第2話 授業はじめ

 始業式の翌日から授業がはじまる。さすが、最高学府だ。

 夏帆は思いのほかよく眠ることができた。孤児院より遥かに快適なベッドなうえに、布一枚とはいえ、他の人との仕切りがあり、プライバシーが確保された空間だったからだ。部屋は5人1部屋でゴシック調の造りだった。1人1台、ベッドと勉強机と衣装棚が与えられている。水回りは寮内で共同。大浴場までは6階の寮から4階まで移動する必要があったが、寮内にシャワーだけは完備されているため、特に不便には感じなかった。

 夏帆は朝5時には目覚めてしまった。起きて制服に着替えると、パジャマを丁寧にたたんだ。窓から外を見た。まだ薄暗い。

 やることのなかった夏帆は寝ている同級生をよそにスクールバックにノートと筆箱を入れ、食堂のある1階へと向かった。

 誰もいない食堂はしんと静まりかえっていた。夏帆は朱雀寮生用であろう、朱色に塗られた机のはじに座った。すると、目の前にトーストと目玉焼き、ベーコンにサラダが出てきた。

 夏帆はあたりをきょろきょろした。

何もないところから生命は生まれない

 これは入試の時に覚えた基礎法則だ。もちろん生命に食べ物も含まれる。その法則を、いきなりまんまと打ち破ってきた。

 いいや待て、と夏帆は言い聞かせた。何もないかどうかはわからない。何も見えていなかっただけで。あるいは何も見ようとしなかっただけで。

 食堂に男性が入ってきた。よく覚えている。竹内直人だ。昨日、朱雀寮6年の立川大志が紹介してくれた人だ。竹内は夏帆を見ることもなく、青龍寮の机のはじに座ると、出てきたトーストモーニングをさっと食べ、そして帰っていった。

 夏帆も朝食に手をつけた。特別においしいわけでも、まずいわけでもない、ありきたりなモーニングだった。これから毎日こんな朝が続くと思うと、とてつもなく途方のないことのように思えた。


 1年生の授業は寮ごとに行われた。朱雀寮1年生用の教室が一階に与えられている。担当講師が授業ごとに交代でやってくる授業スタイルだった。

 教室に入ると、黒板にそれぞれの座席が書いてあった。夏帆の席は一番後ろの一番窓側だ。朝食後、夏帆は教室に行くと決められた席へと座った。机と椅子は至って普通の木製の作りだ。

 夏帆は鞄から持ってきた本を取り出すと、それを読んだ。

『学生でもわかる魔法論』

 夏帆はどちらかというと物語は好まなかった。昔はよく童話を読んだため、桜の童くらいは知っているが、大人向け小説は知らない。読んでも明るい話は現実味があるように思えず、そうでない話は心が暗くなるばかりで好まなかったのだ。しかし、1つだけ最後まで読んだことのある小説がある。『呪いの指輪』という話だ。舞台はイギリス。ルーシーという女性が死者と交信できる指輪で初恋の男性を呼び出すが振られてしまい入水自殺する話だ。悲劇で有名なウィリアム・ピアーズによる作品。男性名作者は、実は女性であったとの伝説までも残っている。悲しい話だが、どこか希望のようなものを見出そうとする姿勢を夏帆は感じた。そして、どことなく現実味を帯びているように思えたのだ。

 時間経つにつれ、徐々に他の学生たちが集まりだし、クラスがざわざわとうるさくなってきた。夏帆は本を閉じると寝たふりをして会話を聞いていた。

「護身術の先生って元J.M.C.らしいよ」

「めっちゃ、頭いいじゃん」

「でも授業眠いんだって。おまけに成績厳しい」

「うわっ、それ最悪だね」

 先生が入ってきた瞬間、おしゃべりはぴたりとやんだ。夏帆もむくっと起きた。

 護身術の先生は、中背の40代くらいの男性だった。頭が坊主で、体育教師でもないのにジャージを着ている。

 昨日のミーティングで決めた、学級長の青木が起立、礼、着席と号令をかけた。

「護身術には意見が二分する」と先生は言った。「一つは呪いを学ばずに安全な護身法を学ぶ。呪いを安易に使う人が現れかねないからだ。もう一つは、呪いをきちんと教えたうえで、それに対する護身術を教えること。私も、そして日本政府としての方針も後者を選択している。では魔法と呪いの違い、わかるか高橋」

