十三話

 王宮内に侵入した私は、衛兵に気付かれないよう慎重に進む……つもりだった。だが辺りの様子をうかがっても、衛兵の気配は一つも感じられなかった。王宮内でこんなことがあり得るのか? 王族の住まう場所なのだ。昼夜関係なく、警備は常にされているはずなのに。それとも、先ほどの外の騒ぎで出払ってしまっているのだろうか。だとしても一人も見かけないということはないと思うのだが。何か、おかしい……。


 罠だろうか……待ち伏せをされているのでは……悪い予感ばかりが浮かんでも、私はもう突き進むしかないのだ。今さら引き返せない。たとえ背後の暗がりから襲われても――そうだった。私にはもう強力な盾も剣もない。あるのはこの身だけ。足留めを頼んだ黒い蜘蛛が最後の刺青の具現化だったのだ。頼れるものはなくなった。兵士が大勢来れば、私を捕らえることも、殺すこともたやすい。だがそれはこちらの気が済んでからだ。王女に国王の証をお渡しするまで、まだこの命を失うわけにはいかない。


 東宮に入ると、外から見たように廊下にはろうそくのほのかな灯りが連なっている。しかしやはり衛兵の姿はどこにも見当たらない。もしかして王女はここにおられないのだろうか。だから衛兵もいないのでは。けれど王女がどこにおられようと、王宮内の警備がなされないことはないはずだ……考えても、この状況の理由がさっぱりわからない。不安が募る一方だが……出直すことなどできないのだ。王女の部屋は目と鼻の先にある。何があろうと行くしかない。


 通い慣れた王女の部屋の前に到着しても、付近に衛兵はいない。あまりに簡単な道程は不気味にさえ感じる。だがそんな気持ちを振り払い、私は扉に手をかける。軽く押してみると、扉は抵抗せずに動いた。鍵はかかっていない――小さく安堵し、私はそっと押し開いた。


 恐る恐る中をのぞくと、照明がついた部屋は煌々と明るく、ソファーと共に並ぶ机の上にはティーポットとカップが置かれたままになっている。つい先ほどまで王女が飲まれていたのだろうか。しかしその肝心の王女の姿が見えない。奥の寝室ですでにお休みになられているのか? それにしては照明もついたままで、居間が片付けられていないようだが……侍女は何をしているのだろう。けれどお休みなのなら、そのお邪魔はできない。お顔を拝見できないのは残念ではあるが、机に国王の証を置いてすぐに立ち去ろう――懐にある証を取り出そうとした時だった。


「誰?」


 不意の声に私は顔を跳ね上げた。見ると、寝室からこちらを警戒するようにゆっくりと歩いて来るソフィヤ王女の姿があった。


「……ソフィヤ様、まだお休み前でしたか」


 着ているのは寝巻ではなく、普段から見るドレスで、明るい茶のおぐしもまだ結われたままだった。


「ナザリー……あなたなの?」


 王女は私を見ると、驚いた様子もなく、冷静な口調で言った。そして静かにこちらへ歩み寄って来る。私は片膝を付き、すぐさま頭を下げた。


「このたびは、真に申し訳ございませんでした。護衛という務めも果たさず、お側を長く離れてしまい……」


「ずっと心配していたのよ。皆があなたを捜していると聞いて」


「大変恐縮です……実は、ソフィヤ様にお渡ししたいものがあり、こうして参りました」


 私は手に取った布の包みを開け、国王の証を見せた。


「これは……」


「はい。代々の国王が受け継がれる、国王の証です」


 差し出すと、王女は受け取られた。


「それを持たれるお方こそが国王であり、その証となる……私は、ソフィヤ様にぜひとも女王になっていただき、この王国を導いて理想を実現していただきたいのです。その愛に満ちたお心で」


「でも、これは父上から直接渡されなければ意味がないものよ」


「ソフィヤ様は渡されたのです。私の手を介して……」


 私のじっと見上げる目を見て、王女はわずかに眉をひそめた。


「……そういうことにしろと言うの?」


 さすがにご気分を害されたか。嘘をついてまで王位を継ぐなど、清廉なソフィヤ様の意に反するのは当然ではある。


「証をどうなさるかは、ソフィヤ様のご判断にゆだねます。お手元に置かれるか、お返しになられるか……そのどちらを選ばれようと、私はそのご意思に従います。ですが、この王国を正しく導けるお方はソフィヤ様だけだと、私は強く信じております」


「ナザリー……」


 王女の感極まった眼差しを受け、私は立ち上がる。


「今ソフィヤ様には、あらぬ誤解がかけられているとか」


「ああ、兄上に肩入れする者達が流したデマね。でももういいのよ」


「よくはありません。すべては私が至らなかった責任……その責任をもって、私が誤解を解きます。ソフィヤ様への悪評に実態がないことを――」


「その必要はないわ」


 私はきょとんとした。迷惑を被っているはずなのに、王女の表情には困惑も憤りも見られなかった。


「お許しになられるのですか?」


 聞いた私に王女が何かお答えしようとした時、コンコン、と部屋の扉が叩かれた。


「ちょうどいいわね」


 そう言うと王女は扉へ向かう。こんな真夜中にどなたかとお約束でもしていたのか?


