書かない小説家①

2023/03/04①


 いつも通りの、天井。

 ぱっちりと目が覚めた。

 人が寝て、その姿勢のまま目を覚まし、最初に見るものが天井、というのは人生に何回あるだろうか。

 大抵の場合、夢現なまま、のそのそと動きだしたり、時計を見たり。

 最近であればスマートフォンを見たりだろうか。

 兎にも角にも、稀有な体験であろう。

 覚えていないだけかもしれないが。


 しかし、これだけの良い目覚め、というのはいつ振りだろう。

 それだけ今日のことを楽しみにしていたのか、緊張していたのか、それとも両方だったりするのか。


 そんなことを思いながら、ゆっくりと起き上がる。

 よく寝た、というよりは、よく目覚めた、と表現したくなるような、良い目覚めだった。


 洗面所に行って顔を洗い、口を濯ぎ、鏡を見る。

 冴えないおじさんが一人、仏頂面でこちらを見ている。

 面白味のない顔だ。

 それに偏屈そうだ。

 なんとも嫌になる。


 台所に行き、小鍋に湯を沸かす。

 粒状出汁、それに乾燥わかめと豆腐。

 火を止めて、味噌を溶き混ぜる。

 昨日の冷飯をレンジで温め、その間にパックの漬物を取り出す。

 味噌汁を椀によそって、白飯と漬物と共に、テーブルに並べる。


 いただきます、と心の中で唱え、無言で食べた。


 別宅で過ごすのも慣れたものだ。

 本宅にいる妻とは、たまにしか顔を合わせない。

 それが私たち夫婦の秘訣なのかもしれない。


 

 

 さて、準備をするか。



 今日は久々の妻とのデートなんだ。



 


 

 十五年以上前に仕立てた一張羅は未だに現役で、私の身体にぴったりと合う。

 無銘の町の職人が細々と、というような店で作っていただいたものだが、丈夫で着心地が良く、大変気に入っている。

 今は息子が継いでいると聞いたが、どれ今度、もう一着ほど仕立ててもらうか。

 普段は服など着れればいい、と気にしないのに、良いものを着ると不思議なもので心が前向きになるのか、こういったことを考える。

 冬物のコートも同じ店で仕立ててもらったもので、暗いグレーがお気に入り。

 ブランド物や最近の既製服と違い、多少重みがあるものの、それはそれで心地よい。

 何より、この重さが鬱屈した日本の冬を耐え忍ぶような頑丈さを醸し出している気がして、それが良い。

 同じ生地で作られた中折れ帽も気に入っていて、それを被って歩くと、なんだか昔に観た映画の主役になったようで、心がしゃんとする。


 歯も磨いた。

 顔も洗った。

 服も皺はない。

 散髪には昨日、行った。

 忘れ物はないか。

 ハンカチも財布も、スマートフォンも鍵もある。

 煙草……は吸う機会がないかもしれないが、一応。


 ああ、本。

 本をどうするか。

 いつもなら、コートの内ポケットに入れて歩くのだが。

 ……今日は、いいか。


 鏡を見ると、そこには厳格そうな男。

 うむ、なかなか決まっているではないか。

 

 アル・カポネに憧れた若かりし頃の私よ。

 それほどではないが、そこそこいい男になれるから安心しなさい。



 そうして、家を出て、妻を迎えに本宅へと向かった。






 本宅の玄関を開け、おおい、と声を掛ける。

 はあい、と返事がして、しばらく待つ。


「お待たせしました。あら、すっかり見違えて」


 そう言って出てきた、着物姿の妻。

 その姿に、呆気に取られる私。

 そして出たのは次の台詞。

 

「お前、観劇に行くんじゃないんだぞ!」

「あら、普段着ですよ」


 そうは言ってもだな……

 

