4、本当の名前

 飛行艇が北の森の入り口へ降り立ったのは、翌日の明け方近い時間帯だった。


 「こちらがウォーメル君の学び舎ですか」


 というミロの声は、木々の中へ跡形もなく吸いこまれた。細い月と無数の星明かりを頼りに見る森は、まるで夜空とひと続きの闇の塊だった。


 セヴィアンは上着のポケットから小指の爪ほどのカンテラを取り出して、飛んでしまわない程度の息で温めた。カンテラはアリアが期待したように大きくはならなかったが、普通のカンテラよりも明るく辺りを照らした。


 「このカンテラ、妖精が作ったんだって――これだけ明るく光るんだから、多分本物だね。今から森に入ったとして、何事もなく校門に着いたとしても、そのころにはこの灯りはいらなくなる」

 「何事かあるんですか」


 ミロが上擦った声で聞いた。その声にかぶさるように暗い木間から陰気な笑い声が聞こえ、アリアとミロはぎくりと肩をすくめた。


 「誰か笑っていますよ、こんな時間に! ねえ、聞こえましたよねえ! 」

 「あれはルリフクロウの声だ。この森にしか棲んでない鳥なんだよ」


 セヴィアンは嬉しそうに森を覗いた。


 「なかなかついてるぞ。ルリフクロウは幸運の鳥なんだ」

 「確かなの? 」


 アリアはミロと一緒になってセヴィアンの肩越しに森を窺った。カンテラの光の輪から、爪先が出るのもなんだか怖い。アビゲールは寝ぼけていて、アリアの声は緊張の度合いをまるで表現できていなかった。


 「魔法院の校舎は昔、あるお姫さまのお城だったんだ」


 セヴィアンは平気で木立ちへ分け入っていく。アリアは彼のシャツの端を必死でつかまえたが、そうやっていくらも歩く前にセヴィアンが腕を組んでくれた。彼の掌の上に乗った小さなカンテラがよく見える。人形遊びに使うものほどの、冗談みたいに小さな灯かりの源の光は温かで、アリアはふと夢に見るようなことを考えついた――妖精というのはセヴィアン自身で、彼がみなの足元を明るく照らすために目をひとつ手の上に乗せているのではないか、と。とりとめもない思いつきだったけれど。


 「それでね」


 セヴィアンが話を続けようとちょっと振り向いた。右の目が薄く影に沈んで見えて、アリアはどきりとした。


 「そのお姫さまはほんの少し、魔法が使えた。いつも自分の力を生活の助けにしながら暮らしていたんだ。だけどあるとき、喧嘩した恋人をうっかり鉄の像に変えてしまった」

 「君もそんなことができるんですか」


 ミロが聞いた。彼が何でもない木の影にたじろいだことは、幸い誰の目にも留まらなかった。


 セヴィアンは意地悪な顔でミロの方を見た。


 「鉄と歯車の塊になるんなら、本望だっていう町の人もいるかもしれないな」

 「まさか」


 ミロは眉間に皺を寄せた拍子に今度は石につまずいた。セヴィアンは笑わなかった。


 「急に冷たい像になった恋人を前に、彼女は途方に暮れた。本当にうっかりやったものだから、魔法の解き方が分からなかったんだ。おまけに気位の高い人だったんで、素直に助けを求められなかった。もう少しで言ってしまうところだった。わたしは恋人が鉄製でも、何の不自由もないわってね」

 「言ったらいけないの? 」

 「言葉を軽んじてはいけないよ」


 セヴィアンはアリアの腕をうまく引いて、踊らせるように悪い足場を避けさせた。


 「昔は今より魔法が生きていたと言う人がいるけど、そうじゃない。今の人間が言葉に対する責任を忘れているだけさ。平気で呪いみたいな口を利く人がいっぱいいるじゃないか。二十四時間災いの呪いをかけているのと同じだよ」

 「そうなの……」

 「そうさ。だからよく気をつけて、優しい言葉を話すようにしなくちゃ。どうせなら妖精がかけるような、祝福の呪文の方がいいだろ? ――とにかく、彼女がそうやって知らず呪いをかけようとしたとき、窓の外でルリフクロウが鳴いた」


