縄張り争い

 実落の縄張りは広い。これは縄張り争いに勝ち続けた結果だ。

 通常、狼同士の緩衝地帯が狭まることはない。実落が縄張りを増したぶんだけ、他の縄張りは削られていく。そうして獲物と狼との距離が近づけば、狩られる側の獣は怖がって、より広い縄張りの方へと逃げて行く。

 強い狼の元に獲物が集まる仕組みは、こうして出来上がるのだ。


 狩りで使わなかった方面は、鳴葉と朱果が巡回することになっていた。主に狼が侵入していないかを調べ、獲物の発育や実り具合も確かめる。痕跡を見つけた場合は、すぐに遠吠えで警戒を促す。もし、入り込んだ狼と出くわしてもふたりは手出しせず、一度引いて主導者の判断を待つのだ。


 鳴葉は山側の緩衝地帯との境目にある『クジラ岩』に着いた。背中は平らで、腹はネズミを丸飲みしたヘビのような形をしている。ついていたはずの尾びれは根本から折れており、ひれの端は地面に埋まってしまっている。クジラは海の生き物だという。その巨体に圧倒された人狼が、岩を削って作り出したらしい。風で草が揺れると、緑の海を悠々と泳いでいるようにも見える。


 鳴葉はクジラ岩の周囲にある段差を利用して、平たい背に乗った。遠吠えで報告をすると、すぐに実落の返事が届いた。どうやら朱果の方でも異常はないようだった。

 鳴葉は緩衝地帯を探ってくると実落に告げて、クジラから飛び降りた。


 山側の緩衝地帯にも、陽炎と止柊の恩恵が見られる。

 得られる恵みは人狼によって異なり、その効果は大地から一方的に与えられるらしい。止柊の恩恵は体に出る。縄張りにいる獣やムシ、植物までもが平均よりも大きいと陽炎が話していた。体格の差は争いで優位に働くし、巨大な実は少数で腹を満たすだろう。

 陽炎の恩恵は沼だ。命の源が近くにあるのは、とても恵まれている。沼のなかでも湯が湧き出るものは温泉と呼ばれていて、喉を潤すには適さないけれど、浸かると疲労回復の効果があるので好む獣が多い。

 鳴葉が踏み込んだ緩衝地帯には、陽炎と止柊、そして山の雌人狼の恩恵があった。雌人狼の恵みは数に関係していたらしい。特に植物への効果が顕著で、春になると甘い匂いが混ざり合い、縄張り近くでも種類豊富な果実が味わえた。ところが今は、匂いに偏りが出ている。実をつける植物が少なくなっている証拠だった。


 鳴葉が沼の近くを通りがかったとき、水辺でくつろぐシカの親子がいた。母親は鳴葉に気づいたが、横目に眺めるだけで動こうとしない。子どもは母の胸に吸いついて、彼に気づいたかどうかも怪しい。


 どんなに腹が空いていても、水辺で安らぐ獣を狩ってはならない。それは肉食の獣における不文律である。血は水を汚す。その水を土が吸えば植物の育ちが遅くなり、いつか獣の首を絞めるだろう。シカもそれを知っているから、水場の近くで子育てをしているのだ。


 草原を過ぎると、緑の匂いがぐっと濃くなった。土がぬかるんでいるのは、密集した木々のせいで日が入りにくく、地面が乾きづらいせいだ。雨上がりでもないのに足跡がいくつも残る。そのぶん小さな水たまりも増えた。

 鳴葉は立ち止まって、ひときわ大きいくぼみに鼻を寄せる。


「クマ、かな。それも大きい」


 再び足を進めて道を行くと、いくばかの光が差し込む空間に出た。地面にはぽつぽつ淡い色の花が咲いている。あちらこちらを苔が覆い、澄んだ沼には木々が映る。あたり一帯が深緑に囲まれているかのようだ。

 その中央に泰然と構える二本の大樹があった。周りに咲く花は潰され、横倒しになっている。花びらすらつけていないものもあった。

 鳴葉は周囲にくっきり残った痕跡に目をやってから、大樹の根に飛び乗った。

 根と地面の隙間にある空洞。以前、鳴葉が葉を運んで敷き詰めて寝床とした穴だ。そこには記憶にない木の実が転がっている。鳴葉は鼻を下げた。クマのにおいがたっぷり染みついている。


「取られちゃった」


 長居は無用とばかりに、鳴葉はそそくさと根から離れた。


 鳴葉が次に向かったのは草地だ。

 鳴葉は緩衝地帯にいくつかの拠点を持っている。拠点は縄張りにある居とは違い、骨休みのためにこしらえるのだ。気軽に作れるぶん、留守が長ければ先ほどの穴のように奪われもする。


 春の草地は花が群生し、甘い香りで満ちていた。強風が吹いてもこの濃さを保てているのは、目と鼻の先に壁となる断崖があるからだ。そのうえ、崖にも植物が根を張り、可憐な花を咲かせている。

 器用に断崖を横断するヤギや、蜜を集め終えて上空を行き交うムシたち。巣穴から出てきたウサギが丸い尻を揺らして駆け回り、鳴葉は涎をすすりながら彼らを眺める。それがいつもの、草地での過ごし方だった。

 鳴葉は盛大に顔をしかめる。


「うわ、怖……」


 穏やかな風景にはとても似合わない、強烈なにおいがする。この場に立っているだけで、うなじに牙を押し当てられているような恐ろしさがあった。

 全員まとめてこっちに来るなと、立ち入りすら禁じている。どうりで獣の姿が見当たらないわけだ。


「ウサギの庭にいた狼のにおいだよな。なんでこんなにおいつけたんだろう。怖すぎてぞくぞくする。一歩でも入ったら殺されるんじゃないか?」


 草地にはこれ以上近寄らず、すぐにでも立ち去るべきだろう。

 鳴葉はすぐ近くの木にぶら下がった赤い実をもぎ取り、しっかりくわえたまま全速力で駆けだした。


 草地を抜け、川沿いを歩く。河端から対岸に向けて、水面を覆うように木の枝が伸びている。枝葉は中央まで届き、それらの先に咲いた黄と橙の花が列をなして奥まで続いていた。さながら天を流れる花の川だ。

