第33話 ネトリーさん、正ヒロイン就任おめでとうございます!

 警戒心なんて欠片もないマリアンヌの背中。

 ネトリーの視界の端に、折れた木の枝が映る。


 拾う。

 重い。

 硬い。

 マリアンヌの背後に立つ。


 ――そして、振り下ろす。


 振り下ろす。

 振り下ろす。

 振り下ろす。

 振り下ろす。振り下ろす。

 振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。

 振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。

 振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。

 振り下ろす。振り下ろす。

 振り下ろす。

 振り……

 す……


 腕の感覚がなくなるころには、動かなくなったマリアンヌが足元に転がっていた。

 ネトリーはそれに石を抱かせて、泉の底へ沈めた。


 それからは順調だった。


 マリアンヌが行方不明になり、ネトリーは無事、貴族学校への推薦を受けた。

 この世界の主人公は、再び私になったんだ、と確信した。

 そもそも、マリアンヌは本当に主人公だったのか?

 原作で、主人公の過去についてはほとんど語られていない。

 それはそうだ。乙女ゲームなのだから。

 主人公に過剰な設定を与えると没入できなくなってしまう。


 だから、これが正しいストーリーなのだ。

 私は正しくニアミアの主人公で、この世界は私のためにあるのだ。


 貴族学校に入ってからは、ゲーム中のイベントがそのまま再現された。

 あこがれのニアミアの世界に、ようやく本当に入れたんだと思った。


 最推しのイログールイ王子に接近するためには少しズルチートもした。

 予言者のような振る舞いで気を引き、本来よりもずっと早く仲を深めたのだ。


 トゥルーエンドであるイログールイと恋仲になるのは、通常の手順では最短で三年生の秋からだ。

 貴族学校は三年制、そのほとんどを最推しと過ごせないなんて、そんな理不尽はあるだろうか?


 大丈夫、私はこの世界の主人公。

 世界は私を中心に回っている。

 すべては私の思いどおりだ。


 そう、思いどおりでなければいけない。

 思い通りにならない世界なんて間違っている。


 あのいまいましい悪役令嬢、イザベラ・ヴラドクロウさえいなければ!


 * * *


「ネトリー! こっちに変なものがあるぞ!」


 イザベラへの憎しみを新たにするうちに、ベアリッシュが何かを見つけたらしい。

 指差す先には毒々しい紫色のつたにびっしりと覆われた石碑があった。

 それは死んだマリアンヌの瞳と同じ色だった。


 忌々しく思いながら、ベアリッシュたち取り巻きに蔦を剥ぎ取らせる。

 取り巻きたちは便利だ。一応全員攻略キャラなのだが、ネトリーの推しではない。最低限のフラグ管理で好感度を保てるから、念のための保険としてキープしていたが、こんな形で役立つとは想像もしていなかった。


 蔦の中から姿を現したのは、不規則な文様が刻まれた円柱状の石碑だった。

 長年風雨にさらされていただろうにも関わらず、それは石工の工房で仕上がったばかりのように見えた。文様の規則性は読み取れないが、それが欠けたり、摩耗していないことはなぜかわかった。


「ふふふ、間違いないわ。これが《混沌の魔王》ナイアルの封印。さあ、イル、ここに手をかざして」

「む……なんだ、ネトリーか? いつからそこにいた?」


 イログールイは、夢から覚めたようにはっとネトリーを見る。

 例の裁判以来、イログールイはネトリーに呼びかけられた時以外はずっと己の世界に閉じこもるようになってしまっていた。


「ずうっと一緒にいたわよ。さあ、イル、手をかざして、ここに血印を。これであなたの次期国王としての正当性は、もっと確かなものになるわ」

「ああ、そうか。今日は立太子の式典だったな。うむ、ナイフを貸せ」


 イログールイはナイフを受け取ると、それで親指を切り石碑に押し付ける。

 血が触れた瞬間、石碑は脈動をはじめる。


 不規則に。

 うねりながら。

 繰り返し繰り返し。

 ぐにゃりぐにゃりと――


 ネトリーの視界が歪んでいく。

 もともと捻くれていた森が、いまやすべての絵の具を絞り出してかき回したパレットのようだ。


 ネトリーの目の前に、マリアンヌが現れる。

 顔が半分潰れたマリアンヌは、あの日の優しい微笑みのまま、そっと手を伸ばしてくる。


 イログールイは「イザベラ! 貴様っ、なぜ! 僕の立太子まで妨害しようというのか!」などと叫びながら剣を振り回す。ベアリッシュと取り巻きたちは頭を抱えて泣き出したり、全身を掻きむしったり、泥まみれになって地面を転がっている。


【ほう、貴様は恐れぬか。己の罪が恐ろしくはないのか?】


 歯の折れた口から、マリアンヌが問いかける。

 ネトリーは、柔らかくほほえみ返す。


「何を恐れる必要があるの? だって、あなたは幻なのに」

【くくく、面白い女だ。幻だとわかっていても、余の姿は誰もが恐れるものぞ】


 血塗れのマリアンヌの姿がぐねぐねと変形し、別の形を取った。

 光の角度で色の変わる長髪。切れ長の瞳は豊かなまつげで縁取られ、そこには瑪瑙アゲートを思わせる複雑な模様の瞳が嵌っていた。


 それは白い手袋をした手をネトリーの顎先に伸ばし、人差指と親指とでくいと持ち上げる。


【女よ。我を解放し、何を望む?】

「この世界に混沌を。そして、そのさまを玉座の横から眺める愉悦を」

【くくくくく……実に面白い。よかろう、汝の望みを叶えよう。して、他のものどもは?】


 ネトリー以外は狂乱したままだ。目に見えぬ何かに怯え続けている。

 これは混沌の魔王ナイアルの固有魔法である《万化無貌ばんかむぼう》。

 深層心理でもっとも恐れる何かの幻覚を見せ、正気を失わせる魔法である。


「このものどもは魔王様へのにえにございます。ずいぶん長く眠っていらしたから、きっとお腹が空いているかと」

【それは気が利いている。では、遠慮なく馳走されよう】


 ナイアルが指を弾くと、地面のあちこちから黒い水がわいた。

 ねっとりしたタールのようなそれは、生き物さながらにイログールイたちに取り付き、全身を覆っていく。身を捩って抵抗するが、形なき水が相手では何の意味も成さない。彼らは黒い粘液にすっかり囚われて、ぐにゃぐにゃと動く奇妙なオブジェと化していた。


【さて、何が生まれるか。寝起きにはほどよい余興となりそうだ】

「そうね、私もとっても楽しみ」


 ネトリーは、ナイアルの胸にしなだれかかりながら、人体が変形していくさまを冷たく見つめている。

 これは『幻想繚乱イマギニア・アカデミア』のハロウィン記念DLC『奈落の寵姫ダークネスブライド』だ。ハロウィンに合わせて発売された異色のホラーテイストのストーリーであり、クトゥルフ神話をモチーフとしている。

 魔王に魅入られ正気を失った主人公が、そのきさきとなって変貌した世界を統べるという、およそ乙女ゲームらしくない挑戦的なシナリオだった。


 ファンの評価は賛否があったが、ネトリーは支持する側だった。

 そもそも、ニアミアの公式こそが聖典であり、それを否定することなど思いつきもしなかった。

 推しの攻略キャラヒーローたちが、恐れ惑う様子は新鮮だったし、何か昏い悦びをもたらすものがあった。そしてなにより――そう、なによりもだ。


 ネトリーは、うっとりとナイアルの横顔を見つめる。


 ――ナイアルは、イログールイと並ぶ最推し・・・だったのだ。

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