05 格言(Side 司)

 高校からの下校中の俺に、良くわからないことを言い始めた女は、この前少し仲良くなっただけの女の子の名前を出して、あの子には近づかない方が、俺のためなのだとそう言った。


 委員会が一緒で、偶然その子が手に持っていた本が俺の好きな作家だった。マイナーな作家だったから、嬉しくてこちらから声を掛けた。


 別に、俺は特別扱いなんて、したつもりもない。ただ、本の趣味がお互い合っただけだ。


 本好き同士なら良くある話だが、趣味が合うことを知ればお勧めの本を貸し合うことを始めることに、時間は掛からなかった。


 俺は、何も考えていなかった。もしかしたら、その時すでにお互いに淡い恋心は抱いていたのかもしれない。本の趣味が合うと、話も弾む。


 それは、ただの事実だった。周囲からどう見えるかなんて、思いもしなかった。


 仲良くなって来たさなかに、その子がある日いきなり学校に来なくなり、俺はおかしいとは思った。


 借りたままの本は持ったままだし、俺が貸した本も、また彼女は持っているままだ。


 「もう、私に近づかないで」と、ようやく会えたその子に言われた。寝耳に水だった俺は、参っている様子のその子を刺激することは良くないと判断し、とにかく何も言わずにその場を後にした。


