第43話

 7月に入り、東京は連日真夏日だった。

 

 本郷医院の受付では、

「次に来る時は、保険証必ず持って来てくださいね」

 大きな声で、壱は耳の少し遠い患者さんへ笑顔で言っている。


「ああ、保険証ね、わかった」

おばあさんも、笑顔で答えていた。

 

 モデル並みの壱がすんなり小さな小窓のある受付に馴染んでいる。


 僕と壱は、5月に岐阜を引き払って、東京の僕の実家で壱と2人暮らしを初めた。

 両親は、曾祖父の家で暮らしていて、空き家になっていた。

 家具その他実家の全てを処分しても良いし、使ってくれても良い、好きにしろと言われた。

 両親の荷物も大量にあったが、これを機会に必要な物は曾祖父の家に移動して、いらない物は処分した。

 母親は、2件ウロウロしていたのでスッキリしたと喜んでいた。

 

 僕と壱の2人で一軒家は広いが、徐々に自分達の好みに変えて行く予定だ。

 

 引っ越しの片付けが済んだ後、本郷先生に戻って来た挨拶で伺った時、丁度受付の女の子が結婚を機に辞めて手が足りないと言われ、6月と言わず早めに手伝ってもらえないか?と聞かれた。

 募集は出しているけど、難しいとの事だった。成先生にも覚えてもらいたいって言われ、

一応早めに行く事にした。


 家に帰って、壱に言ったところ

「俺、面接に行こうかな」

真面目な顔で言った。


「えっ、本気か?」


「将来、成が、開業する時に手伝えるだろう。覚えておいて損はない」


 僕の心の中にグッとくるものがあった。

そこまで考えてくれるんだ。


 4月の下旬、引っ越しの少し前の4日間くらい法事で壱が実家に帰った時があった。

 僕は、壱がいる時は自分勝手に過ごしていたので、壱が居なくても毎日淡々と自分は過ごせると思っていた。


 壱が実家に帰って、壱がいないアパートに仕事から帰って来て愕然とした。


 一言、寂しい…。

 残り4日間はぽっかりと穴が空いた体をどうにか動かした。


 4日目の夜、壱が帰ってきた。

「どうした、どろぼうでも入ったのか」

 さほど驚いた風もなく、ドアを開けて入ってくるなりソファに座っていた僕に聞いた。


 足の踏み場もないくらい、洋服、ゴミ、ダンボールで埋まっている部屋だった。


 僕はかろうじて確保してあるソファに座って、

「寂しかった」

と、涙が出てしまった。壱の顔を見てホッとしたんだろう自分でも涙にビックリして直ぐ袖で拭いた。


 壱は、破顔して僕に抱きつく。

「成、俺もさびしかった、ずっと4日間は成の事を考えていた。

 成に俺がいなくて寂しかって言われ最高に嬉しい」


 直ぐ2人でベッドに移動した。ベッドの上も物だらけだが壱が全部床に落とした。

 結局、元の鞘に収まった。


 久しぶりぶり過ぎて、ドキドキしたが、長年の相手だ。幸せだ。


 2人で体を確かめあったあと、同じ失敗を繰り返せない為、たくさん話した。


 壱は、自分が僕の手を引くのが使命だと思っていて、外を見て欲しくないのに自分は自由にやっていたと、

 

