俺たちのアルガニア

ドル チイダ

亜人種 ゴブ男の場合

 此処(ここ)はアルガニア、人間たちにとって未開の樹海と大地が広がる大陸。この世界の人間たちは、アルガニアの住人にとって、とっても野蛮で、とっても好戦的であり、徒党を組んでやってくる恐ろしい存在であった。


 すなわち、出会ったら終わりである。アルガニアの住人である魔物たちが返り討ちにできる例も一応あるにはあるが、結局のところ人間たちは不思議な力を使い、身体(からだ)を癒し、強化し、炎を飛ばし、雷を落とす。歩く天災とも言える彼らの存在に極力遭遇そうぐうしないためにも、常日頃から魔物たちの間でこう教えられていた。


『アルガニアの森から出てはならない』


 さて、ここで一つの集落に焦点を当ててみよう。

 森の中にある集落に住んでいる彼らは亜人種。その中でも、身体は小さく肌は緑がかっており、耳と鼻がとんがりギザギザの歯が見え隠れする醜悪な顔立ちをしている種、ゴブリンである。

 彼らを数える時は一匹と言うべきか一頭と言うべきか、はたまた一人と数えるべきか。二足歩行を可能とし、二本の腕に小さな手。人間と比べれば指の本数こそ一本少ないかもしれないが、一人、と数えても遜色(そんしょく)はないか。


 ただ、彼らは弱かった。不器用なせいか、知能が人間と比べて少し低いせいか、醜悪な見た目のせいか、もしかしたら紙一重の差が原因かもしれない。

 だが、彼らは人間に簡単に負ける。容赦無く殺される。そうして狩られた命は人間たちの経験値という形で吸収され、どこかで輪廻転生を経て記憶を無くした状態でまた産まれるのだ。


 ここに一人のゴブリンが居た。なんの特徴もない、というよりは皆が皆同じ見た目なので、目を離したらすぐに分からなくなってしまう。ただ、他のゴブリンと比べて少し背が低めであり、大人とも子供とも取れる見た目だ。

 恐らく彼は子供だろう。同じような背丈(せたけ)の子は沢山(たくさん)居るし、そもそも見ろ。だらしなく涎(よだれ)を垂らしている。木に成った実を見上げて垂涎(すいぜん)する彼は、実を獲得(かくとく)しようとか特に手段を講じることなく、ただただ羨ましそうに目を輝かせていた。


 仮に、彼の名前をゴブ男としよう。ゴブ男が今考えていることは、きっと食のこと一色だろう。あの実を食べれば美味しい、お腹が脹(ふく)れる、今日が幸せになる、なんてお気楽ワードを並べているに違いない。

 だがそれでいいのだ。彼らは基本的にその日暮らしで、食料を貯めて寒冷期に備えるとかそんなことは考えない。生と死は常に隣り合わせであり、同じアルガニアの森に住む違う種族の大半に対して力が及ばない存在なのだ。

 もちろん人間なんて以(もっ)ての外(ほか)。それを本能的に解(わか)っているからこそ、今日を生きていればそれでいいのだ。


 そんなゴブ男が恋をした。それは人間の女だった。彼らは時折(ときおり)非力な人間を鹵獲(ろかく)し、子を産ませるための媒体(ばいたい)とする。人間たちにとってそれは非合法的であるが、そのぶん彼らは人間に殺されている。力無き者はアルガニアにおいて、死以上の苦痛が与えられる可能性もある。持って生まれた才能が劣っていた種族は、彼らなりに生きる方法を見出しているのだ。


 今日も女性の悲鳴が響き渡る。毎日のように洞窟の奥で行われる繁殖の為の儀式、彼女にとっての生き地獄。事が終わったあとは最低限の食料と水が与えられ、人間に適していないそこらの虫を調理として出したものは当然体が受け付けず、女性は吐いてしまうこともしばしばあった。

