第4話 俺は心優さんを部屋に招き入れる。


 ぼろアパートのギィギィと軋む階段を上り、俺は自室である201号室へ向かう。谷川さんと一緒に。谷川さんと一緒……一緒――……。


 俺は振り返り、谷川さんを見る。


「あの、すいませんっ。本当に俺の部屋に寝泊まりするんですかっ?」


「うん。そうだけど」


 彼女は二三歳の分別のつく大人の女性だ。今日、会ったばかりの男性の部屋に泊まるということが、いかに非常識で危険極まりない行いか、知らないわけがない。しかもストーカー被害で見知らぬ男に暴行されかけた身でもある。

 

 なのになんなのだ? そのあっけらかんとした答えは。

 

 もしかして俺が七つも年下で性欲もからっきしのガキンチョだから、安心しきっているのだろうか。だったら、それは間違いだ。七つ年下なのは事実だが、性欲は十六歳男子の平均値に達しているはずだ。いや、ちょい上かもしれない。


「俺だって男ですよ。見くびってもらっては困ります」


「みくびるって何を?」


「……そ、その、せ、せ、せ、性欲をっ!」


 俺の声が夜空に響く。暗がりの中、ぽかんとする谷川さんの顔が見えた。が、そのあとくつくつと笑いだしたと思ったら、こう口にした。


「磯山君、顔真っ赤だよ。えー、面白ーい。冷静な子だと思っていたけど、そんな風に慌てふためくこともあるんだ。ふふふ」


「か、からかわないでください。そんな俺がいる部屋に寝泊まりするってことを、もう一度考えてくださいって言ってるんですっ」


「私が考えなしに磯山君の部屋に泊まると思ってるの?」


「え?」


「タクシーの中でずっとずっと考えて、その結果が今の私の行動なの。少しは尊重してほしいな。それに……」谷川さんが目を逸らす。「せ……くが旺盛……は悪いことじゃ……と思う」


 ? 今、何と言ったんだ? 肝心なところを聞き逃したような気がするが。


「……分かりました。谷川さんの考えを尊重します。でも部屋、狭いし汚いですからね。それでも良ければ」


「大丈夫。私の部屋だってそんなに広くなかったし、掃除は好きだから」


 ん? 掃除をしてくれるのだろうか。

 

 今の言い方ならそうだよなと思いつつ、俺は201号室の前に立つ。そして鍵を回してドアを開けた。俺は靴を脱いで中へ入り、「じゃあ……どうぞ」と谷川さんを招き入れた。


「お邪魔しまぁす」


 谷川さんが玄関でハイヒールを脱ぎ、部屋の中に――入った。入ってしまった。

 一度も人を入れたことのない俺の部屋にあろうことか、メロン乳を持つ美人なお姉さんが第一号の入室者として。


 色々な段階を飛び越えて、いきなり最終ステージに進んだような感覚だ。


「ゆっくりしてください――と言いたいところだけど、ご覧の通りです」


 と俺は改めて自室を見渡す。

 

 六畳間の部屋に敷きっぱなしで乱れた布団。そしてろくに掃除をしていない畳には読みかけの本や、脱ぎっぱなしの服。ローテーブルの上には食べ賭けのお菓子や飲み終わったジュースの缶なども置きっぱなしで、乱雑極まりない。


 こんな状態でも、比較的新しいアパートで壁紙もきれいで床もフローリングなら、多少はましに見えただろう。しかし築年数が四〇年は経っているボロアパートの、くすんだ壁紙と痛んだ畳に囲まれては、もうどうしようもない。


「あぁ……うん。これはなかなか、だね」


 悪い意味で予想以上の部屋だったのか、谷川さんが戸惑いから苦笑を浮かべる。


 ああ、ダメだ。耐えられない。

 これは――


「ごめんなさい、谷川さん。やっぱりここで寝泊まりするの止めましょう。谷川さんみたいな人がこんな部屋に少しだっていちゃいけません。実家には帰れませんか? あるいは友達の家には泊まれませんか? 絶対そっちにしたほうがいいですよ。だから――」


「何も分かってないな」


 俯いている谷川さんがぽつりとつぶやく。


「え?」


「だから、何も分かってないって言ったの」


 今度は少し怒っているように。


「す、すいません。俺、何かその……怒らせちゃったみたいで」


「だから――ッ」


 谷川さんが顔を上げる。

 確かにその表情には俺に対する怒気が認められた。なのに、単純な怒りと思えなかったのは、そこに苛立ちが内包されていたらだ。

 

 俺が何も分かっていないから? 何もってなんだ?


「谷川さん、あの……」


「私、磯山君が助けてくれてすごい嬉しかった。だから病院にいたときも言ったけど、人生の恩人って思えるくらいに感謝してる。それに…………」


 もじもじとする谷川さん。

 急にどうしたのだろうか。


「それに?」


「それに……い、磯山君のこと、ちょっといいなって思ってる」


 ん? 

 …………んんっ?


 頬を赤らめている谷川さんが、右手で口元を押さえている。

 照れているのだろうか。俺にはそう思えた。


「いいなっていうのは、その、何がいいんですか?」


「そ、そんなことまで言わせるの? もしかして知ってるくせに聞いてる?」


「いや、なんとなく分かりますけど、違ったらあれですし、だから念のために一応」


「もうっ、だったらそれで合ってるわよ。あ、でも今はそれ以上は言わないし言わせないで。この状況で口に出したら多分よくないというか、まだ早いっていうか、寝泊まり申し出てあれだけど物事には順序があるっていうか」


「はぁ」


「あぁ、もう何言ってるの、私っ」しどろもどろの谷川さんが、俺を直視する。「だけどこれだけははっきり言うね」


「え?」


。これからよろしくね、蒼太君」


 助けたことに対する恩返し。そんなものは求めていなかった。

 俺に助けられたことによって、谷川さんが今後も普段通りの生活を送っていければそれでよかった。


 だけど俺はそれを口にはしない。

 谷川さんはそんな返答は求めていないし、俺もあえて自分からこの夢のような現実を手放す必要もないと思ったから。

 

 だから、こう言ったんだ。


「分かりました。素直に恩返しされようと思います。こちらこそよろしくお願いします。心優さん」


 ――でも恩返しって一体、なんだろうか?

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