなり多岐にわたり、必要な項目を探すのにも一苦労だ。それらの社内の情報管理を覚えるだけではなく、肝心の販売商品を熟知しなければならない。保険の規約・しおりを理解するだけではなく、保険業法は今まで聞いた事もない代物だ。いや、おそらく試験には出ていたのかも知れない。代理店制度も専門用語が飛び交い、理解できないことが多かった。

 ある日、武井は理解できないことがあり、社長に質問をした。社長は「パソコンの社内共有に書いてある。」と言う。入社当時から同じ事が2度あった。どうやら基本的に口で教えるよりも自分で調べて身に付けさせると言う指導方法のようだ。手法の一つではある。ただ、あの社内共有の中から一つの項目を探して答えを見つけるのは大変な作業である。読み込むだけで半月以上かかるだろう。どのフォルダーに何が格納されているか題名だけでは分からない。

 結局部下に教えてもらう事が何度もあった。そんなわけで、女性スタッフは武井のことを部長とは呼ばない。「武井さん」と呼ばれている。今まで長年肩書きで呼ばれて仕事をしていたので少し違和感を感じていたが仕方ない。誰よりも仕事を知らない新米部長なのだから。

 一週間二週間と時間が過ぎて二ヶ月が過ぎた頃、保険金支払いのクレームが発生した。ご主人の死亡に対する保険金請求である。業務の電話対応に腹を立てた奥様からのクレームである。相当怒っているらしい。社長から訪問して対応するように言われた。業務から対応に必要な書類を受け取り訪問した。

 お客様の言い分はもっともな言い分であった。家族を失って間もない遺族に対する電話対応が事務的すぎる、冷たすぎると。更に、トラブルになる余計な発言を一つ、業務のお局さんは言ってしまったようだ。実を言うとあの業務の女性は少し言葉が単調すぎて結構クレームがあるのを部下から聞いていた。

 武井はお客様の言い分をしっかりと聞かせて頂き、何度もお詫びした。「今後再指導させていただきます。」と何度も頭を下げた。少し落ち着いたタイミングで事務手続きに必要な書類を説明し用件を済ませた。武井はついでに奥様ご自身の保険を考えてみませんかと振ってみた。少し前まで叱り飛ばされていたが、奥様も落ち着いてきたタイミングである。ご自分の言い分を理解してもらえれば、商品に不満があるわけではない。そして奥様の新規保険契約を頂いてきた。

 事務所に戻り、電話対応に対するクレーム内容を報告したが、業務のお局さんから言い訳のような文句がでた。新米部長に対しては業務のお局さんも引いてはいない。

武井は「どんな言い分も通用しないでしょ、お客様が感じた事でそう感じさせたのはあなたの言い方に問題があったからでお客様のせいではないから。」と社長の前で言いきった。これは保険の知識外の問題だ。何も言い返してはこなかった。

 そして奥様の保険契約書を別の事務員に提出した。保険金請求のクレームから新規契約をもらってきたわけだ。その事務員さんが驚きながら。

「あのお客様から新規の契約を貰ってきたのですか?」

「そうだよ。」

 皆が注目するのを感じた。そして社長が驚いた顔で武井を見ていた。

 そもそも、全く興味を待たないでそっぽ向いているお客様よりは、クレームとは言えこちらを見ているお客様の方が可能性は高い。過去にもクレームやら解約対応から事を収めて新たな契約をもらう事には慣れていた。


 そのころから皆が「部長」と呼ぶようになった。一人でお客様と対応することにも慣れてきた。社内の日々の業務にも慣れてきた。

 そして日頃感じていたことだが女性スタッフが、コートを机の引き出しに丸めて入れていたり、籠を足元に置いてその中に収めている姿が気になっていた。

「ロッカーとか無いの?」

「あれば助かるんですけど。」

 武井は翌日の朝、早速社長に相談した。

「社長、このあたりにパイプ式のハンガー掛け置いたらどうですか?ホームセンターで安いの買ってきますよ。」

「うちの会社はそういう物は置かないんだよ。」

 一言で断られてしまった。まぁなにかこだわりがあるのかもしれない。その時はそんなふうに思っていた。しかし、二日後の朝、出社すると、パイプ式のハンガー掛けが設置されていた。社長が皆に。

「ハンガー掛け買ってきたから皆で使いなさい。ハンガーが足りなければ言ってくれ。」

「わ~社長ありがとうございます。」

 皆が喜んでいた。武井も一緒に「ありがとうございます。」とは言ったが、心の中でちょっともやっとしたものを感じた。社長の本当のところはよく知らない。

数日後、社長に「夕飯兼ねてちょっと飲みませんか?」と声をかけた。意外な言葉が返ってきた。

「男と二人で飲む趣味はないなぁ。」

「そうですか、それではまたの機会に。」

 もしかして嫌われているのかな?翌日武井は業務の次長に聞いてみた。次長は「社長らしいですよ。気にしなくて大丈夫です。そのうち慣れますよ。」と多くを語らない。まぁ大した事では無いので流すことにした。

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