カレン・トーラント 歯車の町

ユーレカ書房

1、歌姫と魔法使い

セヴィアンは困っていた。彼にしては珍しく、とても困っていた。


 「おまえなら治せるだろ」


 という隣人の判断のもと、町の劇場の中の楽屋に引っ張ってこられたところだ。劇場つきの魔法使いがちゃんといるというのに、どうして僕が。


 彼の目の前には娘がひとりうつむいて座っていた。手入れを怠らないのだろう、艶のある髪が一房、胸まで垂れている。彼女は今この劇場に招かれている歌劇団きっての歌姫なのだ、と彼は紹介された。


 「ちょっと」


 と、彼女の友人のひとりがセヴィアンに食ってかかった。彼女も歌手だ。非難がましい声が余計に頭に響いてくる。


 「あなた、アリアの喉を治せるんでしょうね? 」

 「君たち同じ歌劇団なのにずいぶん性格が違うみたいだね」


 頭ごなしにうるさく言われるとつい嫌味を返してしまうのは悪い癖だという自覚はセヴィアン自身にもあった。だが、彼もまたいらいらしているせいで、どうにも止めようがなかった。


 「ディーナ、おやめ」


 身なりのいい男性がやんわりとディーナを黙らせ、アリアの肩に手を置いてセヴィアンを見た。彼はエドウィン・ハットン、歌劇団の団長だ。物言いのきついディーナを止めはしたが、彼も聞きたいことは同じなのだ。


 「ウォーメル君。……」


 エドウィン団長は咳払いして、セヴィアンに尋ねた。


 「アリアはまた歌えるようになるかね? 」


 カレン・トーラントは大きな町だ。職人と芸術家がたくさん住みついていて、普通じゃつまらないという理由で、劇場を海の上に建てた。そんな珍しく、歴史学的にも建築学的にも価値のある劇場で、アルモニア歌劇団は先週から公演をしていた。音楽など隣の家の人の鼻歌で十分という人でも、名前くらいは知っているという人気の歌劇団だ。


 どこの劇場からも引っ張りだこの引く手あまた。しかし、いくら評判が高まっても、どんなに団員が増えても、どこの劇場にも所属しない、旅の劇団。もともとのひいきも、前評判につられた人も、事情はいろいろに劇場に集まった――。


 「フランコさん、ちゃんと説明してよ」


 セヴィアンは自分を引っ立ててきた隣人に言った。フランコは音楽狂といえるほどの男だが、それがオルゴール職人だからかは分からない。セヴィアンはその場の全員を見回した――彼とフランコの他に、歌劇団の歌手たちや劇場の管理人、専任の魔法医など、さまざまな人が集まっていた。


 「みなさんも。どうしてこんなことになったんですか? 」

 「わたくしたちにも分からないのです」


 劇場管理人のペルラ女史が言った。ぺルラさんは背の高い厳格な女性で、今も取り乱すまいとしてか、厳しい顔で唇を結んでいた。


 無理もない。今一番緊張しているのは、誰あろう彼女なのだから。


 「わたくしは、アルモニア歌劇団のみなさんにお茶を配りました。わたくしが見る限り、こうなったのはそのお茶が原因のようでした。アリアさんはお茶を飲んだあと、急に声が出なくなってしまったのです」


 ペルラさんは銀のポットをみんなに見せた。セヴィアンが受け取って蓋を取ると、花の香りが湯気とともに立ち上ってきた。


 「このお茶は、ペルラさんが作ったものですか? 」

 「いいえ。お茶を頼んだのはわたくしですが、お湯は食堂で入れてもらったものです。お茶の葉はこの劇場の売店でも扱っているもので、毎日同じようにみなさまにお出ししていました」

 「そうよ」


 とディーナが口を挟んだ。


 「今日のお茶だって、いつものと変わらなかったわ。アリアも、そのお茶が好きで自分で買いに行ってたくらいだもの」

 「もちろん、喉を荒らすような成分は入っていません。カップも普段と同じものです」


 劇場つき魔法医のグラニータ女史が冷静に言った。


 「今の状態から判断するなら、アリアさんが予定通りの舞台に出演することは不可能です。舞台どころか、この先声が……」

 「グラニータ先生」


 セヴィアンはやんわりとグラニータ女史を止めた。エドウィン団長はセヴィアンに目で感謝を伝えた。


 「アリアが演じるのは〈デルトーレの賢女〉といって、大変難しい役です。歌うところが他の役の二倍ほど多く、喉にも負担がかかる。……少しの間、代役を立てようと思います」