 折よく、例の鳴き声が聞こえた。近くの枝に一羽止まっているらしい。


 けけけけ、けらけら、くつくつくつ――アリアは腕に鳥肌が立つのを感じた。


 「本当に笑っているみたい……」

 「そう。まるで、こっちを嘲笑っているみたいだ。動かない恋人を前にした彼女は、その声で我に返った」


 セヴィアンは足元に落ちていた大きな羽根を拾い上げた。紺と、青と、水色と、三色の糸で模様を織り出したような美しい羽根だった。


 すごい柄だろ、とセヴィアンが言った。


 「彼女は城に仕えていた賢者に何もかも打ち明けて、恋人を元に戻してもらった。そのあと、自分の城を開放して賢者の知恵を授ける学び舎を整え、自分も弟子入りして本物の賢女になった。ルリフクロウは精神的な成長をもたらす導きの瑞鳥ってわけだ」

 「学生の味方なのよね。本当の意味で」


 アビゲールはセヴィアンの持っている羽根をおもしろくなさそうに見た。森の暗闇に溶けていきそうなルリフクロウの羽根とは真逆の色をした彼女の翼は、少し羽ばたくだけで緋色の光を派手に撒き散らす。


 「ルーイといいモンドといいあんたといい、どうしてここの学校に行くとかわいい緋色の小鳥を疎むようになるのかしら? 」

 「別に色で区別してるんじゃないよ」


 暗に君がうるさいからだと告げたセヴィアンの言葉は、アビゲールには通じなかった。


 夜が間もなく明けはじめ、じきにランタンがいらなくなると、顔を向けるのも怖いようだった木立ちの形が分かるようになってきた。ルリフクロウはいつの間にか一声も鳴かなくなり、陽が射すまでの白々とした時間が過ぎるうちに、昼間盛んに跳び回るような小鳥が声を立てだす。


 アリアたちはリスが一匹、赤い実をかじっているのに出会った。よく見れば実りの豊かな森なのだった。


 リスは人間たちをじっと見つめ、枝を伝ってセヴィアンの鼻先にするすると下りてきた。


 「セヴィアン・フィリオットーネ・ウォーメル君。記念すべき第五百七十八回生」

 「やあ、ケット」


 セヴィアンが挨拶すると、リスのケットは小さな口から大きな種を吐き出した。リスの間では特に無礼な作法ではないのだろうとアリアは思った。


 「お久しぶり。ご用件は、アルジェント・ルノ・ラーゴ教授から承っております」

 「間取りは変わってないよね? 」

 「ええ、地下から最上階まで、城ができたときのままです。もしよろしければ、みなさまのお荷物をお預かりいたしましょう。お部屋にお届けしますので」

 「ありがとう。助かるよ」

 「では、みなさま方のお名前をいただきたく」


 ミロが姿勢を正した。


 「ミロ・ブランキです」

 「アビゲール・ウォーメルよ」

 「アリア……アリア・ハットンです」

 「アリアさま」


 ケットは先の尖った枝で土に記帳しながら(アリアたちには読めない文字だった)顔を上げた。


 「それがご本名でよろしゅうございますか? 」

 「もしかして、芸名とか? 」


 セヴィアンが尋ねた。アリアが頷くと、セヴィアンはケットに説明した。


 「彼女はこの名前で、何人もの心を動かしてきたんだ」

 「さようですか」


 ケットは何度も頷きながら、アリアの名の横に特記事項を書き足した。


 「でしたら、そのお名前でもよろしいでしょう。広く知られている名前には、本名と同じように力がありますから。――はい、結構です。そこの木を左に曲がって、突き当たりが校門です。お迎えの方がいらっしゃるはず」


 言われたとおりに道を選ぶと、思いがけないほど近くに王城の尖塔があった。それまで何も見えてはいなかったのに、一度あると分かれば装飾の細かなところまでが目に入る。


 「ケットは門番なんだよ。あんなに小さいけどね」


 セヴィアンが言った。ケットの受付を通らなければ、誰であろうと絶対に城まで辿り着けないらしい。


 心が貧しく愚かなものは、体の小さいものや非力に見えるものを侮る。結果必要な知恵を与えてもらえず、永遠に目的を果たすことができないという教えなのだとセヴィアンは解説してくれた。


