一章:九、燕と巣
降りしきる雨の滴が松明を反射して、金の炎が降っているように見えた。
「
「お前こそ何してた」
「私はただ薬を取りに来ただけです」
「殺人現場にか」
「途中、殿の壁に穴が開いているのが見えて、気になって確かめただけですよ」
煬烏は目を瞬かせ、睫毛に乗った雫を払ったた。
「殺人犯が使った秘密の小道かもしれんな。我々が見聞しても?」
「何もありませんでした。御用がないなら失礼します」
「用ならある」
俺の声に、立ち去りかけた小窩が足を止めた。
「
「斯様なときに戯れはおやめください」
「戯れじゃねえよ」
煬烏が横目で俺を見る。俺は頷いた。
「俺には真実が見えるんだ」
狻猊殿の軒から溢れた雨水が俺の松明に降り、炎が消えた。
闇の中で小窩が口の端を歪める。
「私が彼らを殺したと?」
「ああ、
俺は壁の穴を指した。
「殿の壁には火坑のための空洞がある。夏は整備もしないし、いくら火を焚いても外から見えないし、延焼の心配もない。王景と道貫はそこを女官の死体を焼いたり、身を隠すのに使った。そして、今度はお前がふたりを殺して死体を焼いた」
「私が武官に勝てるでしょうか」
「勝てるさ。奴らは手負いだし、お前の方術があれば傷を受けてもすぐ立ち直れる」
「買い被りです」
「今朝、お前の服に血がついてたぜ」
「燕雙殿下の血でしょう」
小窩は髪から垂れる雫を拭った。冷えたせいか、闇の中でもわかるほど顔色が悪い。
「確かに、犯人を殺したいと思いました。ですが、もし彼らを見つけたなら刑部に引き渡せば済む話です。極刑は免れないはずですから。危ない橋を渡る必要もない」
「いや、お前には奴らの死体が必要だったんだ」
「何故……?」
「もうひとつの死体を偽造するためだ燕雙殿下の死体を」
「死体の手足で、ですか? それではすぐに彼らから奪ったものだと気づかれます」
「俺もそう思った。けど、お前ならできるだろ」
俺は消えた松明を捨て、小窩を指した。
「拙い方術なんてよく言えたもんだ。お前は失った目も内臓も治せる
小窩が震える声で嘲笑した。
「お前は作った死体を燕雙殿下の寝床に置いた。焼けていれば本人かどうか見分けるのは容易じゃない。それに、手足のない死体の後だ。首無し死体が出ても不思議じゃない」
「……それで私に何の得が?」
「今朝、俺に聞いただろ。燕雙を殺したがる奴が他にいないかって。お前は危険な宮廷に燕雙を置いておきたくない。だから、死んだことにして逃したかった。違うか?」
「違うも何も……いくら殿下を案じていようが、そんな大それた真似は」
煬烏が鋭い犬歯を覗かせた。
「では、それほど三兄を案じるお前が、何故一言も聞かんのだ。彼に何かあったのか、と」
小窩は怪訝に眉を顰める。
「
俺は言った。
「そうしない理由はひとつ。お前は燕雙殿下の居場所を知ってるからだ。その壁穴の通路に隠してるんだろ」
小窩の震える唇を雨水が伝う。白い息が漏れ、長い沈黙の後、言葉が溢れた。
「……そうだとして、どうなさるおつもりですか」
俺は目を伏せた。煬烏が俺の肩に触れる。
「どうであろうな。雲嵐、お前ならばどうする」
逃してやりたいと思った。
俺は高尚な正義漢じゃない。
私利私欲のために女官を殺して、皇子の暗殺まで企てた奴の仇を討つ気にはなれなかった。
身内を傷つけた奴らを殺してでも、身内を助けたい気持ちはよくわかる。
でも、それでいいのか。
そう思ったとき、差し込むような頭痛を感じた。
視界が歪み、目の前の光景が二重になる。
過去に見た同じ景色と重なるように。
“俺はこれを知っている。それなのに、間違った。もう手遅れだ。もっと早くできることがあったのに。"
「雲嵐、どうした」
身を折る俺を、煬烏が案じるように見た。俺は頭蓋を砕くように響く声と痛みに耐える。何を知ってる。何を間違ったって言うんだ。
小窩の上ずった声が思考を断ち切った。
「早くしてください。私には……時間がないんです……!」
小窩が苦痛に耐えるように自分の肩を抱えていた。息が荒く、全身から雨が滴っている。
先に待っていた俺たちよりずぶ濡れだ。これは雨じゃなく、汗じゃないか?
がらりと音を立てて、殿の壁穴を塞いでいた瓦礫が落ちた。
ひび割れた壁から裸足の脚が伸び、探るように一歩踏み出す。
壁の中から白衣の燕雙が現れた。
小窩が振り返って鋭く叫ぶ。
「いけません、殿下!」
燕雙は青ざめた顔で小窩と俺たちを見回した。
「今の話、本当かよ……」
小窩は口を噤む。
燕雙は歩み寄ろうとして足をもつれさせ、ぬかるんだ土の上に転んだ。
小窩は駆け出そうとして止める。その両脚が崩れそうなほど震えていた。
燕雙は壁に縋って立ち上がる。
「小窩、何でだ……方術は二度と使うなって、約束したじゃないか……その方術は、お前の命を削るんだぞ!」
煬烏が息を呑む音が雨音に混じって聞こえた。
安家が断絶したのは才能が枯渇したからじゃない。子孫を残して繁栄するまで生き残れなかったからだ。
彼らの方術は自分の体力を代償に、他人を治すんだろう。
小窩は苦渋に耐えるように目を瞑った。
「そんな昔のことは覚えていませんよ」
彼は目を開き、煙雨の中薄く微笑んだ。
「小燕、皇帝になってください。あと三つの呪いを越えて生き残るにはそれしかない。貴方を恨む者の何倍も、貴方を愛する者がいる。貴方の治世を楽しみにしています」
小窩は音もなく倒れた。泥水が跳ね、全身を激しい雨が打っても目を開くことはなかった。
「大兄!」
燕雙が小窩の死体に縋りつく。白衣が泥を吸い上げ、黒く汚した。
燕雙は小窩の冷え切った手を握って、声を漏らした。
「意味ないよ……お前がいなきゃ、意味ないよ……」
雨は絶え間なく降りしきり、宮殿に燻る災禍の炎の気配すらも消し去った。
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