 え、私?と夏帆は思った。

「良いものが魔法、悪いのが呪い」

「そうだ。この授業で扱うのは、全て呪い。つまり、人に悪影響を与えるもののことを指す。魔法使いには呪いを使うものもいる。魔法は遠隔攻撃が可能で秘匿しやすい。そのため、人間界より魔法界の方が犯罪が多いのが現実だ。そしてそれを許容するものもいる。犯罪者は悪だ。だが、我々もそれから身を守る方法を身につけなくてはならない」

 地面が揺れたのだろうか、夏帆は身震いするものを感じた。

「一つ、授業を始める上で私が必ず話していることがある。それは、殺人の見分け方だ。犯人が人間か、あるいは魔法使いか。これは非常に見分けが難しく、長年警察を悩ませてきた問題だ。しかし、一つだけ手がかりがある。なんだと思う、青木」

「えっと……」青木は考え込んだ。先生は観念した。

「血だ。血が出る呪いはない」

 夏帆は息を大きく飲み込み、過呼吸になりそうなのを必死に押さえつけた。フラッシュバックだ。両親が殺された空間。赤く染まる桜。いつまでもあふれ続ける血。そして確かに感じる魔力。そこに巨大な力があることを夏帆は感じ取ることができる。

 気がつくと授業は終わっていた。夏帆は何も話を聞いていなかった。

 二時間目は歴史だった。歴史の先生は若い茶髪の男性で、こぎれいなスーツを着ていた。

「正直言って、魔法史の授業はつまらない」教師はバンと机をたたいた。

「だから、なるべく面白いって思ってもらえるように努力するからね。一年の歴史は、近代日本史やるんだけど、導入としてどうしても人間の歴史やらないと理解しづらいから、そこから始めるよ。じゃあ、やること多いし、さっそく始めようか。教科書11ページ開いて」

 魔法史の教科書を開くと、第一章明治維新と書かれていた。絵の中で馬車や洋装をした人間が動いている。

「人間には天皇っていうのがいるんだけど、まあ王様みたいな人だよ。この天皇に代わって政治をしていたのが征夷大将軍の徳川家。外国人を入国させない、鎖国っていうのが行われていたんだけど……」

 夏帆は教師の話を聞かずに、どんどん教科書を読み進めていた。

 鎖国をしていた日本にアメリカ船が来航し、その技術力に驚いた幕府は開国を余儀なくされた。当時の民意は鎖国であったため、開国してしまった将軍家と対立する勢力が現れる。徳川幕府は敗れ、新政府ができた。開国によって西洋文化が流入し、世界との差を見せつけられた日本は大国になろうと積極的に西洋文化を取り入れていく方針を打ち出す。例えば、和装を洋装に変えるなどといったことだ。

 その一環で、精神ではなく、論理的に物事を客観視する科学が伝えられた。そこで、新政府は陰陽道を迷信として土御門家を排除するようになった。

 当時魔法使いの存在認知を求めて国会で活動していた竹内春仁は西洋の魔法使いエリック・アーカートと出会う。アーカートは人間界の英国首相護衛として来日していた。竹内春仁は死亡届を出し竹内春人という偽名を使い、土御門家の援助を得て、アーカート指導のもと日本での魔法魔術学校と魔法界の創設に尽力する。最初にできた学校が名家の子息子女が集まる、ここ、日本魔法魔術学校だった。その後、土御門家が陰陽道を魔法界に持ち込み、現在に至る。