 「魔法院の一番の入学資格は、魔法を扱うのにふさわしい心の持ち主かどうか、ということなんだ。新入生や編入生はケットを無視せずに城まで行けるかどうか試されるんだよ」

 「無視したらどうなるの? 」

 「その年は入学見送りって聞いたよ。同じところを何時間もぐるぐる歩き回らされて、やっと着いたと思ったら森の入り口に戻ってる――らしい。あくまで噂だけどね。でも、賢者や賢女を名乗りたければ傲慢ではだめなんだ」

 「厳しい学校ですねえ」


 ミロはケットに対して姿勢を正した自分の振舞いはごく正しかったのだと分かり、胸を撫で下ろした。


 森が開けたところで、王城の正門が現れた。まだ早朝だが広い跳ね橋はきちんと下がっている。


 橋のこちら側で、ケットの言うとおり人が待っていた。その人はくすんだふうな金色の髪をいかにも実用的に束ね、丸ぶち眼鏡越しにこちらを見ていた。黒い上着には袖が通され、きちんと着こなされていたが、その代わり首元のリボンはちょっとずれていた。


 彼はにこにこしながら手を振った。


 「やあ、早くからお疲れさま」

 「フィリオットーネ君」


 セヴィアンは鼻に皺を寄せた。雰囲気はかなり違ったが、セヴィアンとフィリオットーネはよく似ていた。セヴィアンが髪を伸ばしてあと二十五年分くらい歳を取ったら、ちょうどフィリオットーネのようになるに違いなかった。


 「まだこの城にいたとは思わなかったな。留年したの? 」

 「聞いて驚くがいい、最近研究室が与えられたのだよ」


 フィリオットーネはレンズの奥からでも分かるくらいに目を輝かせた。


 「ただの研究職じゃない、魔法を使える研究者さ。もっと誇ってくれよ、息子よ」


 語尾を弾ませて言い、そのままの愉快な調子で、フィリオットーネは息子の連れてきたお客に挨拶した。


 「やあ、おはようお嬢さん。君が教授のおっしゃっていた歌姫だね。……アビゲール、ロッティはどうした? 」

 「お留守番よ」


 アビゲールは胸を張って答えた。


 「わたしは通訳のお仕事があるの」

 「とすると、彼女の代わりにおまえがしゃべるわけか、なるほどね。――おはようございます、あなたは? 」


 フィリオットーネはみずから蚊帳の外へ出ていたミロをみんなの輪の中へ入れた。ミロは頬をかいた。


 「わたしは単なる運転屋で……」

 「ミロさんがいなかったら、僕ら今頃あの草っぱらを歩いてたかもね」


 セヴィアンが言った。フィリオットーネは温和な顔のまま、わずかに片眉を上げた。


 「……そうか。なら、一等の客室をご案内しよう。まあ、一等以下の部屋なんてこの城にはないんだけど」


 セヴィアンそっくりの言い回しを披露して、フィリオットーネはミロを促した。アリアの治療が済むまでの間、ミロはもともと客室を世話してもらう予定だったのだ。とはいえ、整備士兼運転士として人生の大半を小さな工場で過ごしてきたミロは、学校という体の王城へ引っ張っていかれて居づらそうに小さくなっていた。


 円形の広場にも、風通しのよい渡り廊下にも、ガラス戸から窺った図書室にも、生徒はまだひとりもいない。アリアは耳を澄ました。石造りの廊下に反響する自分たちの足音を聞いていると、石と石の隙間に吸収されたこの城の日常の音がどんなだか分かるような気がするのだった。


 「こんなところ、あんまり入ったことないよ」


 セヴィアンの声は輪唱しているような響き方をした。


 「普段教室へ行くの、こんなに簡単じゃないよね? 」

 「君のように中の事情を知っている人間が一緒にいるなら構わないんだがね」


 フィリオットーネは客室のひとつにミロを案内しながら言った。扉が閉まる直前にちらりと見えたミロの顔には、まるきり畑違いの場所にいるからというだけではない微妙な不安が浮かんでいた。