「あのままの俺だと、嫌われて当然だ」


「僕は、壱に甘え過ぎて僕がなかった。あのままだったら浮世離れし過ぎて、早く逝ったような気がする」


「成、俺は成がいないと生きていけない。いない人生なんて考えられない。最初は……、意地を張って仕事に反対したけど、悪かった。

 言う事を聞いてくれるはずなんて甘いよな。自分は好き勝手して」


「僕は、壱に幸せになって欲しい。足手纏いになりたくない。

 大学の時の友人が、同じ年でもう一人分の生活面倒見れるって凄いなって言ったんだ。あたりまえの様に錯覚してた生活は当たり前じゃないと改めて思った」


「大学の友人?」


「あっ、壱に言った事なかったかな」

僕は、穏便に流したいので軽く言った。


「今度俺にも紹介しろよ」

壱も、もっと聞きたいんだろうが軽く終わりにした。


「ああ、わかった。

 たった4日間なのに、壱がいないアパートに帰りたくなかった。

 一人だった時もあるのに、壱が僕に尽くしてくれた生活は、あたりまえじゃなかった。

 壱、ありがとう」


「俺は成が大事だ。ずっとそう思って生きてきた。躓いて進めない時、成が手から離れた時、もう終わったと思った。

辛かった。狂しかった。

 入院しないで、このままでいいと思ってたが強制的に入院して、なんとか生きて、どうしたら、心を保てるか考えていた時、成がお見舞いに来てくれたんだ。

 奇跡が起こった、生きる指標が来てくれた。

 和井さんには、誰にも言うなって言っておいても言ってくれて感謝した。

 神がいるなら、チャンスをくれたんだと思った。

 今、ここにいる事が出来て感謝している。

成、俺の手を離さないで、俺は成の全てが愛しい。成に呆れられないよう精進したい」


「僕は、壱はもっと有名になりたいのだと思っていた。あっさり仕事を辞めて後悔してないのか?」


「俺は、万人に愛されなくて良い、成だけで良い、あっちもこっちもなんて虫の良い話はない何かを犠牲にすれば何かがなくなる。

 今までいた世界でウンザリするほど聞いてきた話なのに、足元に気づかなかった。

 俺を生かしてくれてありがとう」


 その数日後、無事引っ越しが無事終わった。

 

 本郷医院に僕が挨拶に行った次の日に早速、壱が面接に行った。

 本郷先生は、本当に働けるかと、壱に何度も聞いたらしい。

 確かに、ピアノで食べていた壱が、小さな医院の受付に応募するのは、誰が聞いても半信半疑だろう。

 一井成とは幼馴染だと言ったら、(2人が小学生の頃に何度か見かけた、成先生は小さな時から知っているからね、思い出したよ、良く成先生のランドセル前に背負って手を引っ張って歩いていた、あの時の子か、面影が残っている)と感心したようだ。


「たぶん、私です」


「今でも世話焼いているの?」

本郷先生に壱は揶揄われたらしい。


 一緒に5月下旬から働く事にした。


 実家のピアノの部屋は、壱が使いたいと言った。ピアノは趣味でやりたいらしい、早先生の影響だと思う。早々に調律を頼んでいた。


 早先生と圭さんには、遊びに来て欲しいと、最後に会った時、壱がしつこく言っていた。

 圭さんは、目が涙で溢れていた。


 もう離れて2か月くらいになるが2-3日も開けずに連絡アプリで壱と圭さんは近況報告しているらしい。


 お盆休みには圭さんの別荘でテニスをしようと誘われたが、僕と壱はテニスが出来ないので、遊びに行くとだけ言ったら、山も川あるから1泊は絶対にしてと言われたと、壱が言っていた。

 

 僕の事を壱は気遣っているのが、凄くわかる。家も職場も一緒で気疲れしないか心配だったが、杞憂だった。

 小学生の頃の壱に戻ったように僕の先回りをやってくれる。

 やる事が、壱が一番落ち着くらしい。


 僕から言わせると、だいぶ変わってんなあと思うが、一番言われたくないらしい。

 壱から言わせると僕が全て斜め上の方の考えらしいが、さっぱりわからない。


 東京での仕事も徐々に慣れてきたが、現実と言う大きな壁にあたりそうだ。両親の介護疲れ、曾祖父の日々加速する衰え、僕が僕だけを考えて入ればいい時代は終わった。人生のオプションは仕事かと思っていたが、間違いだった。次から次かと新しいの追加になる。


 誰しもが通る道だろう、逃げるのも人生だが。

 

 東京での生活は、壱が家事全般をやってくれる、僕は相変わらず勉強に忙しく、壱に申し訳ないと思いつつ、甘えいる。最近は着る服まで壱が出してくれたのを着ている。

 

 職場では、なるべく他人行儀にしている。昼は、僕は弁当で、壱は家に帰っている。

 昼の休憩時間に掃除とか夕飯の下ごしらえをしたいからといわレ、ああそうなんだと言う程度で言われた通りにしている。


 職場にスタッフは、僕と壱が一緒に住んでいる事は知っているが、壱が僕のパートナーで家事をやってくれているのは知らない。弁当は近くに住んでいる母親が作ってくれていると思っている。まあ、それで良い。


 壱目当ての若い患者さんが増えたとスタッフは言うが、壱は成目当てだって言い張る。

 僕からみても壱はかっこいいと思う。

 

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