 エドウィンがアリアやディーナより少し幼い印象のある少女の背を押した。ミリアと言う名のその少女は急にこんなことがあったからか、突然大役を任されたからか、何も悪いことをしていないのにびくびく震えていた。


 『デルトーレの賢女』は、ある国の伝説をもとにした歌劇だ。魔女として処刑される運命にあった賢女を彼女の恋人が身をもって救い出す場面は、初演以来歌劇史に残る名場面として名高い。


 アリアがセヴィアンを見上げた。口を開こうとしない。声の代わりに出るぜいぜいという息は、彼女には耐えがたいに違いない。


 セヴィアンは優しく尋ねた。


 「痛むかい? 」


 アリアは頷いた。眉間にしわを寄せて、顔をしかめてみせる。さすが舞台女優、なかなかの表現力だ、とセヴィアンは思った。


 「熱を持っている感じ? 炎症みたいな? 」


 アリアは頷いた。セヴィアンはさらに聞いた。


 「息は苦しい? 」


 アリアは考えるそぶりを見せた。――少し、そうかもしれないわ。


 「痛くなったのは、お茶を飲んですぐかい? 」


 ――ええ。


 「どうしてこんなことになっちゃったの? 」


 ディーナは気が急くのか、また噛みつき癖を出しかけた。誰かが心配なあまりに怒り出す人はたまにいる、とセヴィアンは分析した。


 「話を聞く限りじゃ、お茶を飲んで喉が腫れているって感じだと思う。お茶で火傷したっていうわけじゃなさそうだから、なにか刺激の強いものを飲んじゃったとかかな? 」

 「わたしもそう思います」


 とグラニータ先生が頷いた。


 「この劇場にあるものだけでは、処置ができません……そのくらい、強いものです」

 「刺激の強いもの、とは? 」


 エドウィンが乗り出した。グラニータ先生が言った。


 「さあ、詳しく調べてみないことには、何とも分かりかねますが……しかし、お茶を一口飲んだだけでここまでの炎症を起こすものは、かなり限られてくるとは思います」

 「それでは」


 エドウィンは細めの目を見開いた。彼は温和なので、使う言葉も柔らかだ。


 「あまり、偶然というわけではないかもしれないね」

 「いろんな理由が考えられます」


 セヴィアンはエドウィンに向かってというよりも、アリアの気持ちをこれ以上損なわないように穏やかに続けた。


 「彼女の喉と、たまたま相性の悪い成分が入っていたのかもしれないし。ずっと同じものを体に取り入れていると、急に受けつけなくなることがあるんです」


 ディーナはやはり黙っていられなかった。


 「それで、あなたに治せるの? 」

 「何とも言えない」


 セヴィアンは他の言い方がないかとしばらく考えたが、結論としてはそう言うしかなかった。


 「本当の原因が何なのかもまだ分からないからね。でもせっかく話を持ってきてもらったんだし、僕にできることはやってみるよ。僕の先生に手紙を書いてみる……場合によっては、先生のところへ治療に行くことになるかもしれない。それでもいいかい? 」

 「いいよな。なあ」


 フランコが脇からアリアを覗き込んだ。


 「セヴィアンは大した魔法使いだよ。心配するなよ」

 「時間はいくらかかっても構わない」


 エドウィンはアリアの背を庇うように立っている。父親が娘にするように、そのまま抱擁しそうにも見えた。


 「この子の喉を治してやってやりたい。力を貸してくれないか」

 「――分かりました」


 ここで断って帰る意味はあまりないだろう、とセヴィアンは思った。アルモニア歌劇団の人々の様子を見る限り、治療の可能性があるならどんなことでも試そうとするだろう。カレン・トーラントですぐに治療に入りたいというなら、彼らはセヴィアンかグラニータ先生に頼るしかないのだ。


 なぜなら――。


 「団長」


 小部屋の扉が開いて、青年がふたり入ってきた。歌劇団のライアットとスオロだ。ライアットが言った。


 「この町、病院が三軒しかなくて、しかもどこも専門が眼科だっていうんだ。怪我の手当てくらいならするって言ってくれたけど、大がかりな処置が必要なら隣町まで行った方がいいって」