 この竹内春人が今日本の魔法界を牛耳る竹内家、竹内直人の祖先であることは夏帆にも容易に想像できた。でもその竹内氏という人がなぜ国会へ訴え出ることができたのか、そしてその過程で運命的な出会いができたのか、夏帆には謎で仕方がなかった。

「まあ、それで、徳川幕府はびびっちゃったんだよね。こんな大きな黒船がやってきて大砲でも撃たれちゃ日本はあっというまに潰れちゃうわけ」

 歴史教師はまだしゃべり続けていた。

 授業終了の鐘が鳴った。50分で教科書5行じか進まないとかどういう意味だ。これが最高学府というのか。夏帆は教科書の後ろをちらりと見た。検定済み、という文字とともに、検査員竹内義人という名がついていた。

 転じて魔法論の授業は面白かった。

「今日はとりあえず面白さを知ってもらいたいと思って」

 ピンクのワンピースを着た若い女性の先生は杖を取り出しひとふりした。とたんに部屋全体が光った。もう一度ひとふりすると、明かりが消えた。

「皆さんは電気が付く魔法は知っているかな?はい、直美さん」

 直美が手をあげていた。

「知っています!」と直美が答えた。そういうことを聞きたいのではないのではないだろうか、と夏帆は思った。

「ええ。それで、魔法は線でできています。魔法線です。私たちが自分の力でこの線を出せるのに対し、人間は作り出せません。機械、というものに頼っているのよ」

 右翼な先生だな、と夏帆は思った。

「この線は波なの。逆向きに走らせると、波が相殺されて光が消える。だから、魔法を作る時にこの波と逆の波を作りだせば、同じ呪文でも効果は逆になる。もちろん、例外はたくさんあります。これを初めに見つけたのが。ギルド・ストラットフォード。ギルド伯爵の愛称で知られる方です。この法則はストラットフォードの魔法法則、と呼ばれています」

 え、何それ。どうやって波を逆向きにするんだ。そんなことは類から一度も習ったことがない。

 夏帆は教科書を読み漁った。すると、逆向きにする方法はそこに確かに書いてあった。

想像しろ

 書かれていたのはたったその一文。夏帆にはまったくもって意味がわからなかったが先生に質問にいく度胸などなかった。

 4限目はホームルーム。赤いジャージのショートカットの女性が入ってきた。初日に何かと目についた先生だった。

「担任の浅木遙です。よろしくね」

 浅木はにこりと笑った。

「担当科目はこのあとやる体育です。見ての通り」

 浅木はまた自信なさそうに笑った。

「先生体育って、合気道とかやるって本当ですか?」と青木が聞いた。

「そうだよ」と浅木はひょうひょうとした表情で言った。

「合気道、柔道、空手、剣道、居合道、古武道。2年生からは剣術と乗馬」

「箒の飛行訓練はいつからできるんですか」

「ないよそんなの」と浅木は驚いた顔で言った。

「初等学生じゃないんだから!」と浅木は笑うといくつかの書類を配った。

 夏帆は担任の頼りなさに呆然としていた。

「まだ学校のこともよくわかっていないと思うから不安も多いと思うけど、わからないことはとりあえず寮長の小道さんに聞いてもらえれば。私からはそうねぇ、2ヶ月後に中間テストがあります。それが終われば文化祭。12月の期末テスト後1学期が終了。3月に二学期期末テスト、5月に3学期中間テスト。6月マランドール戦。でもこのマランドール戦は2年生からしか出られません。7月に3学期が終わって、8月は夏休みです。あとは、そうね、海外渡航は親の仕事の都合であっても原則禁止です。特にイギリスは内戦中なので」

