二章 一年前 沙湖 二十九歳

「来年の夏の新作の案件受けたから、忙しくなるわよ」

 うらうらとした陽ざしの暖かな秋の日。のどかな外気にそぐわない少し緊張した、よく通る声で、デザイナーのAyaさんが言った。フロアは一瞬、ぶわっと静かな興奮に包まれ、その直後、ぴりっとした空気が張りつめる。Ayaさんが口にした企業は大手アパレルブランドで、社員たちに気合いが入ったのをひりひりと肌で感じる。私は、濃いピンクに染めた髪を一度撫で、緊張をおさえる。

 私の就職したデザイン事務所は、小規模ながら、大手企業からのデザイン案件の受注も受ける実力のある事務所だ。仕事も八年目にもなれば、慣れてくる。就職してすぐは、学生と社会人の責任の差や、納得のいかないことを飲まないといけないという社会全体の暗黙のルールに面食らうことも多かったが、やりたいことの最低限の拘りさえ見失わなければ、要領も自然に身についてくるものだ。

 それは人間関係においても同じで、デザイン学校のときより実力が認められる分、陰では何を言われているかわからない。でも、それをあからさまに態度に出すほど、みんな子供じゃない。それは表面上とても過ごしやすく、周囲の人間は人畜無害が一番、と考えている私にとっては、居心地が良かった。上司であり事務所のデザイナーであるAyaさんがさっぱりしているのも良い。男女も経歴も年齢も実績も関係なく、良いと思ったアイデアを採用してくれる。世間のニーズやトレンドの調査、商品コンセプトの企画、デザイン画作成、それが私の主な仕事内容だが、私は好きなことには没頭できる性格らしく、とても楽しんで働けている。独立できるほど甘い世界でないことはわかっているが、できることなら一生続けていきたい仕事だと思う。

 Ayaさんが発表したブランドの案件は大きな仕事になるだろう。来年の夏のトレンドを今年の秋から調査しなければならない。有名アパレルブランドがどんなトレンドを作ろうとしているのか、私はまず情報を集めなければ、と思った。小さいものから誰でも名前の知っている大規模なものまで、ありとあらゆるファッションショーや新作披露会の予定を調べることにした。


 家に帰ると千波が夕飯を作ってくれていた。千波は古着屋と雑貨店が一緒になった店の仕入れバイヤーをしている。ユニークで個性的な商品が多く、千波の好みにとてもあっていると思う。

「ただいまー。ごはんありがとう」

 脱いだ靴を揃えずに部屋にあがる。

「おかえり。沙湖、遅くなるって言ってたから、先食べたで」

「うん、大丈夫。しばらく忙しくなりそう」

「なんや、大きな案件?」

「うん、大きい。やりがいありそ」

「ええことやね」

 にっと笑って千波は、夕飯を出してくれる。琥珀色に艶めくハヤシライスは、とてもいい香りがする。付け合わせにきゅうりのスティックサラダ。思わず「あーお腹すいた」と子供みたいな声を出すと千波が「ええことやね」と言って、またにっと笑った。

 ハヤシライスは、玉ねぎの甘味が良く出ていてとても美味しかった。千波はスティックサラダのきゅうりに味噌をつけて、ビールを飲んでいる。私は、食事を美味しく食べられることに感謝し、自分の左肩をそっと右手で撫でた。食事が美味しいときの、感謝の祈り。私だけの儀式みたいなものだ。中学生のときから始まり、今では癖になってしまった。

「ごちそうさまでした」

 手を合わせて感謝する。これも、中学生のときからの決まり。食事に感謝すること。私にとって、特別なことだ。

 それから煙草に火をつける。満たされた胃のすぐ上で、今度は肺が満たされていく。食後の一服がこんなに美味しいのはなぜだろう。人間の臓器は単純で愛おしいな、と思いながら、青白い煙を深く吸い込む。仕事場は完全に禁煙であるため、家に帰らないと吸えないのだ。

「ねえ、デザイン学校のときの、芽衣めいって覚えてる?」

 きゅうりをパリパリかじりながら千波が言う。

「芽衣?」

「うん、なんかちょっとの間、友達からハブられて、うちらと一緒にごはん食べてた子いたじゃん」

「あ、あぁ、あの芽衣」

「そうそう、あの芽衣」

「芽衣がどうしたの?」

「離婚したらしいよ」

「へえ……てか、結婚してたんだ」

「うん、結婚して子供いるみたい。けど、なんか旦那がひどい人で、働かないわ、芽衣の家事に文句つけるわ、酔うと暴力ふるうわで、大変だったみたい。やっと離婚できた、みたいなことSNSに書いてたわ」

「ふーん」

 全然知らなかった。私は個人的なSNSはやらないし、やるとしたら仕事で必要な情報収集に使うのみだ。若者に流行っているもの、流行っている服、流行りそうなもの、その調査にしか使ったことがない。

「芽衣も大変だったんだね」

「うん、明るい子やったけど、苦労してたんやって思ってね」

「ほんとだね」

 他人様の苦労なんて、傍から見ていただけじゃ絶対にわからない。自分ですら、自分の苦労に気付かないときがあるのだ。他人様の苦労なんて、わかるはずもない。それでも、わかろうとして寄り添おうとするから、人間はややこしい。ややこしくて、不器用で、憎たらしくて、憎めない。結局、家族や千波に助られてきた私は、一人じゃ生きていけないことを身に染みて知っている。もし芽衣が今大変な思いをしていて、何か力になれるなら声をかけたいな、と思った。他人なんて人畜無害が一番だ、と思っているくせに、結局、情にほだされる私。

「で、連絡しといたよ」

「ん?」

「そんな大変な状況って知らんかったから、何もできることはないかもしれないけど、愚痴くらいなら聞くでって、芽衣に連絡した」

 千波はさすがだなと思った。いつもへらへら笑顔で、派手な服でチリチリパーマを揺らして、穏やかな千波。友達がしんどいときは、いつもすぐに手を差し伸べられる千波。思いついても、それをすぐに行動にうつせる人は少ない。すぐに行動できることは、迷いがないということだ。私とルームシェアを決めたときも、千波の行動は早かった。

 あれは、件の芽衣の紹介で知り合った男と一悶着あった日の夜だった。千波はもともと近所に住んでいて、その日は私の家に来ていた。ぐったりと心身の疲れ切った私に温かいハーブティを淹れてくれて、「一緒に住もうか」と言ってくれたのだ。もう九年近く前のこと。

「沙湖が嫌じゃなければ、一緒に住もうか」

 心強い言葉だった。私にも味方がいる。家族以外でも、味方がいる。そう思えた。

「……千波が嫌じゃなければ」

 小さな私の返事に、「じゃ、決まりね」と言って、本当に私の家に引っ越してきた。物置のように使っていた一部屋を片付けて、そこを千波の部屋にした。一人暮らしのとき、荷物が増えそうだな、とやたら広い部屋に決めた私の決断が、そこで活きることになった。それから今も、一緒に暮らしている。

「芽衣、大丈夫だといいね」

 私が言うと、「うん、ほんと。変な男っているもんやな。最低やろ、暴力なんて」と千波は怒っていた。本当にその通りだ。暴力なんて、最低だ。私は微か遠くに始まりそうな耳鳴りを深呼吸で遠ざける。雨の音が始まる前に煙草を深く吸うと、耳鳴りは去って行った。やり過ごすのが少し上達している。私みたいな人間でも、少しは成長するみたいだ。

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