第4話 ダイヤ < 情報

 翌朝、幸太は少し早起きをした。

 (高校生のまま? 高校生のままだな、やったっ!)

 高校生の頃は一切、口にしなかったコーヒーを飲み、新聞の経済面に目を通す。

 そうした幸太の異常な姿に、両親はいちいち不審の眼差まなざしを向けた。

 早足で登校し、人のまばらな教室で静かに本を読む女子のそばに膝をつく。

「伊東、せっかく集中してるとこ悪いんだけど、ちょっとこっちいいかな」

 伊東千尋ちひろは、美咲が最も仲良くしている同級生だ。朝はいつもクラスで一番に教室に入り、カーテンをいっぱいに開けて、趣味の読書を楽しむ、真面目でおとなしく控えめな印象の女子である。美咲と同じく吹奏楽部に属していて、オーボエを担当している。

 幸太は伊東を、人通りの少ない裏庭のベンチまで連れ出した。

 伊東は最前から、それと分かるほどに緊張し、そわそわしている。

 その理由を、幸太はすぐに知ることになった。

「わざわざごめんね。ちょっと話したいことがあってさ」

「早川君、こういうのって、その、困るよ」

「あぁ、そっか。伊東は男子とあまりしゃべらないし、こういうの慣れてないよね」

「慣れてないし、私のこと好きになられても困るの。私、好きな人いるから……!」

「あ、いや、ごめんだけど、そういう話じゃないんだわ……」

「え、そうなの。なんかこういうシチュエーションだから……」

 あはは、と二人して何とも言えない微妙な笑いを発して、ごまかした。

 (うかつ! ……だったな)

 まったく、幸太も不用意だった。男子と女子が二人きりで話しているというだけで、告白してるだの、付き合っているだのと噂が立つような世界だ。

 幸太は早く本題に入りたい。

「相談なんだけど、俺、松永のことが好きなんだ」

「エッ……!」

「それで、君に松永のことを聞きたいんだ。例えば、付き合ってる人とか、好きな人がいるかとか」

「うーん……」

「もちろん、一方的に協力してくれって言うつもりはない。例えば、君の言った好きな人が俺と親しいなら、情報を回したり、くっつけるように手を回すよ」

「ほ、ほんと……!?」

 先ほどまでの曖昧あいまいな態度が一転、伊東は明らかにこの話に興味を示したようだった。

 人は自分の利益にならない話には関心を示さない。逆に自分のためになるなら、たいていの情報は喜んで差し出す生き物だ。鼻先にニンジンをぶら下げてやる、ネゴシエーションの基本だ。

「お互いに協力しよう。誰のことが好きなの?」

「よ、よしはら、君……」

「吉原ァ!?」

 これには幸太もびっくりだ。物静かな伊東が好意を抱いているのが、なんと柔道部の主将である吉原だったとは。

 伊東は顔を真っ赤にしている。

「伊東、吉原のことが好きだったのかよ。あいつは筋肉モリモリ、マッチョマンの変態だ」

「別にいいじゃない。私は大きくて強い人が好きなの」

「あぁいや、悪かったよ。とにかく吉原とは仲がいいから、うまくアシストできるようにする。約束するから」

「けど、美咲とはあまりそういう話をしなくて。たぶん付き合ってる人はいないと思う」

「そう思う根拠は?」

「時間の使い方っていうか。根拠はないけど、なんとなく。好きな人がいるかも分からない。ほんとにそういう話、しないから」

 伊東は頭がいいし、高校生にしては大人だ。だからこそ、幸太は手を組む相手として伊東を選んだ。12年後にそのようなことを公言したらバッシングされるだろうが、彼は高校生の女子ほど信用できないものはないと思っている。とにかく、秘密は守れないと思っていい。

 だが伊東は大人だし、その分、協定を結べば一定の信頼を置いていいはずだ。これは知性というより人間性に対する信頼である。

 ただその伊東にしてさえ、これほど根拠の薄弱はくじゃくな、解像度のあらい情報しか持ち合わせていないことに、幸太は内心、少々の失望を抱いた。

「なんか、チャンスになりそうな情報ってないかな」

「そういえば……」

 何か、思いついたらしい。

「美咲は、毎週水曜日の放課後、大正記念公園でサックスの自主練をしてるらしいの。私も何度か、セッションしたことがあって。今でも続けてるかは分からないけど」

「素晴らしい、素晴らしいよ」

 賛辞が口をついて出るほどに、幸太は喜んだ。たった一つの情報が、ときに一粒のダイヤモンドより価値を持つことがある。

 (水曜日、というと、今日か……!)

