第11話 搬送先にて

 目を覚ますと、知らない天井だった。

 おぼろな記憶に強い倦怠感の中、雪姫ゆきは瞼を開ける。

 自分は今何をしている?

 ベッドに横になっている?体にかかる微かな重み――毛布の、大したことないはずの重みが不快に思える。

 ここはどこだ?なんで、ここで自分は何を?

 あの家にこんな清潔感のある部屋はない。だとしたらここは一体……?

 周囲を見回す。

 八畳ほどの部屋に自分一人だけ。ベッドは自分が寝ている一つだけ。壁は下半分が木目調、上半分がうっすらと柄の入った白い壁紙。自分の右側は淡い緑のカーテンのかけられた窓があり、その向こうは青の端に茜色を滲ませる空。左側はチェストがあり、洗面台も見える。

 ホテルにしては簡素な、人が暮らすための施設。

 まるで、病室にいるみたいに――

「病室――!?」

 雪姫は慌てて体を起こ――――そうとして、一瞬背中が浮いてすぐにベッドに倒れた。ボスっと後頭部が枕に埋まる。

 体がだるい。頭が痛い。

 強い倦怠感と虚脱に襲われ、頭が命令しても、身体が言うことを聞いてくれない。

 だが、それ以上に動かなければという感情が、激情が走る。


 首を絞められたことを思い出す。

 あれは、母の差し金ではないか?居場所が、生存がバレて、再び殺すように誰かに依頼したのではないのか?

 なんとか一命を取り留め、病院に搬送された?

 じゃあ、ここは本当に病院?

 どこの?

 まさか、母の?


 再度命を脅かされた――いや、刺客に命を狙われ恐怖させられたことに怒りを覚えた雪姫だったが、同時に今この事態に危機感を覚えた。

 今自分がここでこうしていることを、母は知っているのか?

 ここに来るまで、搬送した人間や治療に参加した病院関係者は顔を見ただろうか。ネットニュースで雪姫の顔は出ていたのだったか?地上波のニュースでも流れているのだとしたら、全国に行方不明者か犯罪に巻き込まれた高校生として顔を認知されているだろうか。

 母に連絡が行く?

 行方不明の娘さんが見つかったと?

 雪姫は母の病院に顔を出したことはない。父が存命の頃、それこそ幼少時にはわからないが、少なくとも物心ついた頃から今まで、母の病院に行ったことはない。あの人の娘だと、顔を見ただけではわからないはずだ。あれだけ疎んじていたのだ。院内の人間に娘の写真を見せていたなどということもないだろう。

 元々、雪姫の顔を見て理事長の娘だとすぐに気づく人はいないはずだ。

 むしろ、雪姫のことがどれだけ世間で報道されているのか、一ヶ月以上経過しても熱の籠った報道がされているのか不明だが、連絡が行くとすればその顔を覚えていた誰かが連絡するパターンかもしれない。

 いや、連絡が行くとすれば警察か?

 行方不明者によく似た少女が搬送されたと通報され、やがて保護者である母に連絡が行く。最悪だ。

(お母さまがわたしを殺そうとした証拠はない……)

 この人に殺されそうになった、と騒げば一時的にでも警察に保護されるか?母に捜査の手が及んでくれるか?

 賭けでしかない。高校生の娘がパニックになって騒いでいると取られる可能性もある。家に帰されることは、死刑宣告と同義だ。

 

 ゴォーー、とスライドドアが開く音がした。


 雪姫は警戒する。

 誰だ?警察か、母か、それとも……

「ユキちゃん!?気づいたんだ!」

 それは冴えない顔の中年男性――あの山で暮らす男たちの一人、三郎だった。

 目を開けている雪姫を見て、慌てて駆け寄って来る。作業着姿であり、近づくと不快な汗の臭いがした。

「大丈夫?俺のことわかる?あ、まずは先生を呼ばなきゃ――」

 近づいたと思ったら、三郎はすぐに個室から飛び出した。

 