 鳴葉は岩陰で休む川魚を跨ぎ、丸みを帯びた石の上を慣れた足で進む。断崖の上を目指して進むと、やがて緩急ある斜面に変わった。鳴葉の横腹を柔らかな草が撫でる。

 足場が平らになったところへ行き着くと、鳴葉はあ然とした。


「いったい何があったんだ?」


 ネズミやリス、モモンガなどの小柄な獣が仰向けに転がっていた。死んでいるのかと思ったが、息遣いは聞こえるので気を失っているだけだろう。周囲には草地で嗅いだばかりのにおいが薄く残っている。


「威嚇に巻き込まれたのかな? それで失神して、まとめて上から落っこちたと」


 どの獣も枝の上を器用に行き来する種だ。

 鳴葉は近くのネズミに足を向け、ふっくらした腹を爪先で押す。それでも起きなかったので、今度は顔に息を吹きかけた。桃のように色づいた鼻がひくつき、細長いひげで鳴葉の正体を探り始める。相手が誰かわかった途端、小さな生き物は手足をばたつかせて暴れだした。まるで殺さないでと懇願しているようだ。

 鳴葉は動転しているネズミの腹を軽く踏みつけて言った。


「逃げないなら食べるぞ」


 鳴葉が足を下ろしてみっつ数える頃には、地に転がっていた獣はひとり残らず消えていた。

 鳴葉はすっかり綺麗になった道を横切る。壁面には狼が四、五ほど入れる穴があるのだ。その入口を隠し、雨や日差しを防いでいたはずのツタはぼろぼろになっており、力任せに引きちぎられたような状態で地面に散乱していた。しかし、意外にも中は荒らされておらず、薄く漂っているにおいも鳴葉のものだけだ。


「この穴を取り合っていたわけじゃないのかな? でも、入口はこんなだし」


 鳴葉は尻尾をがっくりと落とした。


「しょうがない。違うところで食べよう」


 あの黒い狼と出会えば命にかかわる。不幸にも、鳴葉と彼女の力量差は一目瞭然だった。

 鳴葉は実をくわえなおして穴を出る。

 刹那、背中から勢いよく駆け上って来た衝動が、鳴葉の頭皮をしびれさせた。


「ぐっ」


 床に叩きつけられて息が詰まる。頭がぐわんと大きく揺れた。


(このにおい!)


 鳴葉は四肢を動かして岩床を蹴る。現れた獣に牙を剥き威嚇しようにも、閉じきれない口からは粗末な声が漏れるだけだった。


(どうしよう、実に喉をふさがれた!)


 鳴葉の体は獣の足で押さえつけられていて、起き上がれずにいた。鳴葉は成獣でこそないものの、雄ジカを狩れるだけの力はある。その彼を押さえつけているのだ。並みの獣ではない。

 鳴葉はどうにかして逃げ出そうとするが、太い脚に阻まれて思うようにいかない。獣は鳴葉に爪先を引っかけた。気づけば鳴葉は、呆然とするネズミのように、あっけなく上を向かされていた。

 耐えがたい屈辱だった。

 鳴葉はあらん限りの力で暴れる。すると、獣はうっとうしいとばかりに、彼の口に噛みついた。

 鳴葉の体が震える。このまま食われてしまうのか。

 自慢の尻尾は丸まり、脚の間で縮こまっている。


(父さん! 陽炎様! 助けて!)


 叫びは実に吸われ、うめき声に変わった。


「うう!」


 口の中でなにかがうごめく。ぬめついたものが鳴葉の牙をなぞった。ぐにぐにと舌を押しつける動きに驚いた鳴葉は、覆いかぶさる相手の体を蹴った。けれど、すぐさま聞こえた唸り声に、足は再び縮こまる。

 獣は縦横無尽に動いた。

 そうしているうちに、これは目的を持った動きなのではないかと鳴葉は思い始めた。体を押さえつけているものの、獣が執拗に探るのは口の中だけだ。牙も立てず、血もすすらず、鳴葉が暴れなければ唸りもしない。


(もしかして、実を取り出そうと……?)


 獣――黒狼は舌を引っ込めると、今度は牙で実をつつくことにしたようだ。鳴葉の口の間に黒狼の口吻がある。鳴葉が渾身の力で噛んだら、彼女も無傷では済まないだろうに。

 鳴葉は口をより大きく開いた。黒狼の牙が頬に当たって痛んだが、体を丸めて耐える。


「……はっ、あ、ごほっ!」


 塞いでいた実が鳴葉の口から転がり出た。鳴葉を横目に彼女は転がった果実をくわえ、歯で砕いた。汁が滴り甘い香りが漂う。


(いったい、なんなんだ!)


 鳴葉は喉から出かかった文句を飲み込んだ。結果的に、黒狼は鳴葉を助けてくれた。たとえ喉に実を詰まらせるきっかけになったのが、彼女だとしても。


(腹を見られたのも、僕の実を食べたのも目をつむろう。それより……)


 鳴葉ははやる気持ちを抑えて、ゆっくりと顔を上げた。


「あの」

「なぜこんなときに」

「え?」


 低い声は温度が感じられなかった。発せられる圧は狩りを控えたときの殺気に似ていて、鳴葉はただただ彼女を見上げて怖気づく。

 噛まれるうなじ。浮いた体。まるで親に運ばれる子のようで、どこか他所事のように感じた。

 鳴葉は崖から放り出され、宙に浮いた。鳴葉と黒狼の視線が絡む。

 縄張りの中で自分は父と母に次ぐ狼だ。狩りが上手く、判断力にも自信があった。群れに属さない単独狼とも対等に渡り合える――心のどこかでは、そう思っていた。

 踵を返す黒狼の背をとらえた鳴葉は、激しい水音を立てて川に沈んだ。



 鳴葉の目は尖ったままだ。水気を飛ばしてぼさぼさになった毛を舐めつくろう。

 鳴葉が落ちた川は実落の縄張りに続いていた。渓流は幅が広く、真ん中は水深が深くなっている。一見すると穏やかな流れだが、下流には落差の激しい滝があるため、知らずに流されると命に関わる。