 王女が扉を開けると、その向こうには何人もの兵士が立っていた。そして王女が道を空けた途端、兵士達は躊躇なく部屋に入り込んで来た。私は状況が呑み込めず、兵士を眺めながら立ち尽くしているしかなかった。


 すると最後に思わぬ人物が現れた。王女の双子の兄、ユーリー王子……なぜ、ここに――私の頭の中は驚愕が支配し、何も考えられずにいた。


「話は終えたか」


 ゆっくり、堂々と入って来た王子は、王女の隣に立ち、そう聞いた。


「ええ。たった今。……これをどうぞ」


 王女は布に包まれた国王の証を迷うことなく王子に手渡した――これは、どういうことなの?


 受け取った王子は布を放り捨てると、黄金の紋章をじっくりと眺め始める。


「偽物ではないのだろうな」


「それが偽物に見えるの? どう見ても本物の国王の証よ」


 納得したのか、王子は軽く頷くと、証を上着のポケットにしまい、そして並ぶ兵士越しに私を見た。


「かなり驚かせてしまったようだな」


「……ソフィヤ様がお許しになったとはいえ、多数の兵士をお部屋に入れるなど、あってはならないことでは」


「黙れ盗人。ここには国王の証を盗んだ犯罪者がいるのだ。それを捕らえるために兵士がいるのだ。それはソフィヤも理解している。……そうだな?」


 王女は薄く笑み、頷いた。……まさかこれは、王女が呼んだ兵士なのか? だとすると廊下に衛兵が一人もいなかったのは、私をこの部屋に入れ、確実に捕らえるため……それだけではない。私を王女に会わせ、証を自ら差し出させることも計算してのことだろう。つまり、王女にはすでに、王位を継がれるお気持ちなどなかった――


「ナザリー、あなたが証を盗んで逃げたと聞いて、私は本当に失望したわ。だってあなたは真面目で優秀で、そんな盗みを犯すなど考えられなかったから。とても残念よ」


 悲しげな表情を浮かべ、王女は私を見つめる。ソフィヤ様……私はあなたを悲しませるつもりはなかった。逆に喜んでいただきたくて証を――


「馬鹿な兵士を護衛に付けたものだな。側に置く者の人選は基本中の基本だぞ」


「これからは兄上を見習い、人を見る目を養うわ」


 態度が、まるで違う。以前はあれほど王子を非難していたのに……。口も利かず、お二人の仲は最悪だったはず。それがどうして……。


「ソフィヤ、今一度聞くが、証が盗まれたのはお前の指示ではないのだな?」


「何度も言っているでしょう。私は盗みの指示など出したことはないわ」


「本当か……?」


 すると王子は私に向き、その視線で聞いてきた。


「本当です。今回のことはソフィヤ様のご指示ではなく、私が、独断で行ったことです。私だけの罪なのです」


 そう言うと王女の表情は安心したようにわずかに緩んだ。


「だが、解せないことが一つある。証のしまわれている場所は父上に近い者しか知らないはずなのだ。それがなぜ護衛兵風情が知るところになったのか……疑問に感じないか?」


 何も答えない王女を、王子はじろりと見つめた。


「考えられるとすれば、何者かが場所を教えた以外にはないと思うのだが……?」


 王子の目を見つめ返しながら王女は言う。


「そうとは限らないのでは? ナザリーは独断と言っているのだから、事前に父上のお部屋へ行き、下調べをするくらいは――」


「それはあり得ない。父上の部屋には常に衛兵が立っているのだ。下調べなどできる時間はない。それに、見慣れない者がうろついているのに気付かないような兵士は、そもそもこの王宮には入れない。報告では、証が盗まれる前に部屋を訪れた者は、ソフィヤ、お前しかいなかったと聞いているが……?」