 

 しばらくすると、白衣を着た男性が入室してきた。

「目を覚ましたようだね」

 四角いフレームの眼鏡をかけた、知的な印象を受ける三十代と思しき男性医師。落ち着いた声音が、ベッド横の椅子に腰かけた医師からかけられた。

「気分は?痛むところは?」

「ちょっと、だるいです…」

 雪姫は素直に返す。

 今はいろいろと考えることが多いが、まず優先すべきは自身の体調だと割り切り、医師の質問に素直に答えた。

「首に痛みは?違和感は?唾が飲み込みにくいとか、呼吸しづらいとか」

「いえ、全身がだるいだけで、痛いとかはないです…」

 医師は手元のクリップボードに何かを書き足していく。

 そして、手鏡を取り出すと、雪姫の首元に近づけた。

「見える?」

 鏡に反射して見えたのは、雪姫の首だ。左右に一枚ずつ、医療用テープで止められたガーゼ。これは絞められた傷――ではなく、抵抗した時に自分で引っ搔いた傷だろう。そのガーゼに挟まれた首の正面には、うっすらと紫の線がチョーカーのように描かれている。

「紐状のもので、首を絞められた跡だ。もう少し強く、もしくは長く絞められていたら、助からなかっただろう」

 雪姫は宅配業者の格好をした女のことを思い出す。そう、あの女にやられたに違いない。きっと、母からの依頼で実行したのだろう。

「それに、応急処置がなければ、同じく蘇生はより困難だっただろう」

 応急処置?

 救急の人のことか。いや、そもそも誰が電話した?家には雪姫一人だけで、男たちは皆仕事に行っていたはずなのに。

「あの作業着の方に感謝することだね。彼の処置がなければ、助からなかったかもしれない」

 三郎のことだろうか。彼がここにいたのは、何らかの理由で家に戻り、倒れた雪姫を発見して応急処置をしながら救急に連絡を入れ、病院まで付き添ったということなのかもしれない。次に顔を合わせた際には礼を言った方がいいだろう。

「でも、傷はしばらく残るだろう。内出血の痕は薄くなるだろうけど、完全に消えてなくなる保証はない」

 これは女に残る傷痕として心配されているのだろうか。

 だが、今はどうでもいいことだ。今雪姫が考えるべきは傷痕の心配ではない。自身の生存を確保し、二度も雪姫を殺そうとした母に報いを受けさせることだ。むしろ、この首の傷はそれを忘れさせないための戒めになることだろう。

「後遺症がないとも限らない。念のため、二、三日入院してゆっくり休むといい。大変な目に遭っているようだしね」

 医師は立ち上がり、クリップボードを脇に抱え、両手を白衣のポケットに入れた。

「でも……」

 雪姫に療養が必要なのはわかるが、同時に再度母に襲われるのではないかという不安がある。

 表情を曇らせた少女に向けて、医師は口角を上げた。

「心配することはないよ」

 普段患者に対して使うような、安心させようとする柔らかな声音で雪姫に語りかける。


「ここは白野理事長のいる病院だ」


 その一言を聞いて、雪姫の心臓が跳ね上がる。

 この人は何と言った?

 母の、病院だと…?


 その動揺を知ってか知らずか、医師は更にもう一言。


「ね?白野雪姫さん」


 血の気が引いた。

 この医師は、自分が白野真尋まひろの娘であると知っている。

 しかも、ここは母の病院だというではないか。

 身動きできない自分の姿を、雪姫は蜘蛛の巣に絡まった蝶に重ねる。

 この医師のポケット、あの白衣の中の手には何が握られているのか。そんなことを考えてしまう。

 再び紐で首を絞められる。ナイフで刺し殺される。首を掻き切られる。毒物を注射される――様々な最期を想像する。


 まな板の上の鯉。


 雪姫は毛布の下で拳を握る。

 握った拳の力は、あまりにも弱弱しく、そして震えていた。

 

 

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