序章 雨の始まり

1 気まぐれという名の運命

 雨の音が、ずっと響いている。

 それは夢の中からか――いや、昨日からか。

 そんな、降り続いていた雨音を目覚ましにして、僕は目を覚ました。


 目覚まし代わりにアラームを設定していた携帯。

 そいつを拾って画面を眺める――その時刻は目覚ましが鳴る5分前だった。


 二度寝したい。超したい。でも、そうするには少し時間が短すぎる。

 そんな時であったとしても二度寝する時はするのだが、今はそれほどの強い決意で二度寝は出来そうにない……というか、絶妙に眠れそうにない。


 だから僕はその5分の間、その雨音に聞き惚れる事にした。

 こうしてじっくり雨音だけを聞くのは――久しぶり、のはずなんだけど。


「なんだか、そんな気がしないな――」


 その既視感ならぬ既聴感に脳内で首を傾げながらの予定通りの5分後。


 僕はゆっくりベッドから身を起こし、手早く学園に向かう準備を済ませた後、自分の部屋を出て一階に降りていく。


 外は雨が降っている。梅雨時の今の当たり前だ。

 そうして雨が降る空模様なので、窓の外の世界は朝だというのに少し薄暗い。


 ……正直、僕は雨があまり好きじゃない。

 だから、この時期は少し憂鬱気味だ。

 家を出るまでに雨が上がる事を祈りながら、僕は居間に入った。


「……兄さん、おはよう」


 居間に入って僕がそう挨拶すると、兄さんは無言で手を上げて答えた。

 兄さんの視線はテレビに向けられていたが、その意識はというと自分の片手に握ったおにぎりとテレビに半分ずつ向けられていた。


 だが、仮にテレビや朝食がなくても兄さんはこんな感じで挨拶しているだろう。

 そういう人だ。


 僕はそんな兄さんに向かい合う形で朝食の席に着いた。

 何気なく触れた畳の感覚が実にいい。


 今日の朝食は、和式のこの部屋に合う――かどうかは個人の判断に委ねられるであろうおにぎりが数個。

 あと、シーチキンを混入した卵焼きが適当に皿の上に盛られていた。

 それらを味わうわけでも早食いするわけでもなく特に意識するさえことなく、時に箸を、時に素手で口の中に放り込む。

 それで十分に味は分かるのだからいいのです。


 そんな食事の片手間に、僕は新聞を開いた。

 四コマ漫画は当然一番に目を通す。

 二番目に目を通すのは、テレビ欄。

 ……うむ、あのドラマは最終回か。

 見逃した時はネットで見逃し配信を見よう。

 そして、三番目以降からようやっと新聞は新聞の役目を果たす事となる。

とりあえずざっと紙面を流して見る事にした。


 相変わらず色々と事件が起こっている。

 世界の紛争地域の事。

 割と身近で起こっている殺人事件。

 政治家の汚職。


 読んでいて落ち込む事ばかりだけど、それは自分からは遠い他人事。

 こんな事を言うと誰かが憤慨するかもしれないが、実際、今の僕にはどうしようもない事ばかりだ。


 それをどうにかしようとするのに意味があるという人もいたりするのだろうが、今が僕が何か行動を起こした所で、地球の裏側で起こっていることは変わらないし、政治家の汚職が絶える訳もないし、ましてや殺人を犯した人が改心したりするとは思えない。


