9.

「優斗ー! ちょっと来とくれー!」


 二階の掃除をしていたら、ばあちゃんが俺を呼ぶ声がした。


「ちょっと待ってー!」


 掃除機をかけながら、俺もでかい声で返した。


 汗で張り付く伸び切った髪を払い、額の汗を拭って窓の外に目をやる。開け放した窓の向こう側は抜けるような快晴で、眩しい光で満ちていた。昼前の爽やかな風が吹く時間。じっとりとかいている汗に、夏を感じた。


「早く下りといでー!」


 掃除機の音に負けない声でばあちゃんが叫んでいる。わかってるって。でもここだけやれば掃除は終わりだから。


 そう自分の中で言い訳しながら急いで掃除を終え、重くてゴツイ掃除機を階下へ降ろした。外でばあちゃんが誰かと喋っている声がする。俺は階段下のスペースに掃除機をしまって、玄関から外に出た。


「あ、おはようございます」


 庭にいたのは賢三さんだった。昨日の今日で、ちょっとだけ気まずい。


「おう、おはよう。これ、寺田さんちから預かってきたから。ちっと古いけど、空気は入ってるし、油も差したから大丈夫だ」


 そう言って軽トラの荷台を指さした。


 空気? 油? 何をくれるっていうんだろう。不思議に思って、荷台を覗いてみる。


「チャリ……?」


 そこには古い型の黒いママチャリが紐でくくりつけてあった。


「優斗も足がないのはしんどいべ? これがあればコンビニだって、海だって、すぐ行って帰って来れる」


「寺田さんが、よかったら使ってやってって」


「悪いね、無理言って運んでもらっちまって。優斗、荷台から降ろすの手伝って」


「なんも、このくらいお安い御用だ」


「あ、ありがとうございます」


「そいじゃ」


 ガス臭い空気をまき散らしながら賢三さんは帰って行った。


「どうしたの? これ」


「もっと早く用意してやれりゃあよかったんだが、色々忙しくって後回しにしてたやつさ。買い物だの、これがあった方が楽だろう?」


「うん、ありがとう」


「ちょっとそこまで乗ってきたらどうだい? お昼代ならあげるから」


「んー、でも朝炊いたご飯、残ってたしいいよ」


「あれ、そうかい」


 ばあちゃんは驚いた様子で俺を見た。


「優斗がお昼ご飯のこと気にしてくれるなんてねえ」


 それは俺自身も思っていた。朝炊いたご飯が残ってるからって、俺になんの関係がある? そもそもばあちゃんから言いつけられる面倒な雑用から、あんなに逃れたがってたのに。昼食代までくれるっていう誘いを断るなんて。


「自分でもよくわかんない。でも、今日はそういう気分なんだ」


「そうかい。そういう気分は大事にした方がいいね」


 ばあちゃんは機嫌良さそうに大きく頷いた。


「それじゃあ少し早いけど、ご飯にしようかね。手伝ってくれるかい?」


「うん」


 自転車を玄関の横に置いてみると、ずっと昔からここにあったみたいに馴染んでいた。古い家だから、古いものが似合うのかもしれない。その玄関に入って行くばあちゃんは、やっぱりこの家に似合っている。藍染の深い紺色のワンピースが涼し気にはためいていた。


「こないだ磯田さんからもらったトマトとナスはまだあったかな」


「あるよ」


「それで卵炒めでも作るかね。優斗はキュウリを切っておいておくれ」


「わかった」


 ばあちゃんと並んで台所に立つ。トントントンとリズムよくまな板が音を立てる。ばあちゃんはいとも簡単にチャチャッと食事を作っていく。本当に簡単そうに見える。


 対して俺の包丁さばきはおぼつかない。何軒もの居酒屋でバイトしたけれど、包丁を握ったことなんてほとんどなかった。でもできないって言うのもカッコ悪くて、見様見真似でなんとかキュウリを切り終えた。


