第43話 Xデー

 その日がきた。

 3月11日。

 幸太の知識と推測による限り、この日の14時46分、あの巨大地震が起こるだろう。

 幸太は先立って、この1週間ほどで懐中電灯やろうそく、医薬品、乾電池、トイレットペーパーやティッシュ、ブランケットなどの防寒用品、そして保存食料などを買い足している。また、情報収集などを効率的に行うため、旧式のフィーチャーフォン、いわゆるガラケーから、スマートフォンに買い替えをした。

 前日の3月10日、幸太の第一志望合格に家族は祝福ムードだった。

 実のところ、幸太には発表を見るまでもなく、合否は分かりきっていた。事前の模試でも合格はほぼ間違いなしだったし、手ごたえも充分だった。

 結局のところ、彼はTake1と同じ、一〇大学の法学部に入学することとなった。

 家族4人で近所のレストランでお祝いをしたのも、Take1と同様だ。

 お祝い気分が抜けきらないなか、翌11日、父は朝から出勤し、昼過ぎには幸太が駅まで美咲を迎えに行って、彼女を我が家へと招待した。

「松永美咲です。本日はお邪魔いたします」

「美咲ちゃん、いらっしゃい。幸太の母です」

 美咲と幸太の母は互いに少々ぎこちないながら、笑顔で挨拶を交わした。

 母の後ろから、幸美ゆきみがひょっこりと顔を出す。

「マシュマロちゃん、こんにちは!」

「あ……お姉さん、先日は失礼しました」

「いやん、お姉さんだって。こんなかわいい妹できちゃったらどうしよう。ね、コーちゃん」

「分かったから、とにかく今日は口を開かないでくれよ」

 靴を脱ぎながら、美咲は幸太にだけ聞こえるよう、そっと尋ねた。

「私、もしかしてマシュマロちゃんて呼ばれてる?」

「うん……いや、姉ちゃんはほんと、ぶっ飛んでるから。俺が言うのも変だけど、気を確かに持ってね。何を言われても、相手にしなくていいよ」

 美咲はむしろ、その呼び名が気に入ったらしく、明るく面白そうな笑顔を絶やさない。

 ダイニングテーブルに移ったあと、会話を主導するのは幸美だ。

 高校吹奏楽部の話、進学先の話、大学で入りたいサークルの話、一人暮らしの話など、美咲からさまざまに聞き出して、話題を広げてゆく。

 座談の引き出しや場をなごませるという点では、この姉は幸太など及びもつかないほどにうまい。かしましい女性たちの勢いに、ともすれば幸太が置き去りにされてしまうほどだ。

 だが、話題が幸太とのデートや旅行の件になると、彼も傍観者ではいられない。

「ね、コーちゃんとの初デートはどこだったの?」

「放課後じゃなくて、休みの日に初めて会ったのは水族館に。その次は、六本木に連れてってくれました」

「うわっ、狙ってる狙ってる。めっちゃロックオンされてるジャン!」

「美咲ちゃん、この子と一緒にいて楽しい?」

「すっごく楽しいですよ! いつもほっぺたが筋肉痛になるくらい笑ってます。コータ君と一緒にいると、私、それだけで幸せな気持ちになれます」

「マシュマロちゃんから見て、コーちゃんてどんなカレシなの?」

「優しくて、面白くて、あととにかく愛情深い人です」

「へー、コーちゃんのことほんとに大好きなんだね。いい人見つかってよかったねコーちゃん。このあいだまで、お姉ちゃんと結婚したいって言ってたのに」

「息を吐くように嘘をつくのやめろ」

「で、コーちゃんはマシュマロちゃんのことどう思ってるの?」

「なんでお前に言わなきゃいけないんだよ」

「お姉ちゃんじゃなくて、マシュマロちゃんが聞きたがってるよ。ほら、言ってあげて」

「……美咲は俺のすべてだよ」

「お母さん、今の聞いた?」

「うん、聞いちゃった」

「美咲は俺のすべてだよ、だって。コーちゃんはなんて情熱的な男性に育ったのかしら。今日からコーちゃんのこと、神ポエマーって呼ばなくちゃだわ」

「3秒後を悔いろ」

 幸太は幸美の肩にグーパンチを3発見舞った。このお調子者の姉を黙らせるには、美咲の前で気は進まないが、もう実力行使しかない。

 この時点で、時刻はすでに14時30分。

 (そろそろだな……)