 ゴブ男は夜、その女が居る洞窟の中に忍び込んだ。大人たちは宴会をして笑い合い、一人くらい子ゴブリンが居なくなろうと特に気にされることはない。


 所々に松明(たいまつ)が壁に掛けられた薄ぼんやりとした空間の中、大人も子供もそう変わらない容姿をしているゴブ男の登場に、女は諦めのこもったため息と共に無抵抗にそれを見つめていた。手枷(てかせ)をされ、それが壁に埋め込まれた金属と鎖で繋がれており、とてもではないが自力では脱出できない状態で放置されている。手が自由になるのは儀式の時のみで、食事もその時限りだ。


 ゴブ男は骨張った身体と頬(ほほ)の痩(こ)けた女性を見て、興奮よりも同情が先に湧き上がった。彼は木の実を見て涎を垂らすようなやつだが、恋をした人に対しては少しばかり頭が働くようだった。

 何もしない彼をしばらく見ていた女も、次第に疑問を浮かべた表情に変わっていく。

 洞窟奥深く、外の音はまるで聞こえないそこは、恋の物語が始まってもおかしくはない雰囲気を持ち合わせていたが、異様な光景の前にそれを思い浮かべる者は一人も居ないだろう。


「あなたは、なにをしにきたの?」


 掠(かす)れた声で、問いかける彼女は聞いたあとに一人苦笑した。亜人種に対しての問いかけなんて、そろそろ自分が限界を迎えようとしているとしか思えない愚行だと彼女自身思ったからだ。

 しかし、初めて女の喋り声を聞いたゴブ男は、何かを問われていると感じて急に挙動不審になる。その表情から伝わる困惑を見て、女は一筋(ひとすじ)の希望の光を見たような気がした。


「これ、解(と)いてくださる?」


 そう言った彼女は、手枷を前に差し出すように体勢を変える。その意図が分かったのか分からないのか、しばらく見つめるゴブ男はゆっくりと女に近づいていく。

 肩を強ばらせる彼女だったが、次の瞬間その手を優しく握るゴブリンの姿を見て、思惑(おもわく)とは違ったが久しぶりに心ある者と出会ったような喜びが込み上げ、人間の感情を目から流して爆発させた。


 わなわなと落涙(らくるい)する彼女を見たゴブ男は、その行為の意味が分からなかった。手を差し出したから握ってみただけなのに、どうして泣くのか幼い彼には分からなかった。いや、ゴブリン全体がそれについて理解せよと言う方が酷なんだろう。それほどまでに縁のない光景だったのだ。


 声を殺して泣き続ける彼女をなんとかできないだろうかと、恋とは違う感情が芽生え出す。少し前まで木の実の事しか考えてなかった彼は、すっかり見違えたように表情に箔(はく)が付いていた。

 ゴブ男は彼女を繋ぐ手枷とそこから伸びる鎖、そして壁を見る。本来、亜人種の中でも最も知能が低いとされるゴブリンというものは、目の前に出された謎かけよりも肉や女を食らう人種であり、彼のように思索(しさく)する姿を見せるのは特例中の特例だっただろう。


 そんな彼の様子を目を赤くして見ていた女は、一縷(いちる)の希望を抱いてしまった。仮にここから脱出したとしても、出入り口はひとつしか無く、その入り口付近で宴会をしているゴブリンたちに見つかるのが関(せき)の山である。

 絶望のままならまだ死ぬまで無痛を保てたかもしれない彼女は、一度抱いたこれが心の枷(かせ)になるだろうと予感していた。


 その時、ゴブ男は女の手を離して、背中を向けて歩き出す。気紛(きまぐ)れで弄(もてあそ)ばれたのだろうかと思った彼女は、しばらく呆気(あっけ)に取られたあと憤怒(ふんぬ)の表情を浮かべて俯(うつむ)いた。

 やはりゴブリンなんかに希望を抱くんじゃなかったと、彼女は心の中で自らを責める。ゴブリンに捕まった時点で、命運は尽きたのだと血の涙を流す。すすり泣く声が洞窟にこだまし、嗚咽(おえつ)を抑えられない女は泣いたおかげで冷静になったのか、余計な体力を使ってしまったと自嘲(じちょう)していた。