「もう! 許せない!」

「無事でなにより、じゃだめなわけ?」


 朱果が呆れ顔で言う。


「だめ。だって納得いかない!」


 居に戻る途中で、鳴葉は朱果と合流した。鳴葉が立腹しながら経緯を話すと、彼もまた納得のいかない様子でぱたり、ぱたりと尾を振っている。


「首を噛みちぎられてたら、文句も言えなくなってたよ」

「そりゃあ……、そうだけど」


 噛みつかれた痛みを思い出して、鳴葉の体がぶるりと震えた。


「そもそもあそこは、僕が先に見つけて、僕が先ににおいをつけておいた場所なんだ。上から飛び降りる前に、下を確認して欲しかった。喉に実を詰まらせて苦しかった!」

「喉に詰まった実を、責任もって取ってくれたらしいじゃん?」


 鳴葉は鼻を「フン!」と鳴らせたあと、上目遣いで朱果にたずねた。


「……取った実を、僕になにも言わず食べるってどう思う?」

「また詰まらせると思われたんじゃないの。てかお前、子どもみたいなことするのやめとけってば。実をくわえてふらふらするから、喉に詰まらせるんだろ」


 獲物の横取りを防ぐため、狩った獣や実をその場で食べる。しかし、それは獣が少ない縄張りの話だろうと鳴葉は思っていた。彼の縄張りは獲物が豊富にいる。横取りをされたとしても、別の獲物を狙えば済む。

 実をくわえていなければ、黒狼にあんな扱いをされなかっただろう。もしもの話をしたところで、今更どうしようもないとわかっていても、腹立たしさは消えなかった。

 すっかり黙った鳴葉に、朱果は「まあ、つまりさ」と続けた。


「ああだこうだ言いたいのは、黒狼に好きにされたからじゃん? 鼻持ちならないことされたのかどうかは、知らないけど。自覚があるときの鳴葉だったら、なに言われても受け止めるだけの度量がある。序列、俺の上なんだから当然だよな。だけど今の鳴葉はなんとかして自分は悪くない、相手が悪いって言わせたいように見える」


 鳴葉の爪が土に埋まる。


「かんしゃく起こしてるのは、びしょ濡れネズミになったのとなにか関係あるんだろ?」

「なんでそう思うの」

「……お前だいじょぶ? 本当になにされたの。全然頭働いてないよ」


 朱果が目を丸くして立ち上がった。鳴葉の隣に尻をつけると、労わるように鼻や体を甘噛みし始める。


「ありがと」


 鳴葉が体を伏せると、朱果はその背に顎を乗せてくつろいだ。

 口をついて出た文句は、鳴葉にとって正直どうでも良かったのだ。本当に許しがたく、悲しいと思った心は別にある。けれど、それを口に出してしまったら、穴に埋めて丁寧に土をかぶせておいた気持ちを、鳴葉自身が掘り返さなければならなくなる。一度埋めたものを掘り返すならば、相応の理由が必要だった。

 鳴葉は体を転がし、仰向けになった。朱果は動くつもりがないようで、浮かせた頭を鳴葉の腹に戻す。


「僕ね」


 鳴葉は目を閉じて、深呼吸をひとつした。


「腹を見せる格好になったんだよ。やめさせようとしたんだけど、足で胸も押さえられててどうにもならなかった」


 あのやりとりを思い出すだけで、尾が股に擦り寄ってくる。


「僕、すごく怖くて……」

「うん」

「……」

「怖くて?」


 鳴葉は牙をもごもご動かす。聞こえづらかったのだろう朱果が身を起こし、鳴葉に顔を寄せた。


「なんだって?」

「……黒狼のこと、もっと知りたくなっちゃったんだ!」


 朱果が鳴葉にのしかかると、彼の口から潰れた声が出た。


「心配して損した!」


 朱果は呆れかえったように言いながらも、鳴葉の顔をまんべんなく噛んだ。その噛み方に鳴葉は驚く。

 甘噛みにも種類がある。家族間なら大きく分けて二つ。甘やかすか、甘えるかだ。朱果の噛み方は圧倒的に甘やかす方が多い。相手が鳴葉であっても、彼はなかなか甘えようとしないのだ。その朱果が鳴葉に甘えている。つまり、全幅の信頼を抱えて飛び込んできたのだ。

 鳴葉は頭から黒狼を追い出すと、せっせと朱果を甘やかし始めた。


 毛づくろいを終えた鳴葉は、朱果に誘われて温泉に来ていた。

 小ぢんまりした沼から湯気が立つ。形は月のように丸く、縁の周りにある草は透けて、ほのかに発光している。この植物は湯の中で花を咲かせる珍しい種で、厚みがある花弁は沼底として重宝されている。


 鳴葉は麦色の湯に首まで浸かる。体を包み込む温かさに自然と息が漏れた。


「俺さ、目標ができた」


 朱果の言葉を聞いて、鳴葉は草に頬をつけた。


「どんな目標?」

「それは内緒」

「内緒?」

「おう」


 鳴葉は意味を測りかねて首を動かそうと思ったけれど、今の体勢がとても心地良かったので、彼は心の中だけで首を傾げた。


「それは口を堅くするってこと? それとも内緒ごとを作るの?」

「どっちも違うよ。目標ができた。でもその目標は、まだ内緒にするってこと」

「それさあ……、いてっ」


 上から降ってきた何かが鳴葉の鼻に当たった。転がり落ちたのは、ずんぐりむっくりしたドングリだ。鳴葉と朱果は頭上を振りあおぐ。枝が大きく揺れており、ドングリを落としたと思われるリスが、大慌てで木から降りてくるところだった。