 着ているのは、大島紬。

 焦茶か濃灰色というか。植物の煎汁液と鉄分を含む泥土で染められた独特の有機色。

 職人による丁寧な染色と手織り。

 蘇轍をモチーフにしたその柄は龍郷柄といい、これまた機械織では表現のしにくいものだ。

 それに西陣織の白の帯を銀座結びにして。

 着物としての格は高くないし、元より普段着とは聞いたことはあるが、それにしてもこいつはいい値段がしたのを覚えている。


 着物、というだけでなんとなく着飾っている印象があるのに、何も私と出掛けるだけでそのような格好をしなくてもよいのだ。


「あなただって、そのスーツ、大事な時にしか着ないって言ってたじゃあありませんか」


 そういって、ころころと笑う妻になにも言い返せなくなってしまう。

 よく見ると、薄らと化粧をして、唇には紅が刺してある。

 アップに纏めた髪と着物と帯のシルエットが相まって、それは大層な美しさだった。


 ごくり、と唾を飲み込んでしまうと、妻はそれを見て声をあげて笑う。


「わたしも、まだまだいけますね」

「いいから、早く行くぞ」


 照れ隠しにそう言うと、ちょっと待ってください、と羽織りを着て戻ってきた。


 家を出て、鍵をかける妻を待つ。

 春の陽気がさすような暖かそうな空なのに、風が少し冷たい。


 おまたせしました、と隣に立つ妻。

 無言でポケットに入れた手を少し持ち上げると、自然と腕を取ってくれた。

 道行く中、なんとか吊り合いが取れているといいが、と思いながら、二人で百貨店に向かっていった。





 混み合う電車と人混みを抜けて、百貨店に辿り着く。

 なんだ、この人の多さは。

 土日に外になど出ない私には少々堪える。


 着物が見たいという妻に、わかった、と答え、エレベータに並ぶ。

 疲れてはいないか、と聞くと、あなたのほうこそ、と返される。

 嬉しそうな笑顔に、私も笑みが漏れた。


 そうして、7階にある着物売り場へと着くと、さすがにここは閑散としていた。

 今日日、百貨店で着物を見る、というのはなかなかないだろうし、混雑の原因はおそらく春休みだ。

 若い人でこういうものに興味がある人、というのも珍しいだろう。

 そう思っていたが、フロアには意外と若い夫婦や、いいところのお嬢さん風の女性がいて、まだまだこういう文化を愛する人はいるのだな、と安堵する。

 途中、やっていた陶芸の個展などを見て、やはりよくわからないな、などと話していると、案内係が


「こういうのは、綺麗だな、とか、家に置きたいな、とかで見ていいんですよ」


 と、教えてくれた。

 最終的には壁や他の調度品と合わせたときにどういう景色を表現できるか、などや、それ単品の力強さをもってしても負けないほどの置き場所というのを感じ取れるようになるという。

 そういうものか、という感想しかでないあたり、私の審美眼というのは全くもって鍛えられていないのだろう。


 色々と見てまわりながら、とある店前まで行くと、妻に声がかかった。

 なんでも、着物好きの集まりで仲良くなった人の娘さんだとかで、話は弾む。

 最初に適当に挨拶をしたきり、生地が柄が、などという着物の話になど入れないので、ぼーっとショーケースの中のものを見ていると、後ろから声がかかった。

 振り向くと、妻が申し訳なさそうな顔で、言う。


「もう少し、お話しながら見たいのですけど、いいですか」


 そんな上目遣いで言うんじゃない。歳を考えなさい。

 と、思うも、その表情に思わず赤面してしまうのだから、私も私である。


「もちろん。では、煙草でも吸ってこようと思うんだが」

「ええ、ありがとう」


 いつもの喫茶店にいる、と告げると、わかりました、と妻。

 歩き出そうと振り向くと、後ろから、良い旦那さんですね、とか、自慢の旦那なの、とか、小っ恥ずかしいったらありゃあしない。

 私は逃げるようにエスカレータで降りて行った。






 

 百貨店を出て、そういえば、と立ち止まる。

 確か、あの喫茶店の前には書店があったよな、と。

 そうして思い出す。


 ああ、私は書かねばならんのだった!

 すっかりと忘れていた!

 どうしたものか!


 本を見れば、何かいい案が浮かぶかもしれん。

 そうだ、そうしよう。


 書店に入ると、そこはなんとも小洒落た空間で、場違いな感じがして堪らない。

 雑誌コーナーを抜け、奥にある美術コーナーに向かう。

 写真集や、絵画の本などそういったものからインスピレーションを受けることも多いからだ。

 しかし、どうにも今日はだめだ。

 いや、今日も、と言うべきか。

 仕方ない。

 大人しくコーヒーでも、と、足早にその場から立ち去ろうとして、足が止まる。


 そこは、小説のコーナーだった。


 

 立ち並ぶ、流行りの小説達。

 煌びやかなそれは、どれも名前を聞いたことはあっても読んだことがあるものは少ない。

 次々と生まれる名著達。

 その眩しさは、私のようなマイナーな文芸の端っこに名を連ねているようなものには、届かない栄誉。


 歳を重ねると、弱気になってしまっていかんな。

 自重気味に笑うと、隣のコーナーが目に入る。


 色とりどりの色彩と、漫画タッチの絵。

 そして長ったらしい題名達。

 ライトノベルと呼ばれ、近年流行っているそれは、もはや私の理解の範疇を超えていて、その色彩も相まって目が疲れる。

 いやはや、過去の純文学作家達も同じ気持ちで大衆小説作家を眺めていたのだろうか。

 そう思いながら、一番目立つものを手に取る。

 売れているし、流行っているのだ。

 その理由は必ずある。

 試しに一冊、読んでみるか。

 アニメやゲームと同じく、文化として発展したものを理解もせずに否定するのは、同じ文化人として作者やファンに失礼というもの。

 と、思ったが、表紙の可憐な少女と目が合う。

 

 金髪に煌びやかなドレス。

 きつそうな目つき。

 まるでお伽話に出てくるお姫様のような。


 そして、本を棚に戻した。

 こんな格好をしたおじさんが、この本を買う姿を想像して、腰が引けたのだ。


 やれやれ、歳を重ねると、弱気になっていかん。


 そう思いながら、書店を後にする。


 さて、コーヒーでも飲みに行くか。

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