 鎖国をしている日本からの海外渡航はできるはずもなかった。それでも教師が禁止というくらいだ。特権階級の人たちは、海外旅行もたやすいのだ。“特に”という言葉が出るというのは、行く人がいるというのを物語っている。ただ鎖国なうえ、各国の魔法会は日本人の出入りを原則禁じている。どうやって入国するのだろう。それとも権力でねじ伏せるのか。

「それと、時の部屋には立ち入ってはいけません。入りたくなる気持ちはわかるけど、専門教育の3年生から、使用許可を取った人のみが入れる規則になっています」

「どこにあるんですか」と青木は言った。

「それはいえません」と浅木は言った。

「教えてくださいよ!」と青木は言った。

「教えれないんじゃなくて、いえない。わからないんです。場所あちこちに移動しているんで、今ここにいるとか、管理者しかわからない。管理者もわかっているのかな」浅木はやはりにこりと笑った。

 ホームルームが終わると昼食だった。夏帆は机の上の資料を丁寧に折りたたんだ。

「高橋さん」と浅木が近づいていった。

「はい」

 浅木はあたりを見渡した。クラスには誰一人として残っていなかった。

「私ね、あなたのお母さんと親友だったの」

 夏帆はあまりの驚きに言葉を失った。

「受験者に、そして入学者にあなたの名前を見つけて驚いた。お母さんに似てほんと優秀ね。私、あなたのことが、とても心配だったのよ」

 浅木は目を潤ませていた。夏帆が最も求めていた“知り合い”というものが、こんなにもつらいものとは思わなかった。ただ夏帆は唖然とすることしかできなかった。浅木は何か夏帆にずっと話していたが、夏帆は水に潜った時のようにくもった音しか聞こえてこなかった。

 この浅木という人は知っているのだろうか。パンとミルクだけの朝食を。おかゆのようなディナーを。昼間は私に暴言を吐いていたような子が、夜中になると泣き出す地獄を。そして次の日にはからっと機嫌を直して夏帆を遊びに誘うのだ。教育さえ十分に受けられないというのに、私に感謝しろといわんばかりの院長。その人に怒鳴られる毎日を知っているというのか。同情のふりなどしてくれるな。心配しているなどと軽々しくいうのであれば、なぜ全てを捨てて探しにこなかった。

「この学校を生き抜くのは大変。J.M.C.に入りなさい。仲間意識の強いあの組織なら、あなたを庇護してくれるに違いないわ。あなたなら入れる。勉強、頑張って」

 応援するとはいうものの、結局、何もかもこの人は他人任せなのだ。それならばいっそのこと無関心の方がずっとましだ。

「ありがとうございます」

 夏帆はそれだけ言うと、教室を飛び出し、昼食をとりに食堂へと向かった。

 昼食も朝食と同じ要領だった。ただ、朝とは違い、多くの人であふれかえっていた。夏帆は端の方で空いていた席を見つけると、机の上に現れたミートスパゲティをさっとたいらげ、教室へと戻っていった。

 教室には女子が数人戻ってきていた。

「夏帆ちゃん」と稲生は女子2名を連れてやってきた。

「夏帆ちゃんって孤児院出身ってほんと?」

 何で知っているの?という言葉を夏帆は飲み込んだ。

「そうだよ」

 稲生ら3人はほらっ、と言って去って行った。学校生活の崩壊など簡単だということを知った。この先どうすればいい?そんなこと夏帆に考える余地などない。私はそうやって先の見えない未来へと向かっていったのだ。だからなんだ。私はいつも外側で生きてきた人間なのだ。目の前はいつも闇だ。光なんて1つもない。分類の外側で、ただ曖昧で不明瞭な世界をただあてもなく歩いた。その先にあったのが、ここだ。孤児院だからなんどいう。大人の起こした事件の天罰を被るのは結局子供なんだ。