 「来るのは魔法使いばかりじゃない。普通に歩くだけで辿り着ける部屋も、この城には残してあるんだ」

 「毎回違う場所に繋がる扉があるんだよ……他にも、おかしな扉がたくさん」


 セヴィアンがアリアに言った。


 「昔は、なぞなぞを解かないと開かない扉なんかもあったんだ。遅刻の言い訳にされすぎて外されちゃったみたいだけど」

 「父からひとつ謎を出そうか」


 フィリオットーネが言った。セヴィアンは一呼吸置いて父親を見つめたが、答えた声の調子そのものは単に時間を尋ねられたくらい気軽だった。


 「いいよ」

 「では聞こう。昨日、ノルド平原で飛行艇の事故があったようなんだが――あそこは君も知ってのとおりこの学校の所有地だからね。今、こちらからも調査が出ているんだよ」


 セヴィアンは瞬きひとつせずに聞いている。息を殺しているのだ。


 「それに君たちが関わっている可能性はいくらか。また、原因について分かっていることがあれば正直に答えなさい」

 「当事者だよ」


 セヴィアンは口答えせずに短く答えた。


 「原因ははっきり分からない。連結が外れたんだ」

 「連結? 飛行艇に? 」

 「汽車の形をしているんです」


 アリアは必死で父子問答に加わった。証人として参加しなければ、セヴィアンは事故の責任をみんな自分のせいにして、父親に裁かれてしまう気がした。フィリオットーネはセヴィアンに輪をかけて飄々としていたが、息子の不始末について何も追求せずに終わらせるつもりはないらしい。


 フィリオットーネは少し和らげた顔をアリアに向けた。


 「汽車の形。なるほど、運転席と客車が繋がってるわけだ」

 「セヴィアンの艇は町中で一番丈夫な設計だって、ミロさんは言ってたわ。連結だって、無理に外そうとしなければ外れないって――」

 「アリア」


 セヴィアンはアビゲールの嘴に指をやり、アリア本人より怒りぎみの声を黙らせた。


 「いいんだ。ありがとう」

 「表情と声が合ってないじゃないか」


 フィリオットーネは眉を下げて笑った。そうなって初めて、それまでの顔つきが彼としてはいかに険しかったかが分かった。


 「早く君自身の声を取り戻さないといけないね。うちの果報者のためにも」


 ほとんど体格の変わらない、背の高い息子の肩を叩く。セヴィアンはびくともせず、目を細めて父親を見た。


 「魔法で外された可能性を考えてる。もしかしたら、アリアの喉がおかしくなったことから繋がりがあるのかもしれないって。頭から決めてかかるのは危険だけど、なくはない。だから、こっちに来ることを優先したんだ。すぐ誰か来てくれるかどうか分からなかったし、広い場所でぐずぐずしてたら危ないかもと思って」

 「そうか……実は、君たちと約束しているラーゴ先生は調査と君たちの救助を兼ねてノルド平原に出られたんだ。そういう事情なら仕方ないが、裏目に出てしまったな」


 フィリオットーネは顎に手をやってアリアを見た。


 「セヴィアンの考えが正しいとすると、君の立場は、はっきり言ってあまり望ましくないね――君に狙われる覚えがないとすれば、なおさら。僕らも注意しないといけない。この賢女の学び舎で、愚かものを見逃すわけにはいかない」


 魔法の城は不思議なものばかりでできていて、アリアとしては待っている間も退屈するどころではなかった。セヴィアンの家といい、魔法使いがいるところというのはどこもこんなふうなのだろうか? セヴィアンにくっついて廊下を歩けば、三十歩に一度の割合で何かおかしなものが目に入るありさまだ。客室からさほど遠くない踊り場に、布に覆われて鎖でぐるぐる巻きにされた鏡を見つけたとき、アリアは思わずセヴィアンに隠れた。背丈と肩幅の比率上どうしても細長く見えがちな青年の背は、それでもアリアひとりたやすく隠せるくらいには広かった。


 「鏡の通り道の話、覚えてるかい」


 覚えているから隠れたのに、セヴィアンは朗らかに言った。


 「大丈夫だよ、たまに呻き声がするくらいだから」


 その日の夕方には、ラーゴ先生が戻ってきた。ラーゴ先生は忙しない足取りで玄関を入ってくると、大階段の上にセヴィアンとアリアがいるのに気がついた。そして、生徒からの挨拶にそつなく手を上げて答えたりちょっと言葉をかけたりしつつ大階段を上がってきた。黒っぽい制服の群れの中にあって、彼の銀髪はよく目立った。


