拾玖

 キラの左腕が折れてから、約半月。高熱は二日ほど続いたが、その後は常の状態に戻った。自力で起き上がり、用足に動く程度のことはできたが、消耗した体力の回復は覚束ず、仕事を再開することはできずにいる。

 とは言えども、片手が使えず、庇いながらの生活にも、いくらか慣れてきていた。


 しとしと、と。雨音が続くこと丸三日。翌朝、ようやく姿をあらわした太陽は、湿気た地面に、熱い光を落とした。

 輝く露に濡れる青葉。同居人の母子が過ごす、離れの向こう側。広大な庭園の中に、いくつか聳え立つ古い樹木たちのうちの、ひとつが、花を咲かせていた。椿に似た、しかしもっと小ぶりな、真白いかんばせ。

「夏椿、咲いたんだなぁ」

 朝食の席で話題にあがったその樹を、医館の主である双子と、彼らの世話をし世話になっている母子が、並び立って仰ぎ見ていた。

「夏椿。わたし、沙羅の樹だと思っていました」

「別名だ。でも、そっちのほうが、馴染み深いかもな」

「ここのが咲いたなら、大社の方も咲いているかしら」

 低い位置に咲いた一輪の花弁を、ふわりと撫ぜ、サラは呟いた。

「あっ。そういえば、お社の境内にもありましたっけね。立派な沙羅の樹が」

「株分けされたんだよな。そういう話を聞いてる。どっちが先にあったのかは分からんけれど。元々、あっちの山に自生していたのを、こっちに分けたのか。うちに植えて育てた樹を、社の方に分けたのか」

「きょうだいですね」

「はてなぁ。きょうだいなのか、親子なのか。いや、種から育ったわけじゃないなら、きょうだいなのかな」

 などと、キラとカヲリは語っている。

「たった一日しか咲いていられないくせに、ちゃんと実を作るんだから。まあ、なんていうか。大したものだよな」

 と、キラはしみじみともらした。

 近くの岩に腰掛けて、ポヤリとしていた少年が、すっかり懐いた青年へと、大きな瞳を向ける。 

「一日しか咲かないの」

「そうさ、この頃の季節の朝に、ポッと咲いて、夕方には地面に落ちてる」

「えぇ。もったいない」

「もったいない、って。なんだそれ」

「一年に、一日しか咲かないんでしょ。白くて、あんまり目立たないし。誰にも気づかれないで、咲いて散っちゃいそう」

「ははぁ。しかし、樹はべつに、人に見せるために花咲かせてるわけじゃあないし、一日で用が足りるんなら、それでいいんだろう。それに、一日だけだって、毎年咲く。たまに、咲かなかったり、二回咲いたりするけれど」

「でも、やっぱり、一日だけって。寂しい」

「寂しい、か。そうだなぁ」

 しんみり、とした空気がまとわる。

「儚いよな、たしかに。椿にかたちが似ているから、って、名前につけられていても。おれはあんまり、似ているとは思わねえんだよな。椿のほうがずっと、なんていうか、強そうだ」

「椿、お好きなんですか。お庭の真ん中に、立派にありますものね」

「好きっていうか」

 カヲリの問いに、キラは庭の中央の方へ目線をやった。そちらには、まるで一本の樹のように絡まりあった二本の椿が、濃い緑の葉を茂らせている。

「憧れとか、羨み、かな」

「羨み」

 キラの返答に、いまいちピンときていないようすながらも、相槌だけを打って、カヲリは沙羅の木へと眼差しを戻した。

 サラは、顔の高さに咲いている夏椿の花に、頬を寄せる。

(自己を投影しているのでしょう、この儚い花を咲かせる樹に。この樹はここに何百年も立って、あちらの椿の樹を、どんな気持ちで眺めているのでしょうね。椿の代わり、みたいな名前で呼ばれて。椿のようにして、花を咲かせたりなんて、しないのに)