 だが、自らの泣く声とは違う音が洞窟に響き、ぴたりと泣くのをやめて彼女は耳を澄(す)ませる。

 ゴブ男はその手に石で作られた斧を持って、再び彼女の前に現れた。その足が視界に映ったのか、顔を上げた女は信じられないといった表情でゴブリンを見つめた。

 それはこの残酷な世界で彼女が初めて抱いた感情であり、消えかけてむしろ恨みの炎の糧(かて)となっていた希望が、涙を完全に止めてしまったのだ。


「ゴブッ」


 ゴブ男は壁に指差し、壁に埋め込まれた金属と繋がる鎖の根元に近づいていく。そして頼りなく斧を振り上げて、遠慮無く叩きつけた。


 亜人種の力というのは、見かけによらず強大である。少なくとも生身の人間の肉を素手で裂(さ)けるほどには、強力な腕力が備わっている。

 それは子供であろうと例外では無く、頼りなく見えた細腕には血管が浮き出て、叩きつけた箇所にあった鎖は元の形からひん曲がり、それを二、三続けた後に千切(ちぎ)れかけになった鎖を彼は掴んで乱暴に引っ張った。


 耳に障(さわ)るような甲高い音が一瞬響き、破片と共に千切れた鎖。それを見た女は喜びを隠しきれずに口角が上がるが、すぐに自らを戒(いまし)めた。例え鎖から解放されても、手枷がある上に洞窟からは出られない。出たらすぐに見つかって、酷い目に遭うか死より恐ろしい状況に戻るだけだ。それが分かっている彼女はそれ以上喜べず、ゴブ男はその表情を見て自分が間違っていたのかと焦った。


 女はそれでも、彼に感謝の意を込めて笑みを浮かべて頭を下げた。ここまでしてくれてありがとう、とだけ伝えたのだ。ここまでならまだ、老朽化(ろうきゅうか)により勝手に鎖が千切れたんだと解釈(かいしゃく)してくれるかもしれない。そう思った彼女は、このまま彼が去るのを待っていた。


 しかし、ゴブ男は去ろうとせずにあろう事か再び彼女の手を取る。困惑の表情を見せる女は思わず首を振るが、彼は凛々(りり)しい表情で一心(いっしん)に彼女を見つめる。

 

「外に出ても、あなたのお仲間が居るんでしょ? 本当に鎖を切ってくれたのは嬉しいけど、でも……」


 掠れた声でそれも言葉の通じないゴブリンに対して何を言っているのかと、言葉を切った彼女は顔を背けた。

 その仕草を見たゴブ男は手を離して、再び洞窟の出口側へと歩いていく。彼を見送る彼女の顔は先程と違い、聖母のような笑みすら浮かべており、穏やかな表情のまま姿が見えなくなるまで見つめていた。


 再び独りになった女は座り込み、炎で揺れて様々な影を作る天井を見つめる。希望を抱いたあとの絶望が待っているはずの彼女の顔は不思議と晴れやかで、夢でも見ていたかのような惚(ほう)けた表情をしていた。

 

 洞窟を出たゴブ男は、炎を囲む無数の同族を見つめる。彼らが宴会の時に好んで飲む酒は、近くに住むリクアルという四足歩行のまるまる太った獣の体内から採れる液体が原料であり、それを薄めたものを飲んでいる。

 それは非常に強力なもので、酒に強いとされるゴブリンでさえ、一定数飲むと昏睡(こんすい)してしまうと言われている。


 そんな酒を大人たちは少しずつ飲み、子供たちは酒以外のものに肖(あやか)るのだ。いずれはそれを飲みたいと思う羨望(せんぼう)の眼差しは、大人たちの飲酒量を加速させる仄(ほの)かなスパイスだ。

 しばらくそれを見つめていたゴブ男は、同じ子供のゴブリンに声を掛けられる。どこに行ってたんだと詰められるが、用を足してたと答えると彼は笑いながら宴会の中心で告げ口をした。