 「目を使う仕事が多いからな」


 フランコが口を挟んだ。


 ライアットは道化が当たり役と評判の青年だ。困ったぜ、という仕草が妙に板についていた。


 「ああ、患者のほとんどは近視か白内障だってさ」

 「それに」


 スオロは自分たちが出ていく前にはいなかったセヴィアンが訳知り顔で患者の前にいるのを見て目をしばたたいた。


 「魔法使いもあんまりいないらしい。おれが知ってるのは劇場つき魔法医のグラニータ先生と、金髪の兄ちゃんだって言われました――」

 「決まりだな、金髪の兄ちゃん」


 フランコがセヴィアンの背を威勢よく叩いた。



 アリアは不安だった。


 他のことを思う余裕なんてなかったけれど、胸いっぱいの諦めの気持ちの中に強いて何か見出すとしたら不安だった。


 不安なのは、絶望的な状況に希望が現れたからだ。彼さえ現れなければ、と隣を歩く青年をそっと窺った。もしかしたら治るかもしれないなんて、考えることはなかっただろう。もしかしたらなんて、アリアは考えたくなかった。治らないなら治らないと、はっきり宣告された方がましだった。元のように歌えるようになるなんて信じられない――ペルラさんに出されたお茶を一口飲んだ瞬間の、あの痛みときたら! 真っ赤に焼いた火箸を喉の奥にねじ込まれたような、凄まじい感覚だった。時間が経った今でも、なおずきずきとしつこく痛んでいる。引く気配がない。


 どんなに痛くても、声さえ出せるのならアリアは耐えられた。だが、とてつもない痛みの中で必死に出そうとした声は、声になっていなかった……喉はだめになってしまったのだとしか思えなかった。みんながアリアの喉を治すために手を尽くそうとしてくれているが、そうされればされるほど彼女は辛かった。この痛みを知っているのは、彼女だけだ。誰かひとりでもアリアと同じ症状が出ていれば、きっとその人も彼女と同じ感想を抱いただろうが。


 何とも言えないなんて言わないではっきりおっしゃってと言いたかったが、何もできなかった。だって、声が出ないのだから!


 「おれのうちはここだ」


 ふたりと一緒に劇場を出てきたフランコが、緑色の戸のついた店を親指で指した。気さくな人だが口下手らしく、彼は道中一言も話そうとしなかった。


 〈ファラデー〉と看板がかかっている。ゼンマイねじと音符の絵が一緒に描かれていて、曇りぎみの窓から金色に光るオルゴールの蓋が見えた。


 フランコは一度店に入り、小さなオルゴールを持って戻ってきた。


 「今はこんなの聴きたくないかもしれないけど……」


 オルゴールをアリアの手に乗せて、フランコは口ごもった。


 「まず、楽にしなよ。気持ちをさ」


 銀色の蓋に細かな細工で妖精が彫られていて、赤い宝石がはめてある。ありがとうございますと言う代わりに、アリアは膝を折ってお辞儀をした。


 「ありがとう、フランコさん」


 とセヴィアンが言ってくれた。フランコは親しみを込めたしかめっ面を向けた。


 「おまえが何台か組み立てて返せ! 」

 「素直に手伝いに来てくれって言えばいいのにね」


 フランコが店に引っ込むのを見ながらセヴィアンが言った。


 「うちが隣だから、しょっちゅう呼ばれるんだ」


 フランコの店の隣は、白壁の家らしかった。戸も窓もついていない、白い箱のような建物が白い塀に囲われている。屋根にオレンジ色の瓦が乗っているということで、辛うじて家だと分かった。


 「今は鍵がかかってるんだ」


 セヴィアンは継ぎのない白塗りの壁を指でなぞり、傍から見ているだけではなんだか分からなかったが、何か模様を描いた。


 アリアは瞬きした。塀はくり抜かれて丸いアーチになり、中庭に黄色い蝶が飛んでいるのが見えた。


 「君がうちにいる間は、開けておくからね」


 中庭は広く、花壇というほど整理されてはいなかったが、アリアはセヴィアンが彼風に〈鍵を開けて〉回っている間に違う種類の花を十二も数えた。


 「帰ってきた! 」


 中庭を見下ろす窓はひとつだけあり、その窓から声がした。どうも子どものような甲高い声だったので、アリアは驚いてそちらを見た。その子がどんな顔をしているのか分かる前に、小さな人影は金色の髪をさっとひるがえした――。


