八話

 ――あの日は、どしゃ降りの雨が降っていた。


 追っ手に見つかった私は、無我夢中で逃げ回っていた。一旦王都から離れても追っ手はしつこく、逃げて、逃げて、逃げ回るしかなかった。必死だった私は目の前に見えた峠道に逃げ込み、坂道を駆け上った。でもすぐに後悔した。雨でぬかるんだ道は滑りやすく、靴にまとわり付く泥は逃げ足を重くした。しかしそんなことに気付いても、もう引き返すことはできなかった。背後には追っ手の気配が迫っていたのだ。このまま駆け上るしかなかった。


 頂上の峠に着いた頃には、私は息を切らし、体力も限界に近かった。木にもたれ、暑いのか寒いのかよくわからない体をしばらく雨に打たせていた。早く先へ行かなければいけないのはわかっていたが、疲労と泥で重くなった足はなかなか動いてくれなかった。そんな状態では追い付かれるのも当然だった。


「おい!」


 男の声に私は反射的に駆け出したが、自分でも驚くほど足は動かなかった。その間に現れた追っ手はこちらに近付こうとしたが、それを私は咄嗟にナイフで牽制した。


「これ以上逃げても無駄だ。大人しく投降しろ」


 剣を片手にそう言ってきた追っ手を見て、私は少し驚いた。


「……イオシフ・パーレンか……?」


 目の前の男は、二年ほど前に除隊した元同僚に違いなかった。


「もう兵士じゃないあなたが、どうして私を追うの? そんな理由などないだろう」


 除隊した彼はすでに王国軍との関係はなく、指示命令を受ける立場にもないはずで、私は疑問に思った。


「お前を捜してた友人達から応援を乞われたんだ。馬鹿なことをした元同僚を一緒に捜してくれないかとな。……国王の証を盗んだそうだな」


 パーレンはすべてを知り、私を追って来ていた――そう。私は王族にとって最も大事な、国王の証を盗んだのだ。それは初代国王から受け継がれているという黄金の紋章で、王位を継ぐ者がその証として渡される、とても重要なものだ。それを私は盗んだ。お仕えする王女のため、ひいてはこの王国のために。


「どうしてそんなことを……ただじゃ済まないことくらいわかるだろう」


「部外者のあなたには関係ない」


「ソフィヤ王女の指示なのか?」


 私は黙り、答えなかった。


「……どうであれ、お前のしたことは重罪行為だ。王政にも多大な影響を及ぼしかねない。証は手にするべきお方の元に――」


「それはどなただというの? ユーリー王子?」


「大勢は王子と言われているそうだ。多分それは変わらないだろう」


「それはあなたの願望でしょう? あなたは王子の護衛兵だったから」


「それを言うならお前も同じことだ。王女のお側に付き、心もそこにある。国王になられたお姿を拝見したいと願っているのはお互い様だ。だが俺は証を盗むなど、愚かな真似をしてまで拝見したいとは考えないが」


「窃盗は罪だ。正当化するつもりはない。だが私が証を盗んだのは、王女こそが国王にふさわしいと思ったからだ。悪いが王子の元では、この王国は悪い方向へ進んでしまう」


「それを判断する権限は俺達にはない。どんなに不満があろうと見守るしかないんだ。願い通りにならないからって、力尽くでねじ曲げることは許されない」


「それでも、王位を継ぐべきは王子じゃない。ソフィヤ王女だ。あのお方は王国の行く末を常に憂いておられた。王女以上に国王の器を持たれるお方は他にいない」


「まるで王女を神のように慕ってるんだな。何を言っても無駄なのか……」


 うなだれるパーレンに私は聞いた。


「除隊して、今は静かに暮らしているのでしょう?」


「……ああ。故郷の小さな街で、駐留する兵士に武術を教えたり、荷運びの護衛なんかをしてる」


「あなたの新たな生き方を壊したくはない。今すぐ引き返してくれ。でないと血を流すことになる」


 元同僚と刃を交えるのは正直気が引けた。互いの手の内を知るわけだし、それ以上に切磋琢磨した仲間だったのだ。敵対しても、心から敵とは思えなかった。だから私は彼が自分の生活