 彼は皆から笑われたが、その一方で頭の中は初恋の女のことでいっぱいだった。彼女が悲しむのはあの場に居るせいだと理解している彼は、同胞(どうほう)たちを欺(あざむ)く方法ばかり考えていた。

 そこで、彼は酒に目を付けた。大人たちはもう右も左もよく分からないほど出来上がっており、子供たちは退屈そうだ。だから、こっそりと酒を取ったゴブ男は、子供たちに提案をする。


「ゴブゴブゴブ? (飲んでみたくないか?)」


 彼の提案に最初は難色(なんしょく)を示していた子供たちだったが、元来(がんらい)本能で生きているゴブリンは基本的に欲求に従って行動しており、段々と好奇心が多数派となってゴブ男の周りに集まり出す。

 大人たちはそんな事より仲間内で話す方が大事そうで、彼らの動きなど素知らぬ状態であった。


 ゴブ男は酒の入った容器を嗅(か)いでみる。強烈な臭いに顔を顰(しか)めそうになるも、我慢した彼は笑みを浮かべて目の前に立つ子供に渡す。

 既に飲みたくて堪(たま)らないといった様子であった彼は、恐る恐る一口含んで飲んでみる。彼の喉を通り食道に行く過程で内側から焼くような感覚が駆け抜けて、思わず舌を出す彼の顔は滑稽(こっけい)なものだった。


 その反応にもしかして良くないものではと不安がる子供たちであったが、すぐに気持ちよさそうに顔を歪めた彼を見てやっぱり飲みたくなったのか仲間内で回し飲みを敢行(かんこう)する。

 ゴブ男はその様子を見守りながら、集落中の子供が酒を味わうまで待っていた。


「ゴブ! (お前も飲めよ!)」


 最初に提案したのに飲もうとしないゴブ男に不満を持った子ゴブリンが、酒を突き出した。集まる視線を躱(かわ)すためにも、彼は容器に口をつけて傾けて、

 そして、如何にも飲んだように喉を鳴らして、最初に飲んだ彼の真似をするように凄い形相(ぎょうそう)で舌を出す。

 笑い声が響いて酒を取り上げた彼らは、再び回し飲みをしていく。


 一応飲んだふりをするためにだらしない顔をしてみせるが、それをする頃には全員訳が分からなくなっており、足取り怪しく座り込むものや、既に寝入っている者すら出てきていた。

 大人たちも鼾(いびき)をかきはじめ、やがて焚き火が弾ける音だけが辺りを支配したのを確認したゴブ男は、女の元へと踵(きびす)を返して歩き出す。


 少しウトウトとしていた彼女は、足音に反応して目を覚ます。時間の感覚が分からないために警戒しながら奥を見つめ、鎖が切れていることに気づかれないように切れた箇所を背にして待ち構える。

 すると、見えてきたのは子ゴブリンであり、一人で来たのを見た彼女は先程のゴブリンだと信じた。

 やがて近づいてきたゴブ男は震える女の手を握り、ゆっくりと頷(うなず)いて立つように促す。


「もしかして、出してくれるの?」


 彼が再び戻ってきたという意味を考えた彼女は、震えた声で問いかける。

 言葉の意味が分からずとも、表情を見て悟ったゴブ男は再び頷いた。

 ゆっくりと立ち上がった女はゴブ男に導かれて、一歩、また一歩と進んでいく。長らく歩かなかった弊害(へいがい)で、筋肉が削(そ)げ落ちた足は自らの体重を支えるだけでも精一杯に見えた。


 そんな彼女を労(いた)わるように、歩幅を合わせて先導するゴブ男。ゆっくりとした歩みはやがて洞窟の外まで辿り着き、意を決した彼女はそのまま外へと脱出した。

 女は自分が見ている光景が信じられず、何度も辺りを見渡す。まるで争った形跡も無いのに、ゴブリンたちが全員倒れているのだ。しかしよく聞けば寝息が聞こえ、彼らが眠っているだけだと気づいた彼女はゴブ男に顔を合わせる。