 「やあ、お待たせしたね」


 先生はそう言って、顔に張りついた髪を指先で適当に払った。まっすぐな髪は顎の辺りで切り揃えられ、宝冠に似た純粋な一連の輝きが、この人は生まれついてこの髪色なのだろうと思わせた。


 ラーゴ先生は申し訳なさそうに頭をかいた。


 「いつでもおいでと言いながら、待たせてしまって本当にすまなかった。行き違いになってしまったようだね」

 「お疲れさまです。先生が来てくださると分かっていたら、その場で待っていたんですが……」


 セヴィアンは眉を下げて恩師をいたわった。それから、自分の背の後ろに一歩引いていたアリアを実にさりげなく先生と対面させた。ラーゴ先生は教え子の背後から現れた娘の手を取って丁寧に挨拶しようとした。


 結局それはうまくいかなかった。ラーゴ先生はアリアに目を向けたきり、手を握ったままであることも忘れてしまったかのように黙り込んでしまったのだ。息を呑む音がした。


 ややあって、ラーゴ先生はようやく、アリアにかなり不躾なことをしていると気がついた。しかしそんな動揺はおくびにも出さずに、アリアの手をゆっくりと放して一礼した。


 「……いや、失礼。その――わたしの知り合いによく似た方がいるものだから。つい驚いてしまった」

 「彼女にですか? 」


 セヴィアンが尋ねた。如才なく立ち振る舞う恩師の姿を見慣れている彼には、先生の動揺が新鮮だったに違いない。明るい色の瞳の中に、好奇心が顔を出す。


 ラーゴ先生は恐らく無意識に、髪とお揃いの銀色の目でアリアをじっと見つめている。不思議と、居心地の悪くないまなざしだった。


 先生はアビゲールを撫でてやりながら言った。


 「君の喉を診せてもらうことはもちろんだ。だがそれに加えて、わたしは君に確かめたいことができた」


 大広間のあちこちに散らばっている生徒たちの善良な目が、多かれ少なかれこちらを気にしている。ラーゴ先生はセヴィアンとアリアの背を両腕で抱いて促した。


 「わたしの研究室へ招待しよう。廊下で挨拶のついでにできる話はここまでだ」


 アリアは横を歩いているセヴィアンを見た。彼はほほえみを見せてくれたが、先生の話の筋が分からないのはアリアと同じらしく、わずかに肩をすくめた。


 ラーゴ先生の研究室は、魔法使いの部屋というよりは画家の工房か学者の部屋のようだった。鉛筆や木炭の素描がたくさん留めてあるせいで、もともとの壁はほとんど見えない。天井まで届く背の高い本棚には何千何百という本がきちんと収められ、背表紙と背表紙の合い間に、ときおり鉱石や植物の標本が置かれている。部屋の真ん中で鈍い金色に光る特大の天球儀といい、そのほかアリアには使い方の分からない複雑な形の道具といい、置かれているものはみなどことなく怪しげではあったが、風景としてはこれ以上ないくらい整っていた。ごちゃごちゃした道具やこまごました雑貨は、ひとつひとつが完成された絵の中の小道具のようにさえ見えた。天球儀の横に立ったラーゴ先生は、他のどの場所でもこうはならないだろうというほど自分の部屋が似合っていた。


 「相変わらずですね、この部屋は」


 セヴィアンは天球儀の逆さまの星座をなぞりながら感慨深げに言った。


 「相変わらずの散らかりようだが」


 ラーゴ先生は苦笑いで応じた。出張帰りの上着を書きもの机の椅子に引っかけ、机の上に並べられた瓶からいくつかを選び出す。大きな書きもの机には、不思議な模様の彫り込まれた首飾りのようなものだの、母岩から取り出されないままの何かの石の結晶だのが積み上がった本と紙の束の隙間を埋めるようにごろごろしていた。


 先生は指の一振りで品のいい長椅子を二台呼び出し、天球儀を中心に現れたそれへかけるように教え子たちを促した。


 「さて、まずは本題だ」


 ラーゴ先生は長椅子の高さに合う小さな机を引っ張ってきてからふたりの向かいに腰を下ろし、書きもの机から選び出した瓶を机に置いた。瓶はすべて同じ形に作られていたが中の薬は色とりどりで、栓にはすべて色の違う宝石がはめられていた。