 その子と同じクラスに居る友人に話を聞こうとすれば、いきなり数人の女の子が俺を取り巻いた。


「芹沢くん。あの子ね、とんでもない子なんだよ」


 それを言うお前は、叩いても埃は出ないのかよ。それほど賢しらに人を悪く言うことが出来るのなら、自分自身はさぞ何の罪もなく清廉潔白なんだろうな。


 俺が知りもしない男との、あの子のゴシップ。


 その情報はこれから知り合うことになる俺に、何か関係があるのか。


 産まれてからある程度の年齢になるまで完全に間違いを犯さない人間なんか、何処かに居るのかよ。


 自分より得をしていると思う人の間違いは許せないが、それを声高に叫ぶ自分の醜態は棚上げか。


 多数決で民意を得たつもりの若者は、自分こそが揺るぎない正義であると勘違いしている。道徳の教科書は、皆で楽しくキャンプファイアーででも、燃やしたのか。


 日本の未来は明るい。


 同じような髪型同じような服装同じようなメイク。流行りと言えば聞こえは良いが、皆が皆一緒に見える。


 あれは、示し合わせてそうしているのか。誰かが罪を犯しても、誰が本当の犯人だか判別出来ないように、そうして擬態をしているのかもしれない。


 金銭の発生しないアイドル扱いしている男が何を思い、どうしたいかなんて、あいつらには何の興味もないことだ。


 ただ、自分の隣に居れば周囲に自慢出来る見栄えの良いアクセサリーくらいにしか、思われていない。


 俺の事は、ちゃんとした人として認識していないのに。何故、自分の考えだけは何も言わずに汲み取り尊重して欲しいと、そう望めるのだろうか。


 俺のためか。俺は一緒に居る人くらい自分で選べるよ。


 未来するはずの判断を代理で行ってくれる、お前は誰だ。この先もし何かあれば、全ての責任を取ってくれるのか。それは、俺のためだと言えるのか。


 お前の中にあるみっともない劣等感の解消のためだろう。問題をすり替えるなよ。


 少し判断を誤れば、奈落の底に落とされる。美しい友情は、ほんのひと押しで容易く壊れる。本当に、クソみたいな人間関係だ。


 主犯格の女は、あの子が一人になっても罪の意識など何もなくドヤ顔だ。自分こそが正義の使者と思っているんだから、それはそうだろうな。


 だから、俺は女の望み通りに、学校内で偶然会う度に、ことさら優しく接してやった。数人のグループで会っても、他は無視して特別に一人だけ。


 主犯格の女は、一人ずつ離れていく友人に驚いていたはずだ。お前だって、同じことをあの子にしたはずなのにな。


 もしかして、自分だけはそんな目に遭わない。あの子とは、違う存在なんだとでも、そう思っていたのか。残念だけど前科ありの周囲は、そういうことをする人間だよ。


 その後のことは、俺も知らない。


 いつの頃からか、目立っていた存在のはずの女は学校内で会わなくなったけど、俺が避けられてたのか学校に来なくなったのか。何も知らない。


 別に、その後に興味もなかった。


 俺は俺に特別扱いされたそうな女に、お望み通りそうしてやっただけだし。


 けど、あの女が不幸になっても、誰も同情なんてしないんだろうな。皆、自分より幸福に見える誰かの転落劇が好きだから。


 なんて、くだらない世界なんだろう。



◇◆◇



 大学に入るまでに付き合ったと言えるのは、一人だけ。


 ヤリたい時にヤラせてくれる実家が裕福で綺麗な年上の人は、自分がこの先の未来に幸せになりたいなんて思っていなかった。


 彼女は、可哀想な身の上で不幸なままで居たいのだ。


 何か生まれ付き恵まれたものを享受するこの人が幸せであるためには、人より強く在らねばならない。精神を病んでいた方が、醜い世界で生きていくには楽だから。


 若くて青い性欲の解消だけを望むなら、それだけでも良かったかもしれない。だが、彼女と長く一緒に居ることは、俺にはどうしても無理だった。


 ああいった人は、未来のある建設的な話は望まない。二度と浮き上がれない地獄に、苦しい苦しいと嘆きつつ同じような誰かに一緒にいて欲しいのだ。


 救われることを望まない彼女のマイナスをプラスに変えたいと思うほど、俺も本気にはなれなかった。


 異性避けという利害は、確かに一致していたものの。誰かとお互いが可哀想だと、傷を舐め合うことはしたくはない。


 だから、話し合ってお互いに納得の上で別れた。


 また独り身に戻った俺に女嫌いだと噂が立っても、寄ってくる女の数に変わりはなかった。


 そういう攻略の難しそうな俺を、従わせたいと思うめんどくさい女も現れた。そろそろ、本命の彼女を作ってでも諦めさせたいと思った矢先だ。


 いかにも大学デビューっぽいうぶな水無瀬さんは、俺の事を好きっぽい態度を取りつつも、他の女とは何か違った。同じように冷たい態度で素っ気なくしたら、何故かほっとして嬉しそうだ。まるで話せただけでも嬉しいと、そう言いたげに。


 そんな水無瀬さんは俺のことが、男として好きなのか好きじゃないのか。それは、最初から少しだけ気になってはいた。


 入学時に探した家からの引越しを考えなければならなくなったのは、俺にとって本当に不本意な出来事だった。


 話した覚えも面識も無い女が、俺を待ってマンションの前にずっと立っていたからだ。迷惑だと警察を呼んでも、いたちごっこで追い付かない。


 そして、それは数を増やしやがて一人だけじゃなくなった。他の住人の苦情が絶えなくなり、俺は引っ越しを余儀なくされていた。


 外見さえ良ければ人生イージーモードだと嘯く奴は、虚偽の証言をした罪で、俺の引越し費用でも負担してくれ。


 その時に、なんとなくあの水無瀬さんの住んでる駅が浮かんだのは、本当に深くは考えていなかった。彼女とは同じ大学に通っているし、同じ駅で交通のアクセスが良いのは当たり前のことだったし。


 ろくに話したこともないのに水無瀬さんの住む駅をなぜ知ってるかというと、それはちょっとした企業秘密だ。


 可愛い自覚のある女の子は、むやみやたらに自分の情報を明かさない方が良いかもしれない。目敏い連中に、すぐに裏で共有されるから。情報化社会は、本当に怖いよな。


 その時は、なんとなくで選んだつもりの引越し先だった。別に駅で彼女に会えるかもという具体的な期待も、まだ何もなかった。


 何気なく深夜のコンビニに入った時、いつも可愛い恰好をしているのに、部屋着で少し印象の違う水無瀬さんを見た時に、ようやくその時にやっぱりこの駅に住んでたんだなと、なんとなく思った程度だ。


 ミニワンピースのような男物の大きめのバンドTシャツに、両脚と言える部位は全て肌色で出ているような短パンを見て若干イラッとした時にも、水無瀬さんは俺の事が好きそうなのに、他の男の影が見えたからという自分勝手な理由だと、疑ってもなかった。


 今は知り合いは誰も居ないし、後で話し掛けられたら今夜くらいは適当に何か話そうかなと考えてはいた。まずは、偶然だねで入る世間話のパターン。


 そして、俺の前にはまさかの光景。


 雑誌棚の向こう、大きな透明なガラスを通して、コンビニ正面を早歩きで去っていく水無瀬さんが見えた。


「は?」


 それを見てから思わず唖然としてしまったのは、仕方ない。


 水無瀬さんは、てっきり買い物が終われば俺に話しかけに来ると思ってた。だって、大学では、いつも俺を見掛けたらすぐに挨拶に来て、嬉しそうに笑うからだ。


 そういえば、あの子は俺がどんなにつれなくしても、傷付いた様子はなかった。どんなに隠して笑っても、目の奥には傷付いた光が残るものだ。


 けど、水無瀬さんはどこかほっとして安心した様子なのだ。他の子とは、反応が明らかに違う。だから、気になっていたのかと、そう思い至った。


 あんなに俺が好きそうな素振りを見せる水無瀬さんは、俺に全く執着してない。


 雑誌を元通りにして、俺は急ぎコンビニを出た。小さな背中が見えたと同時に、小走りで追いかけた。


 目の前では俺のことが好きそうな女の子が、逃げるようにして足早に去っていく。


 それを見て、どうにも説明しづらい感情が心に芽生えた。捕らえたい話を聞きたい……俺のことを本当は、どう思っているのか。


 追い掛けられることに慣れた俺には、とても新鮮な出来事だったからだ。


 古い恋愛の格言は、今まで語り継がれるだけのことはある。


 なるほど。逃げられたら、追いかけたくなる。それは確かに。


 その通りだった。

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