第7話 陰鬱な同期

 カワカミリースの終業時間は18時である。基本得意先の訪問は就業時間内に行われるので、残業は殆ど発生しない。しかしカフェ・シュガーパインの様に相手の営業時間外での訪問を希望される事が希にあり、その場合は特別料金を幾ばくか支払っていただき、要望を叶える事になっている。


 その日、山崎保やまざきたもつの業務は就業時間内につつがなく終了し、ロッカールームで作業つなぎからスーツに着替えていた。


「山崎ぃ、お疲れさん」


「おう、お疲れ」


 ロッカールームに入って来たばかりの同期の佐々木ささきが、いつもの様に気軽な調子で声を掛けて来た。ロッカーが保の斜め前なので、朝や終業後の更衣時間にこうして顔を合わす事が多かった。


 同期にはもうひとり男性社員がいて、前原まえばらと言う。前原はロッカーが違う列なので、ロッカールームで会う事はあっても挨拶以上の会話をする事は少なかった。それでも以前は終業後に3人で飲みに行ったりもした。だが佐々木の結婚を期に、その機会はぐんと減った。


 前原が嫌いな訳では無いし、特に悪い人間だとも思わない。しかしふたりで飲みに行く気にはなれなかった。前原に時折見え隠れする陰気で鬱な気配が、保は苦手だった。陽気な佐々木が一緒にいる事でどうにか打ち消せていたのだと思う。


 陰気、と言うか根暗な人間などいくらでもいる。保が過去関わって来た人間の中にだっていた。それはその人間の個性とも言えるもので、赤の他人である保が否定する権利などは無い。だが好き嫌いは別だ。拒否をする権利はある。


 保とて明るい人間であるという自負は無い。しかしひとりの陰鬱は下手をしたら周りの人間に伝染する事がある。前原の陰気さにはその気配があった。保はそれに巻き込まれたく無かった。


「なぁ、今日暇か? 軽く飲みに行かへん?」


「え、奥さん待ってるんやろ?」


「今日、つか週末までおれへんねん。実家に帰っとんねん」


「へぇ、ほな行くか」


「よっしゃ。あ、前原も誘うか」


「……ああ、そうやな」


 佐々木と3人なら、まぁ構わない。そう思い返事をした。保が前原に抱いている誉められたものでは無い感情は、佐々木には話していない。話そうとも思わない。


 そう言えば、佐々木は前原の陰気さを何とも思っていないのだろうか。佐々木は陽気で、そして楽天家だ。あまり物事を深く考えないという、プラスともマイナスとも言える特徴がある。


 ……確かに何も思っていないのだろう。佐々木が前原の陰気さを打ち消すのだから、彼が気付く筈も無かった。それに前原もいつでも鬱々としている訳では無いのだ。社内でも気付いている人間は少ないだろう。


「おるかなー」


 そう言いながら佐々木が前原のロッカーの列を覗き込む。と言ってもロッカー列はふたつしか無いのだが。


「あ、前原、軽く飲みに行かへん?」


 いたみたいだ。ロッカーの壁越しにふたりの会話が聞こえて来る。


「ちょっと用事あるから、それまでええなら」


「何や何やぁ? 彼女でもできたか?」


「想像に任せるわ」


「格好付けやがってぇ」


 どうやら話がまとまった様である。保はロッカーからビジネスバッグを取り出した。


 ……ああ、彼女という単語で思い出した。カナはあれからどうしているだろうか。痴漢に追い掛けられたと言って、得意先であるカフェ・シュガーパインに避難していたところに、保が仕事で訪問して偶然再会し、話を聞いて心配だったので営業車で家まで送った。


 あれから機会も無く、また情けない事に勇気も出ず、どうなったかを訊く事が出来ていなかった。何せ保は振られた立場なのだ。あれから怖い目に遭っていないと良いのだが。


 金曜日にはまたシュガーパインを訪問する。その時にでもそれとなく聞いてみようか。「知り合い」だと言う事はシュガーパインの従業員には知られているのだから、不自然では無いだろう。