 静かに頷く彼は、宴会の場を避けるように回り込んで進んでいく。そして、真夜中にも拘(かかわ)らず森の中へと足を踏み入れた。

 夜に活動する魔物は数多くおり、ゴブリンたちとて襲われれば一溜(ひとたま)りもない。だからこそ彼らは群れで行動するし、それによりなんとか格上にも勝利することがあるのだ。


 今、手枷をされた非力な女と、未熟な子ゴブリンのみが踏み込んでいる所は、アルガニアの森の中で東部に位置する場所であり、東に抜けるとすぐに人間たちが村や街を建設した草原地帯となっている。

 子ゴブリンとはいえ、ゴブ男はこの地で生まれ育った種族。土地勘に優れ、鼻が利(き)く彼は時折立ち止まって耳を澄ませる。鼻で感じたら音で聞く、闇の森を進む彼は危険予知を徹底していた。


 その一方で、裸足で森に踏み込んだ彼女は既に足の裏が血だらけになっており、歩く度に感じる痛みに耐えていた。ゴブリンの足の裏は強靭(きょうじん)で、基本的に何かを履くこともしない。だが、人間は違う。

 流石(さすが)にゴブ男でもそこまで気が回らず、彼女の耐えている様に気が付けなかった。


 その時、草を掻き分ける特有の音を耳の良いゴブ男が捉え、彼女の肩を掴んで共にしゃがんだ。

 彼の突然の行為に驚きながらも、人間でも共通の危機を察知した時の行動に、自然と顔を強ばらせる。

 複数の音を鳴らす先には、数頭のアベスドッグが居た。彼らは漆黒(しっこく)の毛皮で、さらにそれらは魔力を帯びさせる事で仲間たちに連絡を取ることが出来る特殊な素材であった。

 人間界でも通信手段用の魔道具として重宝される彼らの毛皮だが、討伐(とうばつ)は困難を極めるという。


 何故(なぜ)なら、彼らは行動を起こさずとも魔力による通信で仲間と連携(れんけい)が取れるため、大抵は近づく前に逃げられるか、若しくは返り討ちに遭(あ)ってしまうからだ。そう、彼らは狩りが得意であり、さらに危機管理能力も突出している。

 唯一(ゆいいつ)付け入る隙があるとすれば、彼らの身体能力は並の獣(けもの)と同等であり、強靭な肉体を持つ者なら力押しで何とかなってしまう点だろう。


 さて、ゴブリンからしたらどうだろうか。答えは勿論(もちろん)、天敵だ。アベスドッグもまた群れることが多く、例えゴブリン側が多くとも、その動きに付いていけないために敗北する場面も珍しくはない。

 増してや負傷し非力な人間を連れた単体の子ゴブリンなぞ、彼らにとってはただの餌(えさ)でしかない。それを本能的に理解しているから、ゴブ男は身を伏せて息を潜(ひそ)めたのだ。


 何が居るのかも分からず、ただ暗黒の中で息を潜めるのは並の人間なら精神がどんどん削れていくだろう。だが、女は既に地獄を経験しており、むしろ外の風や匂いに触れて落ち着きすら取り戻す始末(しまつ)であった。

 しばらく隠れたのちに音が遠くなっていくのを聞いて、ゴブ男は木の影から音の方向を眺める。夜目(よめ)が特別利くわけではない彼だが、とんがった鼻を何回か動かして、匂いで距離を感じ取っていた。


 女の方に振り向いて、小さく頷くゴブ男。まるで人間のような仕草に、同じ仕草を返す女。それは段々と彼に信頼を寄せてきている証拠であり、彼のあとを付いて行く彼女の表情からは、足の痛みなど気にもならない様子だった。

 そして、木々の間を掻き分けて少し開けた場所が見えた頃、水のせせらぎと共に川が流れているのを二人は発見する。


 辺りを警戒しながら、ゆっくりと彼女を川へと誘導するゴブ男。開けているために星の光が空には浮かび、夜の間に昇(のぼ)る一際(ひときわ)大きなもうひとつの太陽と言われている神の目が、二人を明るく照らしていた。