「ほら嘘つき」

 稲生の声が遠くに聞こえた。夏帆は思わず振り返ると稲生をにらんだ。

「嘘つき?」と夏帆は言った。稲生はやばい、と青ざめた顔をしていた。夏帆が拳を握っていることに気がついたのだろう。

「だって初日にあなた」と稲生は何かを言いたげだった。

「ええ親は後で来るといった。そうね。でも、来るとは言ってない」

 そういうと夏帆は席に戻って座った。どうなったってかまわない。仲間分けには入らない。私にはそこに属することはない。私はそんな普通の道を歩んできたような人間ではないのだ。

 J.M.C.がなんだ。友人、仲間がなんだ。最初からそんなのあてになんかしてこなかった。私は私だ。生き抜くための組織など必要ない。私はもっと、本質的な意味で生きるか死ぬかの世界を生きてきたのだ。

 馴れ合いで一緒に勉強する仲間などいらない。私は一人でやっていける。今までもそうだったのだから。

 

 そうして2ヶ月が経ち、無事に中間試験を乗り越えた。テスト結果は学年1位で夏帆はほっと胸をなで下ろした。直美たちは、テスト前の土日になると、集まって友人たちと勉強をしていた。夏帆は一人図書館で勉強していたが、友人がいないことに特に支障は感じていなかった。誰かと勉強するのは気が散るし、結局真面目な人ほど損をするようになっている。それに付き合いでお金を払う余裕などない。

 テスト結果を受け、ほらみろという顔で直美を見ながら夕食で出てきたブドウを食べた。

 談話室に帰ると青木の周りに人だかりができていた。

「ああ、高橋さん!君にも来ただろう?」

 夏帆は首をかしげた。

「J.M.C.からの招待状だよ!入会説明会、このあと8時からだって!」

 青木は満面の笑みを浮かべている。夏帆は混乱した。

「高橋……さん?」

 夏帆はあとずさりをした。そしてそれから目にいっぱい浮かべた涙を見せまいと、夏帆は寮を飛び出した。

 静かな廊下には、大理石に靴底があたる音だけが鳴り響いていた。走れるだけ走り、中庭へとたどり着くと、荒くなった息を整えた。

「意外と負けず嫌いね」

 黒髪にパーマかけた女性が中庭にたたずんでいた。怪しい月光でその毛先が光っている。夏帆はこの女性を知っていた。竹内夏海だ。初日に割ったコップを直せなかったあの女性だ。

 風が吹いて、もうすぐ赤く染まりそうな楓の葉が揺れた。

「意外と負けず嫌いね」

 夏海はもう一度言うとクスクスと笑った。小道の、上下関係に厳しいという言葉を思い出し、夏帆は礼をした。

「怖がる必要はないわ。兄と違って、私には力なんてものないもの。J.M.C.ってそんなにかっこいい?そんなに入りたいかしら。別に招待状が届かなかっただけのことじゃない。あなたは入る資質がないってこと」