 王女は心外だと言わんばかりに目を見開いた。


「何を言いたいの? 娘の私が父上のお部屋を訪れて、何かおかしいとでも?」


「いや……だが盗人はお前の護衛兵だ。直接教えることも、それとなく伝えることも可能な距離だ」


 直接、それとなく――私が国王の証を手間取ることなく盗み出せたのは、王女とお話をしたからだ。王国の先行きを憂う会話の中で、証の保管場所を王女はお話しされたのだ。だから私はすんなりと手に取ることができた。王子のおっしゃったことは当たっている。私は、証のありかを王女に教えてもらったのだ。


 すると王子が私に聞いてきた。


「盗人よ。証がしまわれた場所はどのようにして知った? 知る者から教えてもらったのではないのか?」


「無駄な質問はやめてちょうだい。これはナザリーが勝手に行ったことよ。誰も関与はしていない」


 割り込んだ王女を王子は鋭くいちべつする。


「お前には聞いていない。……どうなんだ、答えろ」


 お二人の視線がこちらに注がれる。その王女の目は、まるで私を睨んでいるかのように見ている。ご自分が場所を話されたことを、王女はお忘れなのだろうか。確かにあれは証のお話をする中で何気なくおっしゃったようにも感じる。憶えておられないのも不思議ではないが……。


「多くの衛兵の目をかいくぐって証を盗んだのよ? しまわれた場所を探るのなんてナザリーなら――」


「静かにしていろ! 私は盗人に聞いているのだ」


 再び口を開いた王女を怒鳴ると、王子は険しい表情で私の返答を待つ。証をお渡しした今、最後にすべきことは、王女への誤解を解くこと――私は心を決め、言った。


「場所は、私が一人で時間をかけて調べました。誰の力も借りず、自分だけの力で……」


 これに王子は硬い表情でしばらくこちらを見続けていたが、ふとそれを崩すと口角を上げた。


「ふん、そうか。では今はそういうことにしておいてやる。……犯罪者を連れて行け」


 指示された兵士達が私を取り囲み、後ろ手にされた両手を縛り上げる。私は何も抵抗せず、それを黙って受け入れた。


「ちょっと待ってちょうだい。最後にお別れを言わせて。これまでナザリーは私のために働いてくれたわ。その感謝をしたいの」


 王女のお言葉に、私は呆然としながら、胸の中で静かに感激した。失望させてしまったというのに、感謝など……私にはあまりにもったいないことだ。


「好きにしろ。私は先に行く」


 用の済んだ王子は数人の兵士を連れて部屋を出て行った。それを見送ると王女は私に歩み寄る。


「さあ、どいて。すぐに済むわ」


 私を囲んでいた兵士達がひとまず離れ、部屋の隅へ行くと、王女は優しい微笑みを浮かべ、私を見つめた。


「ソフィヤ様……」


「ナザリー、こんなことになって、本当に残念だわ」


 そう言うと王女は細い腕で私を柔らかく抱き締めた。香水のほのかな香りと体温が私の肌に触れる。こんなことは当然初めてだ。そこまで感謝を示してくれるなんて――


「あなたなら上手くやってくれると思っていたのに……期待外れだったわ」


「!」


 耳元で聞こえた言葉に、私の背筋にはじわじわと冷たいものが流れた。その背中を王女はゆっくりと撫でながら続ける。


「しくじってくれたおかげで、私は兄上の顔色をうかがわなくてはならなくなった上に、王位まで諦めないといけないのよ……この責任を感じているのかしら?」


 身じろぎすらできず、硬直したまま私は言葉を聞き続けた。


「女王として権力を握り、やがては息子に王位を継がせる夢も潰れたわ。すべてを台無しにした罪はその命でも償えない。だから私はナザリー、あなたを永遠に許さないわ。私の計画も、人生も、めちゃくちゃにしておいて、感謝などすると思うの?」


 この人は、誰なんだ……私の知る王女ではない……。


「処刑される時まで……いいえ、された後も、堕ちた地獄で詫び続けなさい。その気持ちが私に届くことはないでしょうけど」


 王女は身を離すと、何事もない笑顔を浮かべ、私を見つめた。


「それでは、これでお別れよ。さようなら」


 私の肩に触れる手を名残惜しそうに引きながら微笑み、王女は踵を返して部屋を出て行った。それと入れ替わるように待機していた兵士達が私の腕をつかみ、歩かせる。廊下を出ると、遠ざかっていく王女の後ろ姿があった。私はそれを確認し、反対の方向へと連れて行かれた。今まで気付きもしなかった。理想と現実が、これほどまでかけ離れていたなんて。私は今まで一体、何を見せられ、信じていたのだろう――頭も心も乱されすぎて、今は何も考えられそうになかった。

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