 ふたりとリスが見つめ合う。

 朱果がリスに背を向けた。のろのろと体を起こした鳴葉も、浮かせていた尻を底につける。ややあって、草をかき分ける音がした。

 鳴葉は片方の耳だけを後方に向けながら話す。


「目標があるって言うなら、内容も教えてくれてもいいんじゃない? そうしたら僕も応援するよ」

「いらね。実現したら教えてやるから、我慢しとけって。鳴葉は大人だから我慢できるだろ?」

「子どもに言い聞かせるみたいに言うのやめて」

「さっきまで子どもみたいにわめいてたくせに」


 鳴葉と朱果が顔を見合わせる。するとふたりのすぐ横にいたリスが、ドングリに手を伸ばした状態で固まってしまった。ふたりは体を明後日の方向へ向ける。


「わかったよ。教えてくれないのはわかった。一応確認するけど、意地悪で言ってるんじゃないんだよね?」

「ンなわけないだろうが」

「ふぅん。じゃ、いいや」


 鳴葉と朱果が会話を続けていると、ようやく傍らから小さな気配が消えた。

 鳴葉は湯に潜って数秒数え、耳の先まで温めてから沼を出た。水は溜まる間もなく土に吸われていく。鳴葉が体を振ると、湯から身を乗り出していた朱果に水がかかった。


「鳴葉って聞き分けがいいよな。すぐ引くっつうか」


 鳴葉は朱果の言葉に目を瞬く。


「なにそれ。言い方に栗のイガイガを感じる。聞き分けがいいのは良いことだろ?」

「いいことだけどさ」


 やはり朱果の言葉には小さなトゲが含まれている。弟の真意を知りたい気持ちはあったが、自ら言わないとなると、彼の心の内を明かすには骨が折れる。その時がくればいずれ明かすだろうと思い、鳴葉はそれ以上朱果に尋ねるのはやめにした。


 正直なところ、鳴葉はかなり落ち込んでいて、朱果を気にしてやる余裕がなかった。腹を見せたい、もっと知りたいと思った相手にすげなくされて、平気でいられる狼のほうが少ないだろう。弟には茶化して伝えたものの、粗雑な扱いを受けた挙句、話す価値もないかのように投げ捨てられたなど、口が裂けても言いたくなかった。


 これは鳴葉の想像だが、黒狼と鉢合わせしたのが人狼や実落だったならば、黒狼は単独狼らしく節度ある行動をとったに違いない。単独狼は縄張りを持つ者に対して礼節ある態度で接し、それを受けた狼も礼を返す。そうして互いに不毛な争いを避けているのだ。言い換えれば、重要な相手には相応の態度をとるが、『人畜無害な狼』にはその限りではないのである。


 最初に出会ったあの日、鳴葉は黒狼に目を奪われた。けれど相手にとっては取るに足らない存在だった。だから無視されたのだ。


(……今の僕には価値がない。それが事実なんだ。悔しかったらもっと努力しなくちゃ。でも、今は)


 山から下りてくる狼たちのなかに、黒狼のような大型種が複数いて、もし、彼らが群れをなしてやって来たら、小型種の群れは勝ち目が薄い。だから誰を相手にしても縄張りを奪われないような、地の利を生かした方法を見出さなくてはならなかった。

 それなのに、鳴葉は緩衝地帯で情報を得られないまま戻って来てしまった。これでは実落に報告もできない。彼はそっと息を吐いた。


「ねえ朱果。父さんと同じくらいの大きさの狼と縄張り争いすることになったら、どう動く?」


 鳴葉が毛づくろいをする弟に尋ねると、彼は迷わずに答えた。


「立ち向かうだろ。逃げるなんて考えられない」

「大きいのがひとりだけじゃなくて、他にいても?」

「……黒狼は番持ちなのか? 横恋慕はやめとけよ」


 朱果は目を細めてそう忠告する。耳馴染みのない言葉を聞いて、鳴葉は一瞬呆けたが、気を取り直したように尻尾を揺らした。


「違うよ。他の狼のにおいはしなかったから……、そうじゃなくて。たとえばの話、相手の狼が最初に狙うとしたら、僕か朱果だろ? 下の子たちを狙うのは狼の矜持がなさすぎるし、直接爪を立てなくても主導者を潰せばどうにでもできる。だからって、最初に父さんを相手にするのは危険が大きい」


 鳴葉はうろうろと動き回りながら続けた。


「だけど、序列の真ん中を崩してからなら簡単だよね。僕らは体格で負けてるぶん、個別に狙われたら、クモの巣を使ってイノシシを引き止めるのと同じくらいの無茶をしなくちゃいけない」

「だから父さんは、俺たちに頭を使えって言うんだろ」


 朱果は鳴葉に歩み寄り、彼の首を噛んだ。鳴葉が前脚で叩くと、朱果はあっさり口を離す。


「人狼がいる土地には獣が集まる。人狼なしじゃ、俺らは生きられないからな」


 考えながら話す朱果の声は実落に似た落ち着きがあり、日が沈む前の夕暮れのようだと鳴葉は思った。朱果は鳴葉の毛に鼻を埋めながら言う。


「母さんはちびの守りで居に残るだろ。鳴葉は下の奴らを連れて巡回、そんで俺は父さんにつくのが妥当だ。けど、相手との力量差がわかりきってるなら、俺も鳴葉についたほうが良くね?」

「良くはないんじゃないかなあ」

「なんでだよ」


 鳴葉は視線を上げた。獣がいなくなった頭上は、先ほどとは打って変わって、まどろむような静寂が響いている。

 鳴葉はふと、陽炎の教えを思い出した。彼女は一から五あるうち、まず五を教える。合間の説明は後だ。稀に、陽炎が一から四を教え、五は己のみで導き出せ、という指導の仕方もする。こういった場合は、それぞれが辿り着いた先に肝がある。導き出せるならば良し、得られぬようなら道中に不足ありだ。

 陽炎の教えをどういう意味で受け取るかは様々で、出す答えも当然それぞれ違ってくる。考え抜いて出した答えは、性格や周囲の環境を受けるが、同じ縄張りで過ごす兄弟は条件が似通う。それで差が生じるならば、もともと備わった力がものを言う。


(朱果は、僕らが大型の狼ともやり合えるのを前提に考えてる。僕も黒狼に出会うまでは、そうだと思ってたよ。だから父さんは僕らを一緒に行動させなかったんだ。ふたり同時に欠けるのを防ぐために。あと父さんが朱果につくのは、さっき自分で言った通り、逃げるより戦うほうを選ぶからだろうな。こういうの、どこまで朱果に教えるべき? ……はは、教える、か。まだ勘違いしてるの? 僕って奴は。黒狼にあんな扱いされておいて)


 鳴葉は深々とため息を吐いた。それを朱果にあおり行為だととられ、枝付きブドウひとつ分の文句を言われた。


 鳴葉の自信は未だムシの息で、語気を強める朱果を鼓舞する余裕もない。心はしおれた花のようだ。しかも茎が真ん中からぽきりと折れて、辛うじて繋がっている。これでは根が水を吸っても、いずれ枯れてしまう。どうにかツタを絡めて茎を接着し、延命したいところだが、そのツタは黒狼にずたずたにされたままである。