「切ったよ」


「はいよ」


 不揃いなキュウリを受け取ったばあちゃんは、鮮やかな手つきで塩を振り、さっと混ぜると小鉢に盛り付けた。


「さ、テーブルを片しておくれ」


「うん」


 ばあちゃんが仕上げをしている間、俺はご飯をよそったり、冷蔵庫にあるものを出したりした。


「優斗と並んで料理する日が来るとはね。最初の頃は考えらんなかったね」


 メインのトマトとナスの卵炒めを机に置きながら、ばあちゃんは嬉しそうに言った。トマトの赤色がひと際目立って見えた。


「俺、そんなにひどかった?」


 俺の問いには答えず、いただきますと言って食べ始めるばあちゃん。


 俺も同じようにして箸を取った。ふわふわの卵とトマトの酸味、ナスの旨味がひと汗かいた身体に染み渡る。ごちそうでもなんでもないのに、エネルギーで満ちるような、そんな大袈裟な感じ。


「季節のものは栄養がうんとあるからね。それに夏野菜は夏バテしないから、たんとお食べ。東京の夏と、こっちの夏じゃ全然違うから」


 東京にいた時は、季節の野菜なんて気にしたことがなかった。というか、野菜を食べていた気がしない。ばあちゃんちに来てからは毎日毎食、色々な野菜が食卓に並んで、それで知ったようなもんだ。


「ばあちゃん、俺そんなにひどかったかな」


 もう一度同じ質問を繰り返してみる。どんな答えを、ばあちゃんの口から期待しているのか自分でもわからない。


「最近は、ちゃあんと目が生きてきたよ。やっぱり人間は、夜は寝て、朝は起きて、昼にしっかり動いて、ご飯をちゃあんと食べてればそれが一番なのさ。太陽に当たって、季節の物を食べて、それが何よりも大事なことだよ」


 うんうんと自分の言葉に頷きながら、ばあちゃんはそう言った。


 ということは、ばあちゃんちに来たばかりの頃は目が死んでたんだろうか。


 自分ではわからない。でも夜更かしばかりしていて、目の下のクマとかはすごかったかもしれない。いかにも不健康な生活を送っていた自堕落な日々。でもあれはあれで楽しかったんだよな。


 ばあちゃんの生活サイクルが、あの頃は苦痛で仕方なかった。なんで俺がこんなことをしないといけないのか、姉ちゃんを恨んだ。面倒くさいことになってしまった自分の立場を憐れんだ。


 それが慣れた今となってはなんともない。ある程度の時間になれば夜は自然と眠くなるし、朝は眠たいけれど起きれるようになった。面倒くさいと思うことも少なくなったし、これはこれで悪くないと思える。


 スマホが鳴ることもなければ、遊ぶ金がないと焦ることもない。ここには田舎の時間が流れていて、そんなことに目を向け、興味を向ける余裕が、やっと出てきた気がする。


「やってればやってるようになるもんだ。今はまだうまくなくても、ね」


 ばあちゃんはそう言うと、俺が切った不格好なキュウリを美味しそうに頬張った。


 ニコニコと俺の顔を見ていて、なんだか照れ臭い。小さい子供でもないのに、見守られてるみたいなそんな笑顔。


「それで、そろそろ髪切らないかい? そんなに長くて鬱陶しいだろう?」


「まあ、邪魔だけど」


 俺は目にかかる前髪を払った。伸び放題に伸びて邪魔くさいとは思っていた。


「午後イチで床屋を予約してあるんだ。一緒に行くかい?」


「ばあちゃんも切るの? そんなに短いのに?」


「ショートカットってのは決まった周期で切らないとカッコ悪いんだよ。伸び放題にしてていいことなんかないんだから」


「ふうん」


 そういうものなのか。髪型にこだわりのない俺からすると、よくわからない話だった。


「切るのはいいけど、坊主とかじゃないよね?」


「まさか。さすがに丸坊主にはせんよ。ちゃんと話せばね」


「ばあちゃんの行きつけの床屋って、超高齢でしょ?」


「いんや、今は娘がやってるから大丈夫だ」


「ふうん」


 だいたい床屋って言うくらいだ。期待はできない。でも本格的な夏が来る前に、鬱陶しい髪の毛とおさらばできるのは純粋に嬉しかった。


 いつぶりの散髪か。どうやらばあちゃんの楽しそうな気持ちがうつったらしい。俺の心は少しだけウキウキとしていた。

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