 即行動あるのみだ、と思った。ブレーキをかけるな、アクセルを踏め、行動量を増やして、実行回数を積め。

 教室に戻ると、美咲がすでに登校している。机の横の荷物かけに目ざとく楽器用のバッグを発見して、幸太の胸は高鳴った。

「松永」

「ん?」

「昨日はありがとう。ハンカチ、返すよ」

「よだれ、とれた?」

「たぶん。においかいでみて」

 言われたとおりにして、美咲は微笑を浮かべうなずいた。

 それだけで、幸太は卒倒そっとうしそうなほどの幸福感を得た。

 昨日のうちに洗剤で手洗いをし、タオルにくるんで丁寧に脱水し、朝になってからアイロンで折り目までつけてたたんだのである。汚れが残っているはずもない。

 美咲の隣で、幸太は押し寄せる退屈な講義の数々に耐え忍んだ。分かりきったことを、偉そうな顔でもったいつけてしゃべっているだけじゃないか。こんなのは余計な部分を切り抜いて、動画で配信すればいいだけのことだ。

 特に幸太にとって愚かしいのは、英語の時間である。そもそも教科書の内容からしておかしい。まったく実践的ではないのだ。例えば、ネイティブは日常会話で関係代名詞など使うことはほとんどない。無理に日本語の構文を英文に置き換えようとするからかえってややこしくなるのだ。6年間の英語教育よりも、数ヶ月の海外生活の方がよほど役に立つ。しかも担当が例のおばばときては、居眠りをする生徒が続出するのも当然だ。

 ともかく最後の授業を乗りきって、さて、幸太としてはここからが本番だ。

「それじゃあ、また明日」

「うん、バイバイ……」

 さり気なく美咲に別れの挨拶をすると、彼女はほんのわずかな戸惑いと、素直な驚きを込めて返事をした。

 (とにかく毎日、朝と放課後は声をかけること)

 幸太はそう決めている。

 ただ、幸太は普段、女子に話しかけることなどなかったから、美咲としては意外さを隠せなかったのだろう。

 美咲が教室を出てからすぐ、幸太もバッグを背負った。

 (さぁ、いこうか……!)

 ノルアドレナリンが体内で急激に分泌されているのを自覚する。こういう感覚、久しぶりだ。

 伊東の話していた大正記念公園は、高校の最寄り駅からはわずかに2駅である。幸太らの通う高校がすっぽりと10校くらいは入ってしまうような広い公園で、園内には銀杏いちょう並木や池、サイクリングコース、レストラン、運動場、原っぱなどがある。なるほど、ここなら楽器の練習をする人も多くいるだろう。

 ただ、公園の入り口に入り、園内マップの前に立って、幸太は少々、呆然とした。

 広すぎる。

 これだけ広いと、たとえ美咲がいたとしても探し出すのは難しいかもしれない。

 (とにかく歩いてみるしかない)

 まずは公園の中央へと歩みを進める。最も有力なのは、園内でも見晴らしがよく人との距離がとれる原っぱだ。ここでサックスを吹くならそのあたりがいい。

 これが大人パワーというものだろう。正解を知らずとも、限られた情報から確からしい推定を導き出すことができる。

 奥へ奥へと進み、川にかかる橋を越え、原っぱにさしかかると、不意に風に乗ってジャズ風のまろやかな音が聞こえてくる。サックスだ。

 逆サイドにいる人がコメ粒ほどに小さく見える広大な原っぱに目をらすと、枝葉を大きく広げた樹の下、白とダークグレーを基調としたセーラー服をまとった高校生が、黄金色こがねいろにまばゆく輝く楽器を手にさかんに音を発しているらしいのが見える。

 幸太は雄叫おたけびを上げるのをようやくこらえつつ、無言で拳を握りしめた。

 (伊東、お前は俺にチャンスをくれたよ。吉原とは必ずくっつけてやるからな……!)

 深く呼吸を繰り返して、精神状態を整え、集中力を高めつつ、幸太はゆっくりと舗道ほどうから原っぱへと足を踏み入れていった。

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