 しばらくして、寝ながら蹴り合いをしているふたりの元へ、果林と落水が伝言を携えてやって来た。


「父さんが、兄ちゃんたちに伝えてって」

「大事な知らせがある。すぐに居へ戻るように、だって」


 言伝を聞いた鳴葉と朱果は飛び起きた。

 急ぎ足で戻るなか、落水が今日の冒険話を鳴葉にねだった。落水はひとりで縄張りを歩く許しを得られていない。だからか、鳴葉が緩衝地帯を散策するたび、こうして様子を聞きたがる。

 鳴葉が言葉に詰まると、朱果がにやついた。事情を知る弟には目配せをし、彼は土地の様子に重きを置いて話し始めた。


 居に近づくにつれて、久しいにおいが草木に混じる。鳴葉と朱果の尾が勢いよく揺れた。

 巨大な木株こかぶの表面はなめらかで、側面には木の皮がまばらに残る。皮が片側に集中していることから、雨風で折れたのだろう。幹は朽ちても根本はしぶとく残ったようだ。厚い皮にはキノコが住み着き、半月のようなカサが皮に沿うようにして足場を作っている。

 鳴葉と朱果は張り合うようにカサを踏む。木株を上りきると、父母と話す陽炎の姿があった。

 足を止めた兄たちを弟妹が囲う。

 鳴葉の兄弟は十三いる。同い年の朱果と二つ下の五弟妹。そして冬に生まれたばかりの弟ふたりである。残る四兄姉は、己の番を探すべく縄張りを出て行ってしまった。

 末弟の落照らくしょう葉果ようかには位がない。序列を与えられると、上の位の狼に対して立場をわきまえるようにと教えられるが、今は愛情を受け取る大切な時期である。気ままにじゃれつき、甘えるのが幼い彼らの仕事だ。

 鳴葉が構われたがりの落照を舐めたり、いたずら好きの葉果をひっくり返したりして遊んでいると、陽炎が悠々とした足取りで近づいてきた。足首を飾る木の実の装身具がこんころ鳴る。


「全員戻っておるな」

「陽炎様、今日はどうしたんですか?」

「新居の知らせじゃ。その他にもあるがの。子ら、待たせたな。遊びはしまいにして話をするぞ。集まれい」


 陽炎の声に従い、子どもたちは父母の周りに集結する。実落の右隣に鳴葉が座り、枢果の左隣には朱果が腰を下ろした。弟妹も兄らに続き、序列通りに並ぶ。末の弟ふたりは父母の脚の間に収まった。

 陽炎は狼を見下ろしながら、指を三本立てた。


「話は三つ。まず一つ、我らの新居が決まった。実落よ。従来通り、居に来るときは遠吠えで知らせるがよい。出迎えよう」

「承知しました」

「二つ。止柊の縄張りを完全に明け渡した。人狼の名は白良はくら。雄の狼で、止柊の古い友じゃ。明け渡した経緯が気になるならば、止柊か白良に聞け。白良には我らの縄張りに入る許可を出してあるからの。いずれ会うじゃろ」


 狼が皆一様に頷くと、陽炎は顎を引いた。


「三つ。きさまらも知っておるように、山は人狼不在の地となった。春だというに、果実の匂いもとんとせんのがその証拠。獣は近場の緩衝地帯に逃れたようだがしかし、狼も同様、縄張り争いが後を絶たぬ。気をつけよ」

「心得ました」


 全て伝えきると、陽炎は相好そうごうを崩した。

 枢果は這い出ようとする葉果を止めながら、陽炎に話しかけた。


「止柊様の友であれば、穏やかな気性の人狼なのでしょうね」

「はは、穏やかとは言えんの。良く言えば賑やか、悪く言えばちとうるさい奴じゃ。だが、そうじゃの……」


 陽炎は眉を寄せて続けた。


「礼を欠いて縄張りに入る人狼に、容赦せんところは似ておる」

「それは私たちも同じですよ、陽炎様。群れを守るものであれば当然です」

「それでも、聞き入れんからといって横面ぶん殴ったりせんじゃろ」


 陽炎が眉の谷を深くする。彼女との会話に実落も加わった。


「人狼が治める地に、他の人狼が無断で立ち入る場合は死を覚悟しろ。どの狼も幼少に学ぶ教えです。いずれ人狼になるかもしれない種族として、忘れてはならない決まりだと。しかし、それは名目で、人狼が傷つけ合わないための教え。獣は、いえ、大地すら、人狼をなくしては生きていけません」

「は。実落よ、それは人狼も変わらん」


 陽炎は背中を丸めると、立てた片膝に顎を乗せた。


「なにか一つが特別なのではない。大地がなくば。獣が、人狼がおらねば。ひとつ欠けただけで陸は終いよ」

「……」


 実落は笑みを浮かべて頭を下げた。


「話は以上。散ってよいぞ」


 陽炎の号令を合図に末弟が走り出した。他の弟妹と枢果が後を追う。実落は座ったままの鳴葉と朱果を見下ろし、それぞれの額を舐めてから傍を離れた。

 陽炎は胡坐をかくと、目を細くしてふたりを見据えた。


「鳴葉、なにか聞きたそうな顔をしておるの。許す。言うてみれ」


 鳴葉は手招きする陽炎の隣に移動する。朱果は彼女を挟んだ反対側に座った。


「人狼は今どれくらいいるんですか?」


 実落の縄張りにある一番高い崖の上に立つと、北から東の山まで一望できる。南西は木で隠れて見通せないものの、森や林が続いているに違いない。つまり陽炎の地を中心にして、四方を別の人狼が治めているはずだ。

