第50話 焦燥

予鈴が鳴っても教室にアネットの姿がないことに気づいたクロエは僅かに眉をひそめた。いつもはクロエより先に教室に戻り、次の授業の準備をしているのが常だ。ぽたりと不安が心に滴り落ちて、落ち着くように自分に言い聞かせた。アネットも用事があれば少しぐらい遅れることもあるだろう。


だが教師が現れる時間になってもアネットが戻ってくる様子がない。そのまま授業を始めようとする教師にクロエは口を開いた。


「ロバート先生、申し訳ございませんが妹がまだ戻ってきておりませんの。少し席を外してもよろしいでしょうか?」


アネットに何かあったのではと懸念を覚えるクロエに対し、ロバートは意外な言葉を口にした。


「ああ、聞いていなかったのですね。アネット嬢は体調不良のため本日は早退したそうですよ」


(そんなこと——あり得ないわ)


午前中にアネットはそんな素振りを見せなかった。そして急に体調を崩したとしても必ずクロエに一言伝えるはずなのだ。アネットが自分を不安にさせるはずがない。


「……そうでしたの。そのような様子がなかったものですから心配ですわ。様子を見に行ってもよろしいでしょうか?」


クロエの発言にロバートは困惑したように眉を下げ、周囲からは小さなさざめきが起きる。授業を欠席する理由として適当ではなく、優等生であるクロエが躊躇いもなく告げたことに驚きを隠せないようだ。


「クロエ様、失礼ではありませんか!先生の授業より妹君を優先するなど、我儘が過ぎますわ」


当然のように非難の声を上げるのはロザリーだ。自分の行動が相手に隙を与えることを理解しているが、クロエにとっては緊急事態であり最優先すべきことだった。


「申し訳ございません」

謝辞を示すために深く一礼をして、クロエは早足でアネットの部屋へと向かった。


「ジョゼ、アネットはいるかしら?」


驚いた表情で迎えた彼女の表情に気づいていたが、一縷の望みをかけて訊ねるとジョゼは首を横に振った。


「いえ、アネット様はお戻りになっておりません。何かあったのですか?」


予想していた返答だったが、ぐっと胸が詰まるような不安を堪えてクロエは必死で考えを巡らせる。念のため保健室にも寄ったが、そこにはアネットの姿はなく保険医からも立ち寄っていないと聞かされたばかりだ。


(いくら何でも学園内で誘拐されることはないはずよ。であれば、アネットは学園のどこかで足止めをされている、もしくは自らの意思で学外から出て行ったことになる)


入れ違いで教室に戻っていないだろうか、そんな考えがよぎったがクロエは楽観的な思考を振り払う。アネットが無事ならばそれで構わないが、今は最悪の事態を想定して動いたほうが良い。


今の自分を婚約者の座から追い落すためにわざわざアネットに危害を加える者はいないだろう。ならばアネットの意思で動いているのだろうし、自惚れかもしれないが恐らくそれは自分のためだと思った。さらには何の言付けもなくいなくなったのならば、恐らく緊急性が高い。


(何が起きているのかしら……。危ないことをしていないと良いけれど)


アネットは自分のために無理をする傾向にあるが、決して無謀ではない。自分には相談がなくてもセルジュにならと思いかけて、迷いが生じた。だが今は良好とはいえないけれど、アネットがクロエのことで相談をするならセルジュしかいないだろう。一縷の望みをかけて、クロエは教室へと戻ることにした。



「セルジュ、何が起きている?アネット嬢は無事なんだろうな」

ひそめた声は他の者の耳に届かないように調整していたが、抑えようのない苛立ちが滲んだ。


「彼女なら大丈夫だと思う。ただ確約はできないよ」

「――っ」


付け加えられた言葉に息を呑んだが、セルジュの翡翠のような瞳に感情はうかがえず、ただリシャールを見つめ返している。普段の従兄としてではなく、王族としての表情にリシャールは苛立ちを抑えた。セルジュが何かを知っているのだろうが、説明しないのはそれだけの理由があるのだろう。

不安と焦燥感を呑み込んでリシャールはセルジュに訊ねる。


「彼女が何かに巻き込まれているなら助けたい。俺が動くことに問題はないか?」

「構わないけど、あの子爵令嬢はもういいの?」

何を馬鹿なことをと言いかけて、セルジュの静かな瞳にその質問の意図を考える。


(まさか……)

アネットの安否にエミリアが関わっているというのだろうか。そんな考えとともにこれまでのエミリアの言動を思い起こせば、協力すると言う言葉とは裏腹に彼女はリシャールをアネットに近づけまいとしていたことに気づく。


何故こんな簡単なことに気づかなかったのだろうと愕然とするリシャールは、とんとテーブルを指で叩いた音で我に返った。


「もう大丈夫だね。好きに動いていいけど、クロエを巻き込んではいけないよ」

「ああ」


この従兄がこれ以上情報を共有しないのなら、優先すべきはそれではないのだろう。もう二度と大切なものを見誤らないと心に決めて、リシャールはアネットを探すために行動に移した。

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