「ほんとうは、なんて呼ばれたいの」

 小さな花綸に、ポソリと、サラは問いかけた。答えなど、返りはしない。彼女は、ふぅ、と嘆息した。

「今年は、気づけてよかったわ。去年も、一昨年も、気づいたときには、散ってしまっていたから」

「ああ。婆さんが死んでからは、ことさら忙しかったからな。この時期は、具合悪くする人らが増えたりで、庭のようすなんて、気にかけていられなかった」

 朝日に照らされた、白い顔貌。ここ数日で、よくよくほっそりとした。

 日々失われていく血。柔らかいばかりの食事では、新たな血液をつくるのには、あまりにも心もとなく。

 白い襦袢のまま、血色の失せた顔と、首すじと、手首の先をさらし。黒く艶めく長髪を、結びもせずに流した、長身の、怪我の腕を吊った、痩せた美男子。

 サラの視界から、他人の存在は消え去る。ただ唯一の愛し人のみを、その黒く潤む瞳に映す。

(まるで、この花みたいね。いつの間に、そんな姿になってしまったの。あなたの内側ばかりを、見ていたせいかしら。いっそ、高潔なくらいに気丈だから、気づけなかった。やっぱりあなたは、この樹に似ている。花ばかりを見ていれば、かよわくて、儚いかもしれないけれど。何十年、何百年と、立ち続けて。枝葉を大きく広げて、見えないところに、深く、広く根を張って。たった一日で散る花を、毎年毎年、咲かせるの。ねえ、あなたは、あちらの椿が強くて、羨ましいと言うけれど。わたしは、この建物の影に隠れている樹が、昔から、いっとう好きなのよ)

 そうして兄の姿を横目に考え事をしていた。しかし、それは彼の妹だけではなかったらしく。

「なんだか、キラさん、神様みたいですね」

 と、カヲリが言った。

「はァ。神様ァ。どこがァ」

「うぅん、どこが。こう、背が高くて、スラッとしていて。でも、髪を下ろしていると、中性的な雰囲気で」

(それに、生気が薄い)

 と、サラは喉の奥で付け加える。

(たしかに、今のあなたは、なんだか人ならざるものみたいよ)

「神様ねェ。そんなら、スクナに成り代わってやりてぇな」

 と、キラは白い顔をうつむかせて、口の端に笑みのかたちを浮かばせた。


 ややして、キラは、フラリ、フラリと寝床に戻っていった。ミノリもまた、先日彼の叔父が様子見がてらに届け置いていった、外国の、子供向けの物語を訳したものの続きを読みに、部屋へと帰った。

 まだ、早い時間帯。医館の門は開けてあるが、客人が訪れる様子はない。夏椿の下に、女ふたりが残されて、しばらく惚けたように、貴重な花の姿を仰ぎ見ていた。

 と、カヲリが柔く声を発した。

「キラさん、大丈夫ですか」

 当人に是非を問うたところで、はぐらかされる。それが分かっているのであろう彼女は、彼の妹に問うことにしたらしい。

「あまり、芳しくはありませんわ。街で、噂だとか、耳にしますか」

「ええ。近頃は、お仕事もお休みがちだから、と。あちらこちらで、様子はどうですか、と訊かれます。わたしは、素人だから、としかお答えできませんけれど」

「お気遣いをさせてしまって」

「そんなことは。むしろ、こんなときに、息子の、わたしたちの面倒をみてくださって。感謝しかありません。なにも、大したこともお返しできなくて、少々もどかしいです」

(訊いて、みようかしら。この人に。おかしいかしら)

 と、迷う娘の心を見透かしたように。

「わたしで、お力になれることがあるのなら、なんでも、おっしゃってくださいね。これでも、お二人より少しだけ、長生きしていますから」

 そう言って、カヲリは微笑んだ。

「それじゃあ、お訊きしても、いいでしょうか。不躾だと思うんですけれど」

「訊いてみてくださいな」

「旦那様のこと、愛しておられたのですよね」

 サラは、木の根元を見下ろしながら、尋ねた。傍らの女人が、その問いに対してどのような表情を浮かべたのか、サラは視界におさめることはしなかった。

「ええ、もちろん」

「お亡くなりになったとき、どうやって、気持ちに折り合いをつけましたか」

「折り合い、ですか」

 サァ、と。ぬるい風が吹き抜けた。

「折り合いは、今でも、つけられてはいないかもしれません。もっと、わたしにしてあげられたことは、なかったんだろうか、って。酔って、川に落ちて死んだんだ、と、周りの人たちは言いましたけれど。わたしは、あの人はしらふで、自分から川に入ったんだと思います。彼がもし、僕と一緒に死んでくれ、と言ったなら。わたしは、そうしたでしょう。けれど、彼はついぞ言わなかった。ミノリがいたからです。彼が、どんな思いで日々を過ごしていたのか、わたしには、想像もしきれない。でも、わたしが今でも生きているのは、ミノリがいるから。それだけは、たしかです」

「ミノリくんの存在は、大きいですか」

「それは、もう。あの子のために、生きているんです、わたしは。あの子が、わたしを生かしてくれているんです」

「そうですか」

 また、サァ、と、ゆるやかに風が通りすぎていった。

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