 「お客さん」


 一階にある扉のひとつが(セヴィアンが鍵を開けるまではひとつもなかったのに、本当はおかしいくらい扉だらけの家だったのだ)ばたんと開いて、飛び出してきた影がアリアに飛びついた。


 「いらっしゃい。セヴィーのお客さん? 」


 彼は顔を上げてにこにこしながらアリアを見つめた。この子は、セヴィアンにそっくりだった――金色の髪に、明るい色の目。笑顔がずいぶん人懐っこい。


 「ロッティ」


 セヴィアンは呼びながら彼の襟首を掴み、アリアから引っぺがした。


 「おまえね、僕の顔で妙なことをするのはやめてくれ。というか、姿を変えるなら違う顔にしてくれよ。おまえのせいで何度人に誤解されたか……」

 「これは貴重な経験なんだぞ」


 ロッティは白い頬を真っ赤にして小さな拳を振り回した。セヴィアンの方が腕が長いので、あまり意味のない攻撃ではあったのだが。


 「小さな頃の姿っていうのは、いつの間にか過去に置き去りになるんだから。もっと自分の成長を噛みしめる機会を――」

 「エセ哲学はよそでやってくれよ」


 セヴィアンは庭の葉叢の中へロッティを放り投げた。アリアはその仕打ちにびっくりしてセヴィアンを見たが、セヴィアンはそっちを指さして言った。


 「見ててごらん」


 葉叢はしばらくごそごそと動いていたが、ロッティは起き上がってこなかった。代わりにお腹の太った犬が起き上がろうとしてごろごろ転げまわり、ようやくべたりと土に顎をつけてセヴィアンを睨んだ。耳と顔だけが黒く、まん丸な目をして、顔は皺だらけだ。


 「よくも放り投げたな。動物虐待は犯罪だぞ」


 ぷすんぷすんという、くしゃみのような鼻息で花が揺れている。セヴィアンは唸っているロッティに構わず言った。


 「アビゲールを呼んできてくれよ。あとで好きな缶詰開けてやるからさ」

 「ほんと」


 ロッティはたちまち飛び起き、開け放した戸の中へ駆けていった。セヴィアンはアリアを連れて同じ戸をくぐり、玄関でふかふかした部屋履きを彼女に渡した。濡れた雑巾がそばに置いてあって、犬の足跡の形に泥の跡があった。


 「家に泥を持ち込むのは合理的じゃないと思うんだ」


 セヴィアンは石の床を靴下の足で歩きながら自分の部屋履きを突っかけた。


 「不便かもしれないけど――」

 「あんたが掃除嫌いなだけじゃないの」


 真っ赤な塊が飛んできて、セヴィアンの頭の周りにまつわった。赤い光が反射し、見つめていると火花を間近で見ているみたいに目がちかちかする。


 「いい加減、部屋を片付けなさいよ。今週に入ってもう二度もゴキブリを見たんだから! ロッティは君が食べればいいなんて馬鹿なこと言うから、もう口きいてやらないの。わたしがあんなもの食べるわけないじゃないの」

 「アビゲール、お願いがあるんだ」


 セヴィアンは腕で顔を庇いながら丁重に言った。顔に出ているとおりに、うるさいなあとは言わなかった。言ったら余計にうるさくなることが分かっているのだ。


 「彼女の代わりに喋ってくれ。その素敵な声でさ」


 皮肉っぽい一言だったが、アビゲールは気をよくしてセヴィアンの肩にとまった。それでようやく、彼女が何なのかが分かった。


 アビゲールは緋色の小鳥だった。ロッティと同じように人間の言葉を話しはするけれど、ちょっと首を傾げてちょんちょんと跳ね回る仕草など鳥そのものだった。


 アビゲールはアリアの肩へ飛んできて、すぐそばからアリアの顔を覗いた。


 「わたしたち、どこかでお会いして? 」

 「アリアはアルモニアの歌手だよ。君はよく知ってるだろうね」


 セヴィアンは髪に刺さった赤い羽根を指で摘まんだ。


 「アビゲールは歌手になりたいんだ……君みたいな」

 「嬉しいわ」


 アリアが思わず呟くと、少し遅れて声がついてきた。痛いのと驚いたのとで喉を押さえたが、声を出したのはアビゲールだとすぐに分かった。アビゲールは唇の動きを見て、アリアが何を話しているか見当をつけているらしい。アリアは唇だけ動かすことにした。