 「発声器官に影響を与える原因は、わたしがすぐ思いつくだけでもいくつかある。風邪のような病の場合もあるし、怪我のような外的な要因もあるね。そこで我々魔法医は状況に合わせて〈薬〉を処方するわけだが、これは薬の場合も、毒の場合もある。我々はこのふたつを明確に区別しない。理由を説明できるかね、セヴィアン? 」


 「どんな作用があるかで呼び分けているだけで、薬と毒はほとんど同じ存在だからです。薬でも、過剰に摂取した場合は害が出ます。逆に、人体に用いるのはふさわしくないだけで、暮らしに役立てられているものもあります」


 セヴィアンは授業を神妙に聞いている学生の顔になって答えた。ラーゴ先生は頷き、続きを促した。


 「たとえば、分娩を促す薬草は用量によっては堕胎薬になります。画家は毒性のある鉱物から絵の具を作ったりするし、患者さんの体質によっては想定外の影響が出ることもあります」

 「そのとおり。模範的な回答だ」


 ラーゴ先生は満足そうに言った。セヴィアンが学生だった頃はこんな感じで教わっていたのだろうとアリアは思った。


「ここに出した薬は、喉に異常が出たときによく処方されるものの一部だ。炎症を抑える薬もあるし、痛みを取り除く保護薬もある。扱いの難しいものもある。これから君に行う治療は、君の症状と体質に合わせた薬を使ってやらせてもらう。どんな成分が含まれる薬なのかはその都度きちんと説明しよう。よろしいかな? 」


 アリアが頷くと、ラーゴ先生はにっこり笑って瓶を脇によけた。


 「君の味方になる薬は必ずあるから、心を安らかに。我が教え子の頭の中も、しっかり整理されているようだ。飛行艇の設計もずいぶん頑張っているみたいだし」

 「森の外のをごらんになったんですね」


 セヴィアンの仕草は肩を縮めるのと限りなく近かった。


 「うまくいってるなと思った矢先に穴がある。気をつけなさいと、先生には散々注意されたのに」

 「大切なのは何が起きたかよりも、次どうするかであるとも言ったはずだ」


 ラーゴ先生は穏やかに言った。そして、天球儀の近くの壁にかけられた大きな鏡を指さした。


 鏡には何も映っていなかった――すぐ間近に置いてある天球儀さえも。


 「この鏡には、〈緊急呼び出し〉の魔法がかけられている。この学校に関係のある場所で何かが起こったとき、その様子が映るようになっているんだ。すべての教職員の部屋に同じ鏡が置かれている」


 それで君たちが事故に遭ったことが分かった、とラーゴ先生は言った。


 「不測の事態に際して君が賢明な判断を下し、誰も命を落とさなかったということは重要だ。鏡越しでは詳細が分からなかったのだが、具体的には何が起こっていたんだね? 」

 「一番後ろの車両が外れそうになったんです。〈賢者の目〉を先頭車両にしか積んでいなかったので、もし連結が外れていたら危ないところでした」


 セヴィアンの声色は、父親に対峙していたときよりいくらか震えていた。


 ラーゴ先生は頷き、うつむいた教え子を真正面から見た。


 「君は自分の設計を客観的に見て、長時間の飛行に耐えられないものだったと思うかね? 君の目が、重大な欠陥を見逃したと? 」

 「いいえ」


 セヴィアンはきっぱりと顔を上げた。


 「僕は整備士として、手を抜いたつもりはありません。あの飛行艇はこれまで何度も運転されていますし、使われることが決まったら一度全部の部品を調べるんです。今回も出発前にきちんと点検しました。――だけど今度のことで分かったことも多かったので、もっと改良を重ねます」

 「よろしい」


 ラーゴ先生はにやりとした。


 「ならば、わたしが君を責めなければならない理由はない」


 ラーゴ先生はどこからともなくお茶の道具を取り出した。ポットのお湯は沸かしたてで、温かな湯気がふわふわと揺れている。


 「ケットに厨房への言伝を頼んだんだ。じきにわたしの好きな焼き菓子が届く。――さて、設計の手落ちによる事故ではなく、その他頑丈な連結が自然に外れる原因に心当たりがないとすると、事故という名称は改めなければね。事件――だな。この際、いたずらかもっと意識的なものか、という区別はどうでもよろしい。証拠となる故障を君が修理できることまで知られていたかは分からんが、ある意味ではそれが君の唯一の手落ちだったな」