「前原行くってよ」


 佐々木が戻って来た。


「ちょっと待てな。すぐに着替えるから」


 そう言いながら、佐々木は開きっぱなしになっていたロッカーに両手を突っ込んだ。




 カフェ・シュガーパインの定休日は水曜日である。警察官である冬暉ふゆき以外は当然休日になる訳なのだが、春眞はるまたちはいつもの時間に起きる。4人揃って茉夏まなつが作る朝食を摂り、冬暉を送り出す。


 それからは各々好きな事をして過ごす。茉夏は「セール攻めて来る!」と言い残し、午前中から出掛けて行った。先週の定休日もセール目的で春眞と秋都あきとと3人で天王寺てんのうじに出掛け、結構な買い物をした筈なのだが。今日は別の街にでも行くのだろうか。


 そうして見ると、やはり茉夏は女性なのだなと思う。一人称は「ボク」だし言葉使いは中性的で性格は男勝りだが、外見はしっかり女性だしお洒落にも気を使う。月に一度はネイルケアにも行っている。


 茉夏を見送って、春眞はリビングに行く。テレビを付けるとサスペンスドラマの再放送をやっていた。ザッピングして行くが、他に面白そうな番組は無かったので、結局サスペンスドラマに戻った。


 だらりとソファに掛け、画面内で行われるドラマを追って行く。なかなか面白い。主人公と思われる中年刑事が食えなさそうで味があった。春眞たちにはシュガーパインがあるので、夜のドラマなどをリアルタイムで見る事は殆ど無かった。なのでこのドラマも初めて見るものだった。


「春眞〜、だらしないわねぇ〜」


「ん〜」


 まともに返事をする事も億劫で、春眞は口をつぐんだままうめきの様な声で秋都に反応した。


「今洗濯機回してるから、終わったら干すん手伝ってね〜」


「ん〜」


 はいともいいえとも取れる反応だが、これまで余程の事が無い限りすっぽかした事は無いので、これは「はい」の意味だ。秋都も心得ていて、「ん」と満足げに小さく頷くと、リビングを出て行った。


 家事などはできるだけ営業日に片付ける様にしている。定休日に少しでも多く休息を取る為だ。春眞と秋都が仕込みなどをしている間に茉夏が住居スペースの掃除をして、洗濯機を回す。それが終わってからシュガーパインの掃除仕上げなどに掛かるのだ。冬暉が休みの日にはふたりで家事をやってもらっている。


 脱衣所からピーピーと音がする。洗濯が終わった音だ。それから1分程してドラマが終わったので、春眞はテレビを切って立ち上がった。良いタイミングだ。終わらなかったらラストだけでも録画していたかも知れない。


「あら、よろしくね〜」


 洗濯機の前で秋都と鉢合わせする。ドラム式洗濯機を開けて、洗い上がった服などを洗濯かごに移している最中だった。


 里中家では洗濯物は家干しだ。ベランダはあるが、もし外から洗濯物が見えてしまってはカフェの雰囲気など台無しである。なので1番狭い部屋を洗濯物干し部屋として使っている。


 ふたりはせっせと洗濯物を干して行く。これが終わったら、そうだな、何をしよう。長居公園に散歩に行ってもいいかも知れない。まだ寒いが、長居植物園では山茶花さざんかなどが咲いている季節である。


 しかしなかなか思う様にはいかないものである。


「春眞〜、これ終わったらお買い物付き合ってねぇ〜」


 まぁいいか。どうしても行きたかったわけでは無い。


「はいよ」


「今日は「お客さま」が来るのよ〜」


「あ、そっか」


 うっかりしていた。そうだ、今日はお客さんが来るんだっけか。じゃあ今夜はごちそうだな。春眞は期待して口角を上げた。


「今日はお鍋よ〜」


 真冬にお鍋、ぴったりである。冬のご馳走だ。何鍋にするのだろうか。大阪では昆布出汁で作る水炊みずたきが定番である。寄せ鍋やうどんすきも良いな。春眞は濡れた茉夏のメイド服をぱんぱんと軽く伸ばした。

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