 「『真似をするのが上手なのね』? それがわたしの仲間の魔法なのよ。でも残念だけど、いくらあなたの声を真似してもあなたのようには歌えないわ」

 「アビゲール、この町の鳥の中で一番速いのは誰だい? 」


 セヴィアンが聞いた。廊下を歩き、突き当たりの戸を開ける。


 中は真っ暗だった。壁にカーテンだけがかかっていて、窓がまだひとつもない。セヴィアンはカーテンをひとつ引いて閉じ、外からオレンジの光が射してくるのを待ってから開いた。が開いたのだろう、窓ができていた。


 「手紙を出したいんだ」

 「手紙? 」


 アビゲールは西日に目を細めた。一度光が入ってくると、他の窓が初めからそこにあったかのように浮かび上がった。


 「郵便局じゃだめなの? 」

 「なるべく早く届けてもらいたいんだ。この町の郵便局は、まだ全部人の手で配達されてるだろ。あちこち経由しないで、直通で届けたい――うーん、でも、訓練されてない鳥に配達を頼むんじゃ余計時間がかかるかなあ。田舎なら鷲便とフクロウ便と鳩便と、いくらでも選べるのに」


 セヴィアンの机の上はものでいっぱいだった。画家が持つような厚紙の束のそばに木炭とパステル絵の具が転がっていて、紙を破って丸めたらしいのは、床にまで落ちている。パステルは黒や焦げ茶や深緑など、暗い色ばかりだった。


 アリアが見ていると、紙の束が起き上がって横へどき、パステルと木炭は粉を撒きながら机を飛び跳ねていって、そばの小箱にかたんと収まった。


 「便利よね、魔法使いの手って」


 とアビゲールがアリアに言った。


 「馬鹿言うなよ」


 セヴィアンがやり返した。


 「この程度の魔法だって、何ページも教科書を読まされるんだから」

 「魔法をうまく扱えない子は……でしょ? 」


 アビゲールが横目でセヴィアンを見た。


 「教科書なんか斜め読みしてたくせに。ルイージもそうだったし、モンドもそうだったわ」

 「そうでもないさ」


 引き出しから便箋と手書きの名簿がするりと出てきて、机の上に重なった。セヴィアンは名簿を取り上げ、目当ての名前を目で探した。


 「ラーゴ先生……先生は厳しくてね……エレ、L――」

 「あんなに遠いところへ送るの! 」


 アビゲールは驚いて羽ばたきを繰り返した。


 「だったら、大鷹か渡り鳥がいいわ。そろそろ北から団体でこの国に来るから」

 「ああ、白鳥なんかいいんじゃないかい。優雅だろ」

 「冗談じゃないわよ」


 アビゲールはアリアの肩の上でそっぽを向いた。


 「優雅なもんですか。あいつらすぐわたしの羽根を抜こうとするのよ」

 「僕の先生は芸術家の職業病の専門家なんだ」


 セヴィアンはアリアに向かって言った。


 「腱鞘炎にものすごい近眼、それに石の粉を吸いこんだ呼吸器の治療。咽頭器官も資格範囲だったはずさ。芸術に造詣の深い先生だから、君のことも知ってるかもしれない」

 「資格? 」


 アリアはアビゲールの声を借りて聞き返した。セヴィアンは頷き、あんまり区別されてないけどね、と前置きした。


 「生まれつき魔法が使えたとしても、それを仕事として使っていいかどうかはまた別の問題なんだよ。昔は森の奥で薬を煎じられればよかったんだろうけど、今は人を治療するのにだけは免許がいるんだ」