 女は川に近づき、傷つき赤くなった足を入れる。季節としてはまだ温暖期ではあったが、流石に川の水は冷たかったのか身体を震わせる。


 次に川の水で少し手を洗ったあと、水を掬(すく)って口へと運んだ。手枷のせいで上手く手の器(うつわ)を作れなかったが、少量でも喉を通った水は彼女に生きる喜びを実感させるのには充分(じゅうぶん)過ぎた。

 それを見ていたゴブ男は、真似をするように自らも水を掬って口に運ぶ。しかし上手く口に入らずダラダラと涎のように口の端から垂らしてしまい、それを見た女は小さく失笑してしまう。


 はっとした女は笑みを隠すも、ゴブ男は彼女が笑ったのを見た瞬間に目を奪われていた。子供ながらにも情欲(じょうよく)というものを種族の特性上持ち合わせていたので、それの意味をあまり理解していなくとも自らの股間(こかん)部に手を伸ばして戒めるように強く握る。

 その行為を見た彼女は驚きを見せるも、彼もまたそういう種族なんだということを思い出して顔を背けた。


 気まずい時間が流れてしまい、ゴブ男は首を振って立ち上がる。彼は最終的に何を求めているのか、自分でも分からなくなっていた。いつ魔物に襲われるか分からないこの場で己の本能に従うのは簡単ではあったが、敢(あ)えて彼はそうしなかった。

 女もまた、そうしなかった彼に少し違和感を抱いていた。彼の股間は膨(ふく)らんでいた。つまり、そういう事をされるのだろうとある種の覚悟を抱いていたにも拘わらず何もされなかったからだ。


 川から足を出して、女も立ち上がりゴブ男を真っ直ぐ見つめる。神の目の明かりに照らされた彼女の顔は窶(やつ)れていたとはいえ、生気をある程度取り戻した表情はどこか艶(つや)やかで美しさを放っていた。

 強い視線を受けて、ゴブ男は困惑する。彼女が怒っているのではないかと疑(うたぐ)り、少し後退した。


 その様子に気づいた彼女は、さっと視線を外した。そもそも二人同士言葉が通じないのだ。仕草で勘違いされたら彼女にとってそれは堪(たま)らないものになる。それを危惧(きぐ)して、しおらしくゴブ男を上目遣(うわめづか)いで見つめた。


 その行為に彼は答えを持ち合わせていなかったが、まだ安全ではないこの環境で出来る事と言えば、彼女を安全な場所まで送り届ける事であろうと決意めいた表情で応える。

 やがて顔を背けたゴブ男は再び彼女の手を取り、川を迂回するように歩き出し、森の中に姿を潜めるように入っていく。女は再び自らの足に試練を課(か)すことに抵抗なく、彼に手を引かれたまま付いていく。


 背丈としては、ゴブ男の方が低い。それは亜人種の中で最も背が低いゴブリンの宿命であり、大人になっても人間たちの子供とあまり変わらないのだ。頭ひとつ以上の背丈(せたけ)の差がある二人の画(え)は、ゴブ男が手を引いていることで一層違和感あるシルエットを見せていた。


 歩き続けて一時間は過ぎた頃、二人は奇跡的に魔物に出くわすことなく東方向へ進み続け、人間の領域にそろそろ足を踏み入れる所まで来ていた。

 彼にとってそれは限界に近い、所謂(いわゆる)デッドラインというものであり、そこを超えればもはや命の保証は無い。


 順調に進んでいたその歩みを突然止めた彼は、木々が密集する闇の中で、ゆっくりと女の方へ振り向く。

 彼女は既にそういった行為に対して怯えも戸惑いも見せなくなっており、凛々しい子ゴブリンの顔を見つめて小首を傾げる。

 

「ゴブ、ゴブゴブ」


 彼が初めて彼女に対して発した言葉は、当然人間が理解できるものではなかった。しかし、その後に悲しそうに表情を変えたのを見た女は、彼が別れを告げているのだと理解した。