 僕たちにできることは、とりあえず自分たちの日常を繰り返す事だけだ。

 やむを得ず変えなくてはならなくなる時か、自分自身がそれに飽きを感じるその時まで。


「ご馳走様」


 手を合わせて、僕は言った。

 兄さんはテレビを眺めたままで首を縦に振ってソレに答えた。


 ……兄さんはかなり無口である。

 家族に対してこうだと、外では一体どうなのか……心配ではあるが、心配するような事じゃない。

 兄さんには兄さんの世界がある。

 それをとやかく言う必要はない。

 兄さんが進んで話すというのなら別だけど。

 僕は席を立つと、近くにかけてあった冬の制服を夏の制服の上に羽織った。

 衣替えの時期ではあるが、僕は長袖を着ていたほうが落ち着くので、今はそうしている。

 ネットのクレーンゲームで取ったキーホルダーを束のようにつけた鞄を持って、時刻を見る。

 うむ、丁度いい頃合。


「じゃあ、行って来るよ兄さん」

「……ああ、行って来い憂」


 今日初めての会話を交し、僕……伏世憂は居間を後にした。



 靴を履いて外に出ると、まだ雨が降っていた。

 ……どうやら、願いは届かなかったらしい。

 僕は諦めて傘を手にとった。


 黒い、何の文字も模様も入っていない極めてシンプルな傘。

 出張ばかりであまり家に帰ってこない父さんが十年前に買ってきた土産。

 それがこの傘だった。

 子供の頃はより鬱陶しく思っていた、嫌いな雨の日にこの傘を差す事が当時の楽しみだった。

 元々大人用の傘なので昔は持ち歩きに少し苦労したものだが、今ではぴったりと僕に丁度いいサイズに納まっている。

 昔に比べるとそれほどでもないが、今は今でそれまで積み重ねてきた愛着がある。

 僕は、今時珍しいワンタッチで開くタイプじゃないその傘を丁寧に開いて、歩き出した。


 まだ朝の予鈴までには時間がある。

 こんな時は少し違った事をしてみるのもいいかもしれない。

 そう思い立った僕は少し裏通りとなるその道へと入っていった。


 ……久しぶりに入った、その通りは少し入組んでいて、時折迷うんじゃないかと不安になった。

 車が通らないほどの細い道の上、人も通らないことがさらにそれを引き立てているのかもしれない。

 なら入るなよと内心でセルフ突っ込みしておくが、迷うまではない、大丈夫だろうとも思っていた。

 ……まぁ、大した根拠はないんだけど。


「……ん」


 記憶通りなら、そこを曲がれば少し遠くに学園の裏門が見える。

 ちゃんと門があって欲しいなあと思いながら、そこを曲がった時。


 そこに、いた。


 降りしきる雨の中、傘も差さずにそこに佇んでいるその少女。

 僕と同じ学校の制服を着た女の子は、ただ真っ直ぐに空を見据えていた。


 ……いや、違う。

 空を見据えているのではなく……雨を見据えている……何故かそんな気がした。


 ”何故か”そんな気がしただけではなかった。

 『何故か』僕は彼女から眼を離せなかった。


 そして、僕もまた、そこにただ立ち尽くしていた。


 雨に濡れた長い黒髪が綺麗だと思ったから?

 その子がすごく綺麗で、少なからず好みだったから?


 いや、違う。


 そんな理由なんか後付けだ。

 そこに、少女この子がいる。

 それで、十分だった。


 そうして納得してしまえば、他に語るべき事など無く。

 そこにはただ、雨を弾く傘の音だけが響いた。


「……」


 やがて、と言うべきか、唐突に、と言うべきか。

 雨から視線を下ろした少女はこちらに気付いたらしく、僕の立つ方へと歩み寄ってくる。

 やはり、ついついジッと見ていた事を怒られるのだろうか?


 ……雨に濡れた少女は、流れ落ちる雨の雫を気にかける事さえせず、僕の真ん前に立ち止まると、言った。


「……靴紐」

「……は?」


 いきなりの発言に僕が戸惑っていると、少女は表情を変える事無くもう一度言った。


「靴紐、ほどけてる」

「あ、え……?」


 その言葉を半分理解した状態で僕は自分の足元を見た。

 なるほど、指摘どおりに靴紐がほどけている。

 ……少し離れたあの場所からそれに気付いた視力もすごくて驚きだが、それをわざわざ教えに来てくれた事の方が僕には大きな驚きだった。


「あ、その……ありがとう」

「ただ事実を指摘しただけだから。

 ……でも、それだと、結べそうにないね」


 淡々と言いながら、少女は細く鋭い目で僕の全身を見回した。

 それは少女が纏う、穏やかな雰囲気と対照的で不思議な感覚を覚えた。


 それはさておき。

 僕は傘を右手に持ち、左手には教科書が多少入った鞄を握っている。

 ……これだと、靴紐を結びなおすには荷物を地面に置かないと無理だ。


 ああ、めんどくさい。というか目の前で靴ひもを結び直すのが、なんとなく気恥ずかしい。

 なので、僕はこのまま歩いていくことにした。

 そうそう紐を踏んで転ぶような事はないだろう。


「あ、せっかく教えてくれてなんだけど……って」


 僕がその旨を伝えようと思ったその時、僕の視界からその少女の姿が消えていた。

 すると、下の方から少女の声が響いてきた。


「……何?あ、でも……少し待ってて」


 僕が下を向くと、少女が僕の足元にしゃがみ込んでいた。

 ……何をしているかなんて、見なくても分かる。

 靴紐を、結んでくれているのだ。


「あ……」


 ……なんて言っていいか分からずに僕はただそれを見ている事しか出来なかった。

 なんだか、緊張してしまう。

 僕が息苦しさを感じている間にも少女は雨に濡れながらも手早く、靴紐を結び直してしまった。


 綺麗な蝶結びだ。

 そんな事を考えている間に、少女はすっくと立ち上がった。

 背は……僕より頭半分低いくらいだ。

 さっきよりも少しだけお互いの距離が縮まっていて、僕はどぎまぎした。


 ……笑いたきゃ笑ってください。

 僕にとって女の子は基本的には縁遠い存在なんだから仕方ない。


「……で、さっきは……」


 そう少女が言いかけた時。

 遠くから聞こえてくるように予鈴の音が鳴り響いた。


「あ、やば……」

「……それじゃ、私はここで」


 その声が僕の耳に響いた時には、すでに少女は駆け出していて、あっという間に見えなくなってしまった。


 そんな事はないのだろうが、水を跳ねる音さえさせず、まるで瞬間移動でもしたかのように、静かで軽やかな移動だった。


「……って、僕もやばいんだ」


 慌てて、僕もその後を追う形で駆け出した。


 ……結局、僕が”迷い込んだ道が自分の記憶どおりだった”と気付いたのは、そこにあった裏門を通り抜けてしまってからの事だった。

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