 大地を支える人狼がこれだけだとは思えないけれど、鳴葉は陽炎と止柊以外の人狼の姿を見たこともなければ、においを嗅いだこともなかった。

 陽炎は数をかぞえるように頭を揺らす。しかし、いくらもしないうちに、彼女は両手を上に向けた。


「きさまが想像するより多い、とだけ言っておこう」


 鳴葉は少し考えたあとに尋ねた。


よりは多いですよね?」

「はは、じゅうでは足らぬわ。陸はきさまが考えるより広いぞ、鳴葉。われの縄張りにいる狼を合わせても、まだ足りん」


 鳴葉と朱果は驚愕した。


「それにのう、きさまらが知らぬだけで、人狼はこの地にも出入りしておる。無論、一人や二人ではないぞ。……なんじゃその顔は。信じておらんな?」


 陽炎の指先が鳴葉の頬を引っ張った。

 狼の嗅覚は鋭い。わずかなにおいも嗅ぎ分け、種族や性、大きさ、ある程度の強さを把握する。それは人狼も例外ではない。彼らも同じ獣である。鼻が無くなりでもしない限り、人狼に気づかないでいるほうが難しいのだ。

 陽炎から人狼の出入りを指摘され、ふたりは耳を伏せた。


「人狼が来ていたなんて、全然わかりませんでした」

「俺らの鼻、いつのまにかバカになってたわけ?」


 陽炎は目を弧にすると、空いた手で朱果の頬をつまんだ。


「安心せい。においを残さんように、わざと消しておるんじゃ。これも人狼特権よな」

「そんなことできるんですね」

「ああ。きさまらも覚えておけ。縄張り争いを避ける意思表示としては、かなり効果がある。われらも狼じゃ。縄張りに家族以外のにおいがあると、好戦的になってしまう。だからといって、人狼の肩を片っ端から掴んで一勝負するわけにもいかんじゃろ」


 鳴葉と朱果は頬をつままれたまま、尻尾を丸くした。人狼同士の争いがどれほどの規模になるか。彼らはそれを知らなかったけれど、本能が察していた。

 においは、人狼の姿でいるときは制御できるが、狼の姿に戻るとできなくなるらしい。けれど、狼の体臭なら人狼を刺激せずに済む。関わり合いを避ける人狼は、あえて狼の姿になって縄張りを通り抜けるのだという。人狼に敵意を向けられるよりは、狼にちょっかいを出すほうが楽なのだろう。

 話を聞いた朱果は眉間に皺を寄せた。大方、いたずらに縄張りを刺激された狼の気持ちも考えて欲しいとでも思っているに違いない。

 鳴葉はひとつ頷いてから、また尋ねた。


「においを残すような人狼が来たら?」

「知らぬようであれば教え、責は問わぬ。縄張りを奪う意思あってのことならば、やるべきことはひとつよな?」


 陽炎はふたりの頬から手を離すと、左の手のひらに右の拳をぶつける。鳴葉と朱果は引きつった笑みを浮かべた。


「人狼もあちこち移動するんだな。単独狼みたいに。陽炎様も出かけてるんです?」

「はは! 悪いがこもりきりじゃ! われはきさまらを可愛がるので忙しいからの」


 陽炎が朱果の問いかけに答え、大口を開けて笑う。彼女の言葉には愛情が滲んでいる。鳴葉の胸は優しく締めつけられた。

 鳴葉と朱果は、競うようにして仰向けに寝転がる。

 賑やかな笑い声が長らく響いていた。



 雨は連日続いた。空がごろごろ鳴いている。喉を鳴らす音に比べて太く、可愛げもない。轟音と共に木がきしみ、倒木によって地が揺れる。

 昼夜問わず降り注ぐ雨粒が、地面に川を作った。草花はしとどに濡れて倒れ伏している。荒れ狂う風が過ぎるまで、全ての生き物が息をひそめていた。


 鳴葉は家族と身を寄せ合い、穴の中から外の様子をうかがう。

 地中に深く突き刺さった岩を天井にし、土壁を木の根が支えている。

 ここは子育てのために作られた空間で、父母の許しがなければ入れない場だ。雌狼は妊娠すると穴にこもり、出産後しばらくまで、乳飲み子と番以外を寄せつけなくなる。他の狼が近づくと、ひどい興奮状態になって子を傷つけてしまうという。だから、普段から家族の出入りを制限し、余計なにおいを残さないようにしているのだ。


 雷が落ちると落照も鳴く。彼は実落と枢果の間に潜り込んでいるため、鳴葉からは姿が見えない。遊び好きの弟妹たちも、このときばかりは家族にぴたりとくっついて、夜が明けるまで離れないでいた。


 露がきらめく早朝。暗雲は西へ去り、トリが飛び交いムシが鳴く。

 狩りを終えた鳴葉と朱果は、二手に分かれて縄張りの巡回をしていた。

 悪天候明けは情報が多い。

 果実が落下した場所があれば覚えておく。甘い匂いにつられて獲物が集まるため、次の狩りで役に立つ。折れた木が行く手を塞ぐなら、別の道を探して弟妹たちと共有する。予め、不利になるとわかっていれば、獲物を追う側も対処がしやすくなる。

 鳴葉が見て回ったところは、幸いにも折れた枝が散乱する程度で済んだ。放っておいてもトリやリスが片づけるだろう。


 鳴葉はぬかるんだ道を歩きながら、緩衝地帯の見回りをしたいと考えていた。今朝は獣が一斉に動き出した。彼らも実落と同じように、暴風雨に消されたにおいをつけ直すはずだ。それを嗅げば、今どんな獣が緩衝地帯にいるかも明らかになるので、実落に新たな報告ができるだろう。

 鳴葉が巡回結果を知らせようと、岩場に足をかけたとき、居の方角から遠吠えが届いた。実落が巡回をやめて、鳴葉に居へ戻るよう命じているのだ。

 鳴葉が急ぎ木株まで戻ると、入れ違いで実落が出て行く。朱果の姿は見当たらない。彼はまだ、巡回から戻ってきていないようだった。

 鳴葉は枢果の元へ行く。彼女の周りには弟妹が揃っており、みな怯えた顔で鳴葉を見上げた。


「母さん、なにがあったの?」

「朱果から知らせがあったの。ヒツジの死骸を見つけたから、実落に確認して欲しいと」

「それって……」


 鳴葉は途中で言葉を切った。枢果が思わしげに目を伏せる。鳴葉の尾もくたりと下がった。


 実落は朱果と連れ立って戻ってきた。

 白良が治める縄張り側、緩衝地帯に隣接する場所で、雨に濡れたヒツジの毛を朱果が発見した。周辺には枝葉が散らばっていたにも関わらず、毛についた汚れは血と泥だけだったらしい。