 魔法絡みの犯罪に物的証拠が役に立つものかとアリアは思ったが、ラーゴ先生の口ぶりはそんなことは百も承知だと言っていた。


 「何か心当たりはあるかね、セヴィアン」

 「僕はコソ泥につきまとわれているくらいですね。まあ、人を殺したりするような人ではないと思います。それなりの美学があるらしくて」


 セヴィアンは懐かしむような顔をして言った。アリアも、あのマルチノ・フリアーニの人を食った陽気さがなんだか恋しく思えた。セヴィアンの口調に棘はなかった。


 「艇に異常が出るちょっと前、後ろからついてくる人がいたらしいんです。もしかしたらですけど、僕は狙われる心当たりはないし、アリアの喉のことと何か関係があるんじゃないかって」

 「ふむ。先入観を持つのは危険だが、どうやら偶然とは考えがたいね。相手が魔法使いとすると、フィリオットーネも同じことを言ったろうが、君たちの立場は非常に危険だ。……いや、恐ろしいことを言ってすまないが、はっきり口に出された方がマシという主義なのだ、わたしは。人は未知のものに恐怖する癖があるから。構わないかな、アリア? 」

 「はい」

 「よろしい。君は誰かに、命を狙われる覚えは? 」


 アリアは口ごもった。実際に事故に巻き込まれてしまったあとでは、もはやそんな質問も冗談には聞こえなかった。だが、彼女とて心当たりなどはないのだ。いいえ、と首を振ってから、アリアはあることに気がついた。


 「飛行艇を落とした人がわたしのお茶に毒を入れていたんだとしたら、どうして最初からお茶にもっと強い毒を入れなかったんでしょう? 」

 「なかなか勇敢な指摘だな」


 ラーゴ先生は愉快そうに言った。


 「最初のお茶では仕損じたので追跡してきた、という可能性はないかね? 」

 「それはどうでしょう」


 とセヴィアンが言った。


 「実は、アリアのお茶に入ってたものが何だったのかは分かったんです」


 セヴィアンは上着の内ポケットから畳んだ紙切れを出して、みんなに見えるように広げた。先生は頷いた。


 「なるほど、警察の鑑定書か」

 「ピッケさんが劇場の警護になるって言ってたから、ついでに話を通してもらったんだ。ぺルラさんはそれどころじゃなさそうだったし、グラニータ先生がいるにしても、劇場の医務室の設備だけじゃ成分の解析まではできないからね」


 いつの間にそんなことをしていたのか、セヴィアンはけろりとアリアに教えた。


 「アルモニアの人たちが使っていたカップとポットを調べてもらったんだ。そしたら君のカップに入っていたお茶だけに、イバラベニランの成分が見つかったって」

 「イバラベニラン? 」

 「そう。身近なところだと、磨き粉に入ってたりするよ。木も石も金属もぴかぴかに磨ける代わりに、加熱しないとすごく刺激が強いんだ。触っただけで肌がただれて、火傷したみたいな炎症を起こす。でも、色も臭いも味もしない」


 ラーゴ先生は本棚から一冊取ってきて、開いたページをアリアたちに見せてくれた。〈イバラベニラン〉が絵つきで解説されたページだった。


 「花や葉、茎、根などから原液を抽出して用いる。原液のままでは大変に気化しやすく、一度気化すると効果は嘘のようになくなる。使うときには何かに混ぜるのが一般的だ。水だとか、脂だとかね。もし君に一服盛ったものがいるとして、その人物がまだカレン・トーラントをうろついているとしても、イバラベニランの所有を理由に追及することはかなり難しいだろう。さっきも言ったが気化しやすいし、決して珍しい成分ではないからね。……イバラベニランは、加熱によって利用が可能になると解明されるまで、こんな名で呼ばれていた――〈見えざる執行者〉と」

