第37話 異界化現象 No.38【G1-1】

 第一人者は素晴らしいですね、と褒めた主人公に誰もやっていない分野の研究を始めれば第一人者になれる、と切り返した登場人物がいた、と星川 千月は思い出す。いわゆる異界化現象の第一人者になってしまった身としては、切り返した登場人物の方に共感できる。

 儀式でとり起こった人間たちの魔力を使って結界を形成する。結界内の人間の意識に作用して、魔法を使わせる。乱暴な表現をすれば魔法は現実を書き換える力だ。ひとりひとりの力が小さくても、人数が増やし、範囲を狭めれば、強い力を持つ。現実は法則が書き換えられていく。電気に関わるものは影響が受けやすく、通信機器は真っ先に使えなくなる。進行すると結界内の人々はこの中が世界のすべてだと思うようになる。身体面でも結界内の法則に適応がはじまる。やがて、結界を守護する顕現物が姿を現す。この世界を切り取り、小さな新しい世界を作る儀式。それが異界化現象だ。


「でも、セオリー通りとは限らない」


 プリントとメモと付箋だらけになっているホワイトボードの前で腕を組む。大きく二歩下がってホワイトボード全体を見渡す。流石に小さい文字は見えないが内容は大まかに把握している。後ろに下がっただけで、思考が俯瞰モードに切り替わる。

 No.38は結界の強度が低かったが、異界化の進行がはやく、住民たちの思考の変化も進行していた。顕現物の排除後、儀式の内容を書き換えて、徐々に外の世界と同じ法則に戻す必要があった。

 結界の強度にはリソースを割かず、異界化にリソースを割いた、そんな風に見える。


「大まかな進み方が同じだけで、決まりはないんじゃ?」


 そこまで考えると、肩から腕までの力を抜いて、


「この状況で考えるだけ無駄かにゃー」

「ただいま、にゃん」


 振り返ると、弦本 彩芽が立っていた。にゃん、と言ったのが恥ずかしかったらしく、顔を赤らめて少しうつむいている。同性から見ても可愛いと千月は思う。彩芽は魔法・擬似魔法が関わる事件では先鋒をつとめ、事件の早期解決に貢献。ここ数年で拡大傾向を見せる異界化現象の対策チームには自ら志願したという強者だ。


「そっちは一区切りついたの?」

「うん」


 彩芽は異界化現象の実働部隊で顕現物対応をしている。この話を聞くとたいていの人間は、彩芽の身を案じる。穏やかなふるまいと、異界の神との戦いが結びつかないからだ。千月も最初は何かの間違いだと思い、思わず彩芽の経歴を確認したぐらいだ。


「千月ちゃんは、行き詰ってる?」


 千月が頷くと、彩芽は付箋の塊になっているホワイトボードに近づくと、しばらくの間、背伸びして上のほうを見たり、かがんで下のほうを見たりしていた。しばし考えるそぶりをしてから、


「魔法だから、こうなるのかもしれない」


 彩芽はゆっくりと振り返って、説明を続ける。今の魔法や疑似魔法は洗練されていて、誰でも同じ結果が得られる。異界化現象も魔法によって引き起こされるが、その魔法自体はかなり古いものなので、行使する人間や周囲の影響をかなり受けやすいのではないか。


「ただ、思いつきなんだけどね」

「ううん、ありがとう。そっか、基本的すぎて見落としてた。縦横に広げて情報集めたほうがよさそう、うん」

「縦横?」

「調べ方のイメージの話。なんか思いついた」


 ポケットからメモ帳を取り出すと、もっと、幅広く、何が起きているのかを調べること、と書きなぐる。


「そろそろ迎えが来る時間でしょ、送ってくよ」

「うん、お願い」


 お腹が減っただの、今食べると太るよねだの他愛もない話をしている間に職員玄関にたどり着いていた。暗いロータリーを赤いテールランプが照らしている。そのランプを見て、彩芽が安堵の表情を浮かべたのを千月は気づいた。


「気を付けてね」

「うん。千月ちゃんも無理しないでね」

「もうすぐ帰るよ、それじゃあね」


 彩芽が助手席に乗り込んだ車のランプが見えなくなるまで、千月はそこで手を振っていた。ゆっくりと手を下ろして一言。


「彼氏かー」

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