 セヴィアンはインク壺と羽根のついたペンを出しがてら机に乗っていた銀の包みを取り、指先で何か魔法をかけてから、アリアにくれた。


 「チョコレートだよ。ゆっくり溶かしながら食べてみて、痛くないはずだから」


 チョコレートだなんて、喉にしみそうだ。ところが、怖々口に入れたチョコレートはひんやりとした不思議な味がして、気がつけばあれほどひどかった喉の痛みが楽になっていた。声が出ないのは同じだったが、痛みがないだけでずいぶん違った。


 セヴィアンはアリアの様子を見守りながら言った。


 「僕は職業魔法使いの免許をもらえなかったからね。君の喉を勝手に診るわけにはいかないんだ――僕にできるのはこのくらい。応急処置の、痛みどめ。治ったわけじゃないから無理はしちゃいけないよ」


 アリアはうつむいた。アビゲールが頬に擦り寄ってきた。


 「元気出しなさいよ。セヴィーには治せないってだけなんだから」

 「傷つくなあ」


 セヴィアンは間延びした声で言いながらインク壺の蓋をひねった。


 アリアはひどく気の塞ぐような思いを味わいながらも、好奇心を隠しきれなかった。不躾にはならないだろう――唇は動かさずにおいたのだから。


 「僕がどうして免許をもらえなかったのかって? 」


 しかしセヴィアンは、アリアのまなざしから頭の中をすっかり読み取ってしまった。そして、呆れることもなく笑った。


 「そりゃ君、問題児だったからさ」


 アリアは二階に部屋を借りることになった。一年くらい開けていないとセヴィアンは言ったが、埃はなかった。窓からはさっきの中庭が見えた。


 「どこでも好きに歩いてくれて構わないけど……うん、昔話みたいに、この部屋だけは開けないでなんて言わないよ。そしたら君は、その部屋を開けなきゃならなくなるからね。でも、あんまり開けてない部屋だと虫がいるかも……」


 セヴィアンは窓をがたがた鳴らしながら開いた。木くずを落としてようやく開いた窓から一緒になって外を覗くと、赤に変わりかけの夕空が広く見えた。


 「昨日より花が増えてるような気がする。どれか新しく咲いたのかな? 」

 「増えたかは分からないけど、十二種類あったわよ」


 とアリアは教えた。


 「君は魔法使いの素質があるよ」


 セヴィアンは目を上げはしなかったが、口元がほほえんだ。


 「人の気づかないような、小さな細かいことにこそ大きな真理があるものだって先生から教わった。そういう小さなことに気がつく才能が魔法には必要なんだ」


 セヴィアンは窓を開けたままにして、窓枠にまた何か模様を描いた。


 「今の時間だと、花もみんな暗く見えるね……ここ、しばらく開けておこうか。埃っぽいから」


 何かあったら一階に来てね、と言い置いて、セヴィアンとアビゲールは部屋を出て行った。


 部屋にはペンとインクを備えつけた小さな机が置いてあった。その椅子に腰かけて、窓越しに薄明るい空を眺めることの他に、アリアは今何もしたくなかった。そうしているうちに、彼女はオルゴールをもらったことを思い出した。


 オルゴールは宝石箱を兼ねていた。蓋を蝶番で開くと音が鳴るのだ。


 普段は服の内側に隠している首飾りを外して、宝石箱の中へ入れてみた。舞台に立つための豪華な真珠やダイヤモンドはひとつも持ってこなかったが、これだけはずっと、何があっても持っているつもりでいた。


 オレンジ色の大きな石がひとつ、古い革紐についているというだけのものだ。何という石かは分からない。ディーナが赤いオパールだと鑑定したことが前にあったのだが、そのあとですぐ彼女本人が首を傾げたのだった。


 「似ているとすればオパールなのよ。この、中にいろんな色が入ってる感じなんか。でも、やっぱりちょっと………まあ、こんなに綺麗なら何だっていいわよね」


 この首飾りは、もともとアリアの母が持っていたものだった。アリアが六つのとき、十八歳になったらあなたにあげると母は約束した。だがそのあと、十二年も早くアリアのところへやってきた。母の形見はこれひとつだった。


 かりかりとオルゴールのねじを回して、机に頬をつけた。緩やかな旋律の曲がとろとろと流れ出すと、元になった歌の詩を思い浮かべる間もないくらいに早く心が音でいっぱいになる。


 ランプをつけるのも忘れていた。泣くことも慰めになるのだと、アリアは思っていた。

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