第8話 お優しい心根のお陰

「りっりりり理玖りくさん、妻って何です!?」

「こら、そわそわするな。この時代なら、この歳で未婚の方が珍しいだろうが。それに女が一人でずかずかと出向いてくるのも不自然だ」

「そっそれはそうですが」

直弘なおひろがいると余計な手間をかけずにこうして突撃できる。助かるよ」

「は、はあ……」


 その時、ガチャッと扉が開いて、仏頂面のおじさんが顔を出した。


「何だね君たちは。見ての通り我々は忙しすぎててんてこ舞いなんだ」


 確かに、鉛筆を持ってせっせと記事を書く者、ガリガリと印刷用の板を削る者、ごしごしと紙に文字を写す者など、それぞれが忙しなく手を動かしている。


「御免あそばせ」

 理玖が恭しく挨拶したので、また直弘はぎょっとしていた。理玖は笑顔を崩さず、手に入れた新聞を見せた。

「わたくしたち、この記事のことで伺いたいことがありますの」

「何だ、文句でもあるのか」

「とんでもございません。ただ、わたくしたちは人を探しておりまして。この情報を貴社にお伝えしたのは、どなたかしら」

「機密事項だ。君たちが朝鮮人や共産主義者を嫌う者であるかも知れん以上、迂闊に口外は出来ん」

「まあ。どうしても駄目? わたくしたち、この記事のお陰で救われたので、お礼を申し上げたいのです。ねえ、直弘さん」

「そ、その通りです。俺は朝鮮人だと間違えられて、ぶん殴られるところだったんですよ」


 直弘が如何にも不慣れな様子で嘘をつく。この時代、在日朝鮮人の立場は決して高くはないから、見るからに富裕層で袴まで着た男性が間違えられる可能性は低い。そこは共産主義者とか無政府主義者とかにしておいた方が無難だった気がする。大正デモクラシーに感化されたお坊ちゃんのような感じで。

 だが理玖の予想とは裏腹に、新聞社の人は渋々頷いた。


「そういうことだったら、まあ……。お礼の投書でも書くのかね」

「ええ、そんなところです。そのお方のお名前を教えて下さいな」


 理玖はいささか緊張しながら、新聞社員の返答を待った。彼はあっさりとこう言った。


「田中ハル、と名乗っていたよ」

「えっ」

「うん?」

「ああ、いえ、女の方だとは思わなかったので」

「お前さんみたいなハイカラな洋服を来たお嬢さんだったよ。なかなか気の利く子で、井戸水の調査の結果なんかを次々と出してくれてね」

「そうでしたのね。ありがとうございます」

「……用はそれだけかい」

「ええ、また伺いますわ。ごきげんよう」

「はいよ」


 理玖は新聞社を出てしばらく歩いている間、一言も発さなかった。直弘が心配そうな顔をしてついてくる。ある程度新聞社から距離を取ったところで、理玖は膝に手をつき、地面に向かって叫んだ。


「また! あいつ! かよ!」

「あいつ? 誰です?」

「今回のチェンジャーは、ほぼ間違いなく、逆井都姫さかいとき!」

「え、田中ハルって人じゃないんですか」

「確信犯のチェンジャーは実名を隠すことも多々ある。あいつは前にも同じ偽名を使ったことがあるんだ」


 理玖は姿勢を正した。


「都姫が田中ハルを名乗っていた事実は、毎回私が旅行時計を使って無かったことにしてしまっているから、都姫の記憶には残っていない。それで知らずに何度も同じ偽名を使いがちなんだ」

「へえ。そういうこともあるんですね」

「何度でもタイムトリップできる我々の方が、アドバンテージが高いというわけだよ」


 理玖は嘆息する。


「……政府関係者に比べたら、都姫は対処し易い類のチェンジャーではあるんだが……今回は大胆なことをしでかしそうだ……」


 あの女の仕業ということは、今回の歴史改変の主目的は、虐殺事件を無くすことではない。彼女がこの時代でやりたいことは──。

 理玖は鞄を肩にかけ直した。


「直弘」

「はい」

「これから避難者の仮設住宅地に行く。高橋キヨという名の女児の生死を確認したい。あと、永田三郎という男児の状況も聞こう」

「その子たちが、何か?」

「時間が惜しい。歩きながら話す」

「はい」


 道にはまだ撤去できていない瓦礫が転がっていて、歩きにくい。だが鉄道も止まっているし、何とか自力で行くしかない。

 焼け焦げた家の残骸を横目に、二人は歩を進める。


「逆井都姫が繰り返し歴史改変をしたがる理由は、過去の時代に好きな人が出来たからでね」

 理玖はやれやれとかぶりを振った。

「その人が永田三郎だ。一九一一年から一九四五年に生きた。都姫は彼と結ばれたい、彼の命を長くしたい、と思っている。他の大勢の人を助けたいというのは、ついでだろうな。そのお優しい心根のお陰で、ゼロ・ノートが異変を察知し易いわけだが」

「あの、一つ質問が」

「どうぞ」

「逆井都姫が永田三郎と会ったのは、過去でのことですよね? そこの歴史は、修復しなくて良いんですか?」

「ああ、本来なら修復したいところだよ。そうすればあいつによる歴史改変に対処する必要が消え去るからね……。だが現状、いつどこで二人が出会ったのか、分からないんだ」

「えっ、ゼロ・ノートは……?」

「あれも完璧ではない。大きな差異しか観測できない」

「えーと、じゃあ、二人の出会いは、小さな差異なんですか? いわゆる蝶の羽ばたきには相当しないと?」

「ふん」


 理玖はにやっと口角を上げた。


「これは仮説だが。ゼロ・ノートが今のところ沈黙している理由は、あいつのやらかすことは全部、リペアラーが阻止できるからじゃないかな。我々がいちいち仕事をしに行かねばならないのはこの上なく面倒だが、毎度こっちの勝ちは確定しているのかも知れない。無論、油断は出来ないが」

「へえ……それなら安心……ではないですね」


 直弘は顔をしかめた。


「仕事をする度、俺たちは時間を取られるではありませんか。あの人一人のために、こんなに余計な手間をかけさせられるなんて」

「仕方が無い。出来ることからこつこつやっていくしか無いよ。とりあえず今は、永田三郎の未来の妻、高橋キヨの生存確認をしておく」


 直弘は目を見開いた。


「まさか逆井都姫は、恋のライバルたる高橋キヨを、この震災で死なせるつもりで!?」

「うん。前もそんなことがあったよ。それでいてついでに無辜の民を救済しようってんだから、お笑いぐさだな」

「あ、あの女、どこまでも自分勝手な!」

「元からそういう奴だよ」


 理玖は、路上にある壁の欠片やら焼け焦げた瓦やらをよっこいしょと乗り越えながら、どんどんと進んだ。

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