「狩りは雨上がりに行われたんだろう。ヒツジは骨まで綺麗に平らげられていた。こういった食べ方を他の獣はしない」


 多くの獣は肉を食い、骨を残す。骨まで食べるのは狼だけだ。


「狼が入り込んだのはわかったけど、うっかり縄張りに入っちゃったってことはないの?」


 朱果はそう言った後で、自身の鼻を舐めた。実落は少し考えるように宙を見たが、ややあって首を振った。


「そうだね。獲物を追っているうちに、こちらの縄張りに入ってしまったとも考えられる。が、そうと捉えないのは、食べた獲物を雨ざらしにしているからだ」

「そのままはだめ?」


 落照は首を傾げて尋ねながら、枢果にもたれかかった。枢果はそれを受け止めながら答えた。


「獲物に草を被せるか、土に埋めて去るのが礼儀です。それで互いに敵意なしと判断するの。反対に、今回のように食べた獲物の骨や皮をそのままにする行為は、縄張りを奪う意思があるということ」

「父さん」


 朱果は尾を震わせ、実落を強く見つめた。それを受けた彼の瞳にも、隠しようもない熱がゆらめいていた。


「ああ。落照と葉果、ふたりは事が終えるまで、居から出ないように。他、誰かひとりはふたりの傍にいてもらう。枢果に残ってもらうつもりでいるが、他の子に頼むかもしれないから、皆そのつもりでいて欲しい」


 家族の視線を一身に受け止めた実落は、遠くまで聞こえるよう吠える。

 休んでいたトリたちが一気に羽ばたいていった。



 それからすぐに、枢果による手ほどきが始まった。


「鼻先は確実に噛めるときだけよ。まず狙うのは尻、脚。それから鼻と腹。でも、無理はしないで。少しでも敵わないと思ったら、ウサギのごとく逃げなさい」


 狼の急所は鼻、次に腹。この二つはじゃれあいのときでも、強く噛まないようにしている部位だ。加減を間違えると、本気のケンカに発展するほど痛い。


「逃げるの? 逃げていいの? 逃げたら縄張りを取られるよ」


 鳴葉は尾を反らして続けざまに言った。弟妹たちも異口同音に戦う意思を示す。枢果は眩しいとも、誇らしいともいうような目をすると、頬をいくらか和らげる。

 枢果は鳴葉を呼んで、自分の前に座らせた。


「鳴葉。私たちが争うのは、生きるために縄張りが必要だから。そうよね?」

「うん」


 鳴葉は迷うことなく答えた。枢果は白くて柔らかな耳へと口を寄せる。


「家族の命に代えても?」

「それは……」


 口ごもる鳴葉の横に、朱果が並び立つ。


「違うよ、母さん。俺たちは縄張りも家族も守るんだ!」


 すると、枢果は顎を引き、目をつり上げる。


「朱果、下がりなさい。私は鳴葉と話しているのよ」


 枢果に叱られた朱果は、悔しげにしながらも後ろへ下がった。上位の会話に割って入るのは分をわきまえない行為だ。叱責されるのも当然だった。

 枢果は朱果に向けてこう続けた。


「朱果の言いたいこともわかるわ。きっと、家族のみんながそう思っている」


 彼女は再び鳴葉へ向き直る。


「鳴葉、あなたが見かけた黒い狼を思い出して。彼女が群れを率いてきたら、自分たちだけで立ち向かえる?」

「立ち向かえない」

「鳴葉! お前……!」

「僕らだけ、なら逃げるしかない。あのひとはただの狼じゃないよ。たぶん人狼と同じくらい強い。実力差がありすぎる」


 鳴葉は朱果を一瞥しながら、黒狼の姿を思い出す。初めて会った時、彼女は鳴葉に背を向けた。自分はそれを敵意がないからだと判断したが、実際は違った。鳴葉を歯牙にもかけなかっただけだ。


「あのひとの相手ができるのは、父さんと母さんだけだ。だったらふたりが自由に動けるように、僕らは家族を守るべきじゃない?」

「……くそっ」


 朱果は鼻に皺を寄せる。

 口惜しいのは鳴葉も同じだ。自分に強さがあれば。そう考えずにはいられない。

 枢果が背を伸ばし、小柄な狼たちを見下ろした。


「相手の力量を見て判断する。それが強く、賢い狼の在り方。それぞれが常に最善を考え、見誤らないよう動きなさい」


 枢果は体をほぐすように動かし、好戦的な構えをとった。


「争う気持ちがあるのなら、力を見せなさい。口だけの狼は格好悪いわ。鳴葉と朱果は私が相手をします。ひとりずついらっしゃい。他の子は手本だと思って、よく見ておくように」


 離れた枢果は木陰に身を隠すも、すぐに姿を現した。彼女は自らを敵役にして、鳴葉たちと争うつもりなのだ。


 鳴葉は弟妹の輪から出て枢果と対峙した。

 格上だけれど上手くいけば勝てる。だから逃げない。本番さながらの威嚇を向けられて、一瞬ひるむも鳴葉は持ち直した。

 尻を狙うには、まず背後に回る。脚もそうだ。前脚はうまくとれても、代わりに目を持って行かれそうだ。とにかく尻、もしくは尻尾、脚。それは相手も同じなので俊敏さが求められる。

 鳴葉は駆けだして距離を詰めた。そこでふと考える。下半身をまっすぐに狙うのではなく、鼻を狙っているかのように揺さぶりをかけ、枢果が驚いたその隙をついて後方に回り込めれば――。


「……こんなふうに、噛めもしない鼻を狙うと相手に隙を与えます」

「ふぁい」


 見上げた空が青い。鳴葉が枢果の鼻を狙うふりをして口を開けたら、飛びかかる勢いで枢果が近づいてきて、気づけばひっくり返っていた。反撃に驚いてのけぞった鳴葉の顎を噛んで固定し、振り上げたのだろう。


「鼻を噛もうとした理由は?」

「噛むふりをして驚かせてから、後ろに回り込もうと思ったんだ。でも母さんが向かってきたから失敗した」

「良い考えね。翻弄しようとする攻めの姿勢、好きですよ。ただ失敗した後、どう取り戻すかを考えられるともっと良いわね。鳴葉は良いお手本でした。皆もよく考えて失敗なさい」