 「〈見えざる執行者〉? 」

 「そう……イバラベニランは、日当たりのいい道端に生えるありふれた植物だ。君もこの花を見たことがあるのではないかな? だがかつては――本当に、昔のことだが――拷問や処刑に使われていたことがある。服用させずとも、鞭打った傷に塗り込むと、それだけで命に関わるほどの痛みがあるからね」


 ラーゴ先生はアリアの顔色を窺いながら言った。だが、彼女が青い顔をしながらも気丈に聞いているので、話を続けた。


 「もちろん多量に服用すれば、内側から火炙りにされるようなものだ。命が助かったとしても、重大な後遺症があとに残る可能性がある」

 「でも、暗殺には向いていない」


 セヴィアンは自分の喉の辺りをさすりながら言った。アリアにも、理由が分かった。


 「そうだわ……少し飲んだだけであんなに痛いんだもの。そんなにたくさん飲んでしまうまで気がつかないわけないわ」

 「そう。だから事件性があるとしても、君の命が狙いというわけじゃないんじゃないかと僕は思う」

 「行動の裏には必ず目的がある」


 ラーゴ先生は机に並べた瓶の中から薬を選びはじめた。イバラベニランという名前が出たときから、もう彼の頭の中にはいくつかふさわしい治療がひらめいていたに違いなかった。


 「君たちは、ここへ治療に来ようとしていた。その道中飛行艇を落とそうとしたということは、君たちの旅路を妨げたかったとも考えられる。治療に向かわれると都合が悪いということは、声を奪ったことの理由にもつながってくる。たとえば――これはあくまで仮定だが、〈誰か〉は君に舞台に立たれては都合が悪い。君と、他の団員が一緒にいると困る。あるいは、君に歌を歌われては差し障りがある、だとか。君たちの命を奪いたかったのではなく、事故以上に恐ろしい経験をすることを恐れた君たちが旅を断念し、カレン・トーラントに引き返すことを企んでいたのかもしれない。なぜかは分からない。だが、みずからにとって〈善〉でないことをする人間はいないのだ」


 大皿に、赤いジャムの乗ったクッキーと小さなチョコレートが山盛りになって現れた。先生はクッキーをひとつ取り、ふたりにも適当に勧めたが、自分はしばらくはそれがお菓子であることを忘れたようにこんがりとした繊細な焼き菓子をいじっていた。アビゲールがひとつつまんでアリアの前へ持ち帰り、自分の羽根と同じ色をしたジャムをつついた。


 「わたしの師の話をしようか」


 ラーゴ先生はぽつりと言った。もろい焼き菓子は先生の手の中でほろりと砕け、ひとかけらずつ上品に口へ放り込まれた。


 「イルゼ――イルゼ・ミュセッティという方だが。セヴィアン、知っているね。この国を代表する賢女のひとりだ」

 「はい、よく……」


 そう言うセヴィアンの、頬の辺りが少し緊張していた。


 「僕もお目にかかったことはあります」

 「君のおじいさまと同級でいらしたそうだね。ルイージ・ウォーメル、同じく偉大な方だった。――実は、そのイルゼ先生は娘さんを亡くしておられてね。ある事情で、先生は娘さんのことを口に出すことはなかった。だがわたしはあの方がどれほど悩んでいたかをよく知っているつもりだ」


 一瞬、沈黙が下りた。セヴィアンがこちらを見つめるのを、アリアは頬の辺りに感じた。


 「君は若い頃のイルゼ先生によく似ている――いや、もっと言えば、先生の娘さんにそっくりだ。……君のお母さまも、歌手だった。そうだね」


 とラーゴ先生は言った。アリアはためらったが、頷いた。ラーゴ先生は続けた。


 「……恐らく君は、お母さまから禁じられていることがあるだろう。簡単に名前を明かしてはいけない、とかね。君がわたしの思ったとおりの人生を歩んできた場合に備えて、君がお母さまの言いつけを破らなくてもいいように、わたしが君の本当の名を言い当てよう」


 長くこのときを待ちわびていたような気がした。アリアが傍らの青年の手の端に縋ると、セヴィアンはアリアの望んだとおりに手をそっと握ってくれた。


 ラーゴ先生はこちらがはっとするほどはっきりした声で言った。


 「君の名はクロエ。――クロエ・ミュセッティだ」


 一度頷くだけで、すべてが伝わった。

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