「そう、お別れなのね」


 決して彼女の言葉を理解したはずではないゴブ男は、儚げに呟く女の言葉に対して小さく頷く。

 辺りはやけに静かで、二人の空間に水を差さないようにアルガニアの神が配慮(はいりょ)をしているような、そんな静寂(せいじゃく)が彼らを包む。


「どうして、私を助けてくれたの?」


 答えが返ってこないことを理解していながらも、彼女は問いかける。ゴブ男は女の表情を見て、何をすれば正解なのかがわからず頭を掻いた。


「……ありがとう」


 彼女はしゃがみこみ、ゴブ男の手を取る。そして、ゆっくりと顔を近づけて目を閉じて、惚ける彼の唇に口付けをした。

 女が顔を離したあともしばらく固まっていたが、彼は咄嗟に股間に両手をやり、彼女に対して背中を向けた。

 それを見て微笑んだ女は、手枷をされた腕を上げて、彼を包み込むように上から下ろして身体を寄せる。


 次から次へと突飛(とっぴ)な事をする彼女の行動に、どうしていいか分からないゴブ男は口を開けたまま目を泳がせる。ゴブリンにとってこのような行為は有り得ないものであり、流石の子ゴブリンでさえ繁殖行為の際に何をするかを知っていたため、彼女の抱擁(ほうよう)は彼を酷(ひど)く動揺(どうよう)させた。


 静寂が流れ続ける中、ようやく離れた彼女はしゃがみ込んだままゴブ男の背中を見つめる。おずおずと振り返った彼は彼女と目が合い、気まずくなったのか目を泳がせた。

 それもしばらくしてから落ち着いたのか、ようやく彼はちゃんと女と目を合わせる。


「ゴブ」


 彼は手を差し出し、女は応えるようにそれを握る。そして、ゆっくりと離した。

 俯いたゴブ男は来た道と反対方向へ歩き出す。彼女はそれをずっと目で追っていたが、彼は振り返ることはない。


 その時、忘れかけていた世界の音が蘇(よみがえ)り、ゴブ男の耳が何かの気配を察知した。

 慌てて踵を返して女の元に近づく彼を見て、周りで異常が起こったんだと彼女は察知(さっち)する。

 二人はしゃがみ込んだまま耳を澄ませ、ゴブ男は鼻をスンスンと鳴らした。


 彼らは気づいていなかったが、既に空は白んでおり、朝を迎えようとしている時刻。そんな時間帯になると流石に現れてしまうのだ、そう、彼ら魔物が恐れる存在が。


「そこに居るのは分かっているぞ」


 人間の男の声が、ゴブ男たちの居る方へと向けられる。彼らは三人で行動しており、身に付けた装備はそれぞれ手入れされていて小綺麗に見える。その中で先頭の男が鞘(さや)から剣を引き抜いて、警戒しながら一直線に二人へと近づいていた。


「もしかして、冒険者……?」


 女の声は希望で少し弾んではいたものの、傍(かたわ)らで共にしゃがみ込んでいる彼の存在を気にかけた。人間たちにとって魔物はただの経験値であり、見逃される理由が無いのだ。そうなってくると、女は覚悟を決めてゴブ男に目配せをする。


 彼女の決意に満ちた目を見て、ゴブ男は小さく首を振る。永遠の別れになることを本能的に感じ取った彼は、危機が迫ろうとも本能に抗う行動をしてしまった。だが、そんな彼に構わず彼女は微笑みを残して立ち上がる。


「助けて!」


 叫びながら女は冒険者たちの元へ駆け出す。その姿を見て虚を衝(つ)かれた男は呆気に取られるも、ボロボロの格好(かっこう)で手枷を嵌(は)めている彼女を抱き締めるように受け止める。