 幸太はこの頃になると緊張のため、ほとんど会話が耳に入らなくなった。手元のスマホでウェ〇ーニュースを立ち上げ、リアルタイムで情報が手に入るよう準備している。

「幸太、あんた聞いてる?」

「ん、ごめん何?」

「コーちゃんが告白してくれたときのこと、話してるんだよ。マシュマロちゃんがすっごくうれしかったんだって。今も心に残ってるんだってよ」

「あぁ……」

「なんて告白したの?」

「だからなんでお前に言うんだよ」

「言わないと、マシュマロちゃんがさびしがるよ」

「……俺は美咲の笑顔が一番好きだ、君を笑顔にしたいし、君の笑顔を守りたい、ずっと一緒にいたいって言った」

「キャハッ! それ、美咲を幸美に変えて言ってくれない?」

「嫌だ」

「マシュマロちゃんだけずるい! お姉ちゃんだって、かわいい弟といちゃらぶしたいわ」

「ほんと気色悪い生き物だな」

 場はすっかりあたたまり、まったりとした雰囲気になった。

 そして14時46分。

 幸太は会話から離れ、息を殺すようにしてスマホの画面に見入っていた。普段であれば、人と話すときに彼はスマホを見たりはしないが、このときばかりはそうもいかない。

 全国の天気を淡々とした様子で報じる画面に、にわかに異変が生じた。

 日本列島の地図が映し出され、宮城県沖を中心に地震が発生している状況が報じられている。

「きた」

 幸太は思わず小さくつぶやき、次の瞬間には緊急地震速報のアラームが全員の手元からけたたましく鳴り始めた。

 不穏な緊張感とともに、幸太以外の全員が沈黙した。

 幸太だけが、冷静に指示をする。

「大きいのくるよ。テーブルの下に」

 言いながら、幸太は美咲の肩を抱き、ダイニングテーブルの下に入った。

 暗い床に両膝をついて抱き合いながら、美咲は驚いたように目を丸く見開いて、幸太をじっと見つめている。

「大丈夫だよ、俺が必ず守るから」

 ふたりの目の前には、幸美の組まれた脚がだらしなく伸びている。

「えー大丈夫でしょー、どうせたいしたのこないよ」

 そのわずかに数秒後だった。

 揺れが、ついにこの地域にまで到達したのは。

 14時48分。

 不安を与えるような20秒ほどの弱い振動のあと、一気に激しい横揺れが襲った。

 棚の食器が悲鳴を上げ、柱の鉄筋がきしみ、母や姉が叫び声とともにたまらずテーブルクロスをはね上げてもぐり込んでくる。

 長く、容赦ようしゃのない激震が続く。

 幸太は美咲をきつくきつく抱きしめながら、必死に自らの恐怖心と戦った。

 これとまったく同質の恐怖を、彼は12年前にも一度、経験している。できればもう二度とあのような経験はしたくないと願ったが、彼の不吉きわまる予想のとおり、地震は再現された。

 (絶対に、美咲を守る)

 美咲をかばうように抱き、耐えに耐えて、ようやく揺れは落ち着いた。

 それでもしばらく、母と姉は床に座り込んだまま、呆然としている。

 幸太が美咲の表情を確認すると、呼吸は速く、唇が小刻みに震え、瞳が激しく揺れ動いている。

「……もう大丈夫だよ。怖かった?」

「うん……怖かった」

 母と姉は自失から脱け出し、すぐにリビングに移ってテレビをつけた。当然、画面の向こうではどの番組でも地震の速報を流している。非常に大きな地震であること、そして津波の脅威について、声高こわだかに伝えている。

 テーブルの下から椅子いすに座り直し、美咲の手から伝わる震えがようやくおさまったのを確認して、幸太はもう一度尋ねた。

「怖い? 気分はどう?」

「うん……もう、大丈夫そう」

「よかった。たぶん電車は止まるけど、このあと、俺が家まで送ってくからね」

 うなずいたあと、美咲は気持ちを落ち着けるためか、しばらく黙った。

 (美咲が、ひとりのときでなくてよかった)

 幸太は心からそう思った。美咲の安全を思えば、彼女の自宅にいてもらう方がよいと一度は考えたが、もし今日の予定をキャンセルしていたら、彼はもしかしたら一生にわたって後悔していたかもしれない。

 彼女を守ることができて、そして彼女の不安や恐怖を自分が受け止めることができて、よかった。

 安堵あんどしつつ、なおも美咲の手を握っていると、彼女はやがてあごを上げ、表情を消し、幸太の目を直視して、小声である質問を発した。

「コータ」

「ん?」

「コータ、地震があるって分かってたの……?」

「え……?」

 美咲の表情と声とは、冗談の範囲を明らかに逸脱いつだつしていた。少なくとも幸太にはそう思えた。

 幸太はとっさに、答えることができなかった。

 美咲は、感覚の鋭いひとだ。

 しかも、幸太のことを誰よりもよく見ている。

 この日の幸太の動き、振舞いには不自然な点が多くあっただろう。

 考えてみれば、美咲が不審を抱くのは当然のことでもあった。

 さて、それを踏まえて。

 (どう、答えよう……)

 幸太は硬直したまま、返事をすることができなかった。

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