「入りたいと思ったことは……」

 夏帆は腕で目をぬぐった。夏海はふっと鼻で笑った。

「強情ね……」

「そういうわけじゃ……」

「わかるのよ、私には。プライドだけは高いようね。孤児院出身のくせに」

 夏海は再びくすっと笑った。

「気持ちはわかるわ。だって私も母が病気で死んでから苦労したもの」

 夏海はさも夏帆を心配しているかのように言った。

「一つだけ良いことを教えてあげるわね。J.M.C.は寮の首席と次席が入れるという噂があるけど少し違う。入るにふさわしい人物しか選ばないの」

「選んでいるのは竹内家?」

「口は慎んだ方がいいわよ」夏海は急に口調がするどくなった。それからにこりと笑って、「選んでいるのは何かよ」と言った。

「それにしても、孤児院出身者がどうやって学費を払っているのかしら?この学校、学費結構高いのよ」と夏海。

「私が孤児院の出身者だからふさわしくないと……」

「私、そんなこと言っていないわ」

 夏海はニヤリと笑うと消えていった。

 寮に戻ったのは深夜になってからのことだった。寮内は一転して閑散としており、ソファに立川と小道が腰掛けていた。

「どうされたんですか?」

 小道の頬にできたあざを見て言った。

「私のことは心配しないで」

 小道はにこりと笑うと寮長室へと帰って行った。

「マランドールに殴られたんだ」

 立川は沈んだ声で言った。


 ある日、夏帆はいつものように図書館へと行き、『人間とは何か』という本を手にした。

「その本は確かに優秀だ」

 隣に立っていたのは竹内直人だった。夏帆は身震いし、急いで本を棚に戻すと、一歩後ずさりして礼をした。

「一年生が人間に興味を持つとはね。ふつうは座学よりも杖を振ることを好む」

 竹内は怪しい目で夏帆をじろりと覗き込んだ。夏帆は目線を落とした。

「新しく習った科目だったので……。着眼点が面白いと思い……」

 そういうと夏帆は深々と頭を下げた。

「そんなに怯えなくていいよ。僕は君をほめているんだ」

「ありがとうございます」

 そうは言いつつも、夏帆の手と唇は震えていた。ああ、私は消されるんだ。でも消されるとはなんだ?夏帆はより一層震えた。

「近頃の政府による人間軽視の傾向は嘆かわしいばかりだよ。魔法使いとはヒトから進化して現れた生体だ。同じホモサピエンス、しかも技術力では魔法使いの方が劣るというのに、保守派の研究者の連中は、そのことから目を背けている」

 そう言うと竹内は本棚から『人間とは何か』と数冊の本を手に取り、夏帆の前に差し出した。夏帆は竹内からすっと本を受け取ると、すぐに手を引っ込めた。

「人間について知るのもいいが、人間の学んでいる学問を知った方がずっと良い。化学や生物から始めるといいよ」

 竹内は不器用に笑った。

「僕みたいなヒト学専攻者が増えるといいけど。それから、呪文分析学というものがある。これも専攻分野の一つだし、お勧めだよ。魔法を人間的に捉えた学問だと僕は思っている。呪文分析学の教授はそれを認めようとしないけどね」

「はい」

「ところでだけど君は不幸だ。本当はJ.M.C.としては君の存在を隠しておきたかった。山瀬会長にもきつく言われていたからね。君を手に入れてから、満点合格者がJ.M.C.にいるという事実を広め、組織の力を高めるはずだったのに、その目論見が外れ、今ではJ.M.C.が笑いものだ。恐れていた事態になった。J.M.C.に対抗しようとした副校長が、君に入学式で首席合格者として挨拶させたのさ。なぜJ.M.C.に入らなかった?」

「あっあの……手紙が……誘われなかったというか」

「誘われなかった?君は朱雀寮で1位だったのだろう?」

 夏帆はこくりとうなずいた。

「朱雀寮長に悪いことをしたな。朱雀寮の1位がJ.M.C.に入らなかったのは、小道が入れ知恵をしたからじゃないかって山瀬先輩がつっかかってさ」

 竹内先輩はクスッと笑った。

「もしかして、君には何か夢があるのかな?」と竹内先輩。「大いなる野望を持つものは、J.M.C.に入らない傾向がある」

「特には」

「そうか。僕には夢がある。叶いそうもない夢が。叶えられるわけがないからJ.M.C.に選ばれたのかもしれない。夢を持つといい。夢は努力の原動力になる」

 竹内は図書館を颯爽と出て行った。彼が通ると、周りにいる人が凍り付いたように道を開けた。皆、権力者の子息、竹内直人を恐れているのだ。

 夏帆は共学社出版『人間の学ぶ学問基礎シリーズ』の本を一通り本棚から取り出した。

 呪文分析学の本もそこから案外遠くない場所にあった。夏帆はギルド・ストラッドフォード著松岡智弘訳『呪文と分析』、高橋長治、玲子共著『呪文分析学の創設』という二冊の本を手にした。

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