「どうしてこんな所に?」

「私、魔物に捕まって……なんとか逃げてきたの、

「一人だと? そいつぁ運が良かったな」


 女を抱き締めた男の後ろにいた大柄な男は、禿(は)げている頭を撫(な)でながら感心する。


「でも、本当に一人でここまで来たの? 捕まるということは、魔法も使えないのよね?」


 大男の横に居るつり目の女が、問い詰めるように女に話し掛ける。


「まあまあ、良いじゃないか。とりあえず捜索(そうさく)依頼は達成したんだし」

「……そうね、このアルガニアの森で保護できただけでも大きな手柄(てがら)よね」


 冒頭で述べた通り、このアルガニアの森では人間たちが鹵獲(ろかく)されたり殺されたりする例も珍しくはない。

 その為、人間の国ではそういった人々の捜索依頼が出されている。多大な報酬が貰えるそれは、冒険者にとって大きな稼ぎとなり、森の入り口付近で捜索する者たちで絶えないのだ。


 だが、ひとたび奥まで足を踏み入れば、巨大すぎる森の中で方向を見失い、ミイラ取りがミイラになる例が起こりうる。よって、行方不明になった人間が見つかるというのは稀有(けう)な例であり、彼らは小さな疑問を払拭(ふっしょく)して無理やり納得したのだ。


「じゃあ、行こうか。歩けるかい?」

「ええ、ここまで歩いてきたもの」


 気丈(きじょう)に振る舞う彼女は、男に笑ってみせる。

 その様子を聞き耳立てて窺(うかが)っていたゴブ男は、雰囲気を感じ取って彼女が害されることはないと思い安堵(あんど)する。

 

「でもよぅ、大変だっただろ? ほら、おぶってやるよ」


 鼻の下を伸ばした大男が彼女に手を伸ばし、顔を引き攣(つ)らせた女は思わずその手を押しのけた。

 それに対して顔を引くつかせた大男は、機嫌悪そうに口を開く。


「あ? なんだ? なんで拒否するんだ?」

「おい、よせよ。彼女だって、酷い目に遭ったんだから」

「てめぇは黙ってろ」


 どうやらこの徒党(ととう)の中で大男が一番の実力者であるらしく、男もその横に居るつり目の女も何も言わずに諦(あきら)めたように身を引いた。

 そんな中、ただならぬ声を聞いたゴブ男は、その表情を険しくしていく。


「おい、今度は拒否んなよ?」


 そう言って彼女の服を強引に掴み、引き寄せる。


「嫌っ!」

「あ? なんだこの女!」


 大男が怒声を上げた瞬間、草むらからゴブ男は飛び出していた。自分が愛した女が害されている、その事実に彼の身体は勝手に動いていた。


「ゴブリン!?」

「こっちに来るぞ!」


 その時、ゴブ男は女と目が合った。彼女は彼の行動に驚愕と落胆(らくたん)を覚え、酷い顔をしている。

 それに対してこの行動が意味することを既に悟っていた彼は、彼女が見ていることをしっかりと認識した上で口角を上げて微笑んでみせた。それは彼女から学んだ仕草であり、声ではなく表情で会話をしていた彼からの最期(さいご)のメッセージだった。


「うおおお!」


 先頭に居た男がゴブリンに対して袈裟(けさ)斬りをし、それを避(よ)けることもできずに彼は呆気なく斜めに身体を両断され、肉の落ちる音が無造作に響いた。


「いやああああ!」


 その姿を見て、激しく取り乱した女は叫んだ。慌てた大男は彼女の口を塞(ふさ)いで叫ぶ。


「馬鹿! 魔物が寄ってくるだろうが! おい、行くぞ!」


 暴れる彼女を持ち上げて、三人はその場から逃げるように走り出す。

 その様子を地面から見上げていたゴブ男は、口から赤い血を垂らしながら悲鳴を上げる彼女の声を聞いていた。


 彼にとってこうなることは、飛び出す前から分かっていた。アルガニアの森から出てはならないという教えに背いた彼に訪れた、当然の結果だった。

 しかし、それでも譲れない感情がゴブ男を突き動かした。ゴブリン同士の生活の中では決して得られなかった特別な感情を胸に、彼はゆっくりと目を閉じる。


 此処はアルガニア、魔物たちにとって母なる樹海と大地が広がる大陸。ここに一人の亜人種の子供が命を落とし、そしてまた何処かで生まれ変わる。

 願わくば、愛した彼女と彼が再び巡り会えますように。


──亜人種 ゴブ男の場合 完──

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