 鳴葉が起き上がって元の場所に戻ると、今度は朱果が前に出た。


「次は俺! 鳴葉の失敗は無駄にしないぞ」

「その意気です。かかってらっしゃい」


 第二戦は間もなく決着がついた。

 ぎゃん、と朱果が鳴く。枢果の後方をとったが、彼女が後ろ脚で蹴った土が朱果の目に入ったようだ。鳴葉と弟妹たちは似たような顔をして、もんどりうって倒れる朱果を見ていた。

 その後は総当たり戦である。ああでもないこうでもないと相談しながら、思いついた案はとにかく試した。序列関係なしにそれぞれの個性と能力を伸ばし、互いを高め合う。

 鳴葉は毛についた土を振り落とす。


(これが縄張り争いじゃなかったらなぁ)


 飲み込んだ唾液は、心なしか苦く感じた。



 その日の夜、鳴葉は朱果を寝床から連れ出した。朱果は鳴葉の誘いを予想していたらしく、なにも言わずについてくる。

 居の上にある大きな岩にふたりで寝転ぶ。

 鳴葉は昼から抱えていた胸の内を吐き出した。


「もやもやしてしょうがない!」

「なにがだよ」


 見上げた空に浮かぶ星にも縄張りがあるらしい。季節によって見え隠れするものの、決まった位置からは動いていないようだった。新たな居場所を求めて、はたまた追い出されてか、稀に素早く動く星が現れる。それらは尾を引いた後、瞬く間に消えてしまうので、新たな縄張りを得られたかどうかはいつも分からずじまいだった。

 鳴葉は足で朱果をちょいちょいと突いた。


「そもそもさ、なんで縄張り争いするの?」

「はあ?」

「だってここには獲物が豊富にいる。争うよりも、父さんに迎え入れてもらうように頼んだほうが賢いと思わない?」


 もともと住んでいた狼を押しのけて、居を奪う。それが狼の縄張り争いだ。しかし、争うばかりではなく、時には群れに引き入れることもある。

 鳴葉は続けて言った。


「兄さんや姉さんみたいに新天地を探すとかさ」


 すると、朱果は面倒臭さを隠しもせずにため息を吐く。


「知るかよ。向こうが争うんなら、こっちも争う。で、父さんも争うって言った。それが全てだろ。それとも鳴葉は、縄張りを明け渡してもいいって言うのかよ?」

「そうは言ってないだろ」


 朱果は鼻をフンと鳴らす。


「じゃあなんだよ。争わずに済む方法があるって?」

「ない、けどさあ」


 鳴葉が唸り声をあげる。すると後ろ脚を尻尾で叩かれた。


「俺たちがいくら考えても、縄張りに死骸を残してった奴らが聞くか。縄張りは譲り合うもんじゃない。奪い合うものだ。渡す気がないのは向こうも知ってる」

「でも、朱果」

「でも? なんだ? 争いたくないなら、やりようはいくらでもあった。それを選ばなかったのはあっちだ」


 鳴葉の耳がそそり立つ。朱果は苦虫を噛み潰したような顔をして続けた。


「腹が空いて、落ち着いて眠れる場所もなければ、戻れる場所もない。想像しかできないけど、結構キツイと思う」

「うん……」

「でも、向こうにどんな事情があっても、俺らのやることは変わらないだろ」


 鳴葉は朱果の上に乗り上がり、彼の頬を顎で撫でた。大きさを確かめるように二度、三度と顎を滑らせていると、朱果が「なんだよ」と聞くので、鳴葉は「小さい口だ」と答えた。鳴葉が誰と誰を比べたのかを正確にとらえた彼は、何事か言おうとするも、その大部分を飲み込んだ後で、ぺっと吐き出した。


「もう忘れろよ」

「あんな一方的に傷つけられたのに、忘れられるわけないだろ」


 朱果は失笑した。


「傷ね。心の?」

「矜持!」


 鳴葉は天を見上げる。

 果てもなく広がる空を知っている身からすれば、鳴葉の矜持などちっぽけなものだろう。こんなことでいつまでもくよくよとしていては、鳴葉が目指す狼らしさから遠のくばかりなのに、事あるごとに思い出してしまう。


「忘れられないし、忘れたくないよ。向こうはとっくに忘れてるだろうけどね!」


 鳴葉は体を捩って朱果の上から落ちた。

 すると朱果は「ははあ」だの「ほほう」だのと、つかみがたい声を出して鳴葉を見下ろす。それがあまり良い音には聞こえなかったので、鳴葉は目を細めて朱果を見遣った。


「なにその声」

「鳴葉。傷ついただのなんだの言って、さては惚れたな?」 

「はあ?」


 鳴葉は驚きのあまり身を起こした。


「いきなりなに? 惚れた? 僕が黒狼に? ありえない! 相手が雌だからって、そういう話にするのはよくないよ」

「誰も番の意味で惚れたなんて言ってないだろ。俺は強さに惚れた、って意味で言ったつもりだったんだけどな?」

「だったら最初からそう言って」

「なに、そんなムキになってるんだよ。逆に怪しい……。別にいいじゃん。俺らはどうしたって、強くて賢い奴に惹かれるんだ。それが本能だろ? だからより強く、より賢く。そうなれるようにあれこれやってんだから。鳴葉が番になりたいと思うんなら」

「思ってないよ!」

「わかった、わかった。からかいすぎた。ごめんって」


 鳴葉が奥歯を鳴らすと、朱果は舌を引っ込めた。


「許すかどうかは僕次第だよね」

「思いっきり俺を踏んずけながらそれ言う?」

「兄だからいいの!」

「そこは序列が上だからって言うところだろ……、あっ」

「ん? あ」


 朱果につられて、鳴葉も肩越しに振り返る。実落が無言でふたりを見下ろしていた。

 鳴葉は朱果から足をそっとどかし、朱果もまた静かに起き上がった。

 ふたりは示し合わせたように頭を下げる。


「もう寝ます。おやすみなさい」

「父さん、おやすみ」

「おやすみ、ふたりとも」


 ふたりは早足で寝床へ駆けこみ、眠る家族の近くでそれぞれ丸くなった。

 朱果の寝息は早々に聞こえてきたが、鳴葉はうまく眠れず、明け方まで寝たり起きたりを繰り返していた。


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