第2話 ジャ〇ー監督

 自宅のリビングには、妻の真理まりがいる。

 別に、幸太の帰りを待っているわけではない。同居こそしてはいるが、真理には真理の生活がある。家庭内別居、と言えるほど深刻ではないが、意図的に生活空間を分けており、幸太が帰宅すると、彼女はすぐ自室に引っ込んでしまう。

 最初からそうだったわけではないが、少なくとも真理の幸太に対する男女間の情愛は冷めきってしまっている。

 幸太の、真理に対するそれはどうだろう。同様に冷めてしまったのか、それともそもそもそのようなものは存在しなかったのか、存在したとしても時間とともに消えてしまう程度のものだったのか。

 今となっては、どうでもいい。

「おかえり」

 と、それだけを言って、真理はテレビを消し、リビングを出ていった。自分もそうだが、彼女はなんのために、この同居生活を送っているのだろう。一人でいた方が幸せなのではないか。

 幸太は人の気配と音が完全になくなったリビングで、ウィスキーをあおった。ストレートである。とにかく酔いたい気分だ。

 しばらく飲んで、やがてテーブルに突っ伏し、意識を失った。この際、眠れればそれでいい。

 が、何かが違う。

 酔いつぶれるというのは、もっと慣れ親しんだ、例えば入眠に近い体験だったはずだ。それに比べると、ずいぶん感覚が鮮明な気がする。ひょっとして、自分は眠っていないのだろうか。

 そう思い、頭を上げて、幸太はぎょっとした。

 テーブルを挟んで、サングラスをかけた見知らぬ男性が座っている。

「えっ、誰……?」

 幸太は一瞬で酔いが覚め、周囲をぐるぐると見回した。いつもの自宅リビング。夢でもなさそうだ。

「なに、なに、誰?」

 軽いパニック状態である。

 男性は年は50代くらい。キャップをかぶり、黄色いメガホンを片手に持っている。

 誰だ、こいつ。

 突然、男は大声を出した。

「カァットォッッッ!!」

「は、はい?」

「You、つまんない人生だねぇ。そんなんじゃOK出せないよ」

「あ、あのぉ、あんた誰?」

「監督だよ監督」

 (やっぱり夢なのか……?)

 これほどの騒ぎになっても、真理は自室から顔を見せない。夢にしては、天衣無縫てんいむほうと言っていいくらいにリアリティがあふれているが。

「Youの人生の監督だよ」

「……いや、ちょっとなに言ってるか分かんないです」

「なんでなに言ってっか分かんねぇんだよ。今みたいな人生じゃ見てる方もつまんないってことだよ」

「見てる方?」

 年を食っているわりにエネルギッシュな男だ。椅子いすから立ち上がり、あちこちに訴えかけるようにそこら中を歩き始めた。

「なんていうかありきたりで、”いい人”なんだよね、Youはさ。もっとやりたいように動いてさ、オイシイをちょうだいよ」

「はぁ」

「Youの本当の人生、精一杯の人生を見せてよ!」

 (本当の人生……)

「とにかくTake2いくよ、高3からでいいね」

「は、Take2!?」

「そうだよ、ほら、本番いくよっ。アァクショォン!!」

 すぅっと、幸太の視界が白くなった。

 (なにがどうなってるんだ……)

 幸太は盲腸手術のために、全身麻酔の経験がある。ものの数十秒で意識が遠のき、時間や明るさの感覚を含めたすべての情報が遮断される。あれに似ている。

 (Take2ってなんだよ。人生やり直せってことかよ。もしやり直せるなら、俺は……)

 そこまでで、幸太の思考も、何もかもが途絶えた。

「……くん、……くん、早川君!」

「……はい、僕ですか?」

 むにゃむにゃ、と唾液の水たまりの上で唇を動かすと、徐々にまぶたの裏に光が差し込んでくる。

「早川君、起きてー!」

 呼びかける声に応え、ゆっくり目を開ける。ピンク色のツーピースが視界いっぱいに広がり、ぎょっとして首を持ち上げた。

「げっ、おばば……!」

 おばば、というのは、幸太の高3の頃、英語を担当していた教師のあだ名である。強烈なキャラクターの持ち主で、まさにおばばという言葉のイメージそのままの教師だった。しかも、世の中には無言の皮肉というのがあって、彼女は苗字を大場といった。大場だからおばば、というわけである。

 教室は寝ぼけまなこの幸太と、その口から本人に向かって発せられたあだ名に一斉に哄笑こうしょうが起こった。

 おばばは、そのひどいニックネームについては触れず、幸太にぴしゃりと命じた。

「Kota. Stand up.(コータ、立ちなさい)」

「Y…Yes.(は、はい)」

「Okay, Kota. You looks tired. Are you all right?(コータ、眠そうだけど大丈夫?)」

「I‘m…I’m fine. Ah…I‘m sorry. I’m still half asleep. But I feel much better now.(あぁ、その、大丈夫です。その、すみません。ちょっと寝ぼけているみたいで。けど、もうよさそうです)」

「…Okay. Sit down.(いいわ、座りなさい)」

 幸太が流暢りゅうちょうに英語で返したのがよほど意外だったのだろう、教室内はにぎやかな笑いが一転、幸太に対する拍手と喝采かっさいで満ちた。

 そろそろと腰を下ろし、幸太は状況の把握につとめた。

 (夢……だよな、これ)

 そっと、学生服に包まれたふとももをつねってみた。痛い。

 思わず顔をしかめた幸太の前に、たくさんのレモンのイラストが描かれたハンカチが差し出された。

 左を向く。

 いた。幸太の信仰心の対象が、である。

「よだれ、垂れてるよ」

「ありがとう、松永……」

 その人、松永美咲は、にっこりと微笑み、うなずいた。

 なんというか、この人は表情がいい。外見の美しさとか魅力というのは、単に顔立ちのよさというよりも、実は表情とか、仕草とか、行動のひとつひとつ、そういうところに表れる気がする。30歳にもなると、分かってくることだ。

 (本当の人生……精一杯、やり直せるのか?)

 ハンカチで口元をぬぐうと、ほのかにベルガモットの爽やかな香りがした。

 (夢じゃない)

 幸太の人生の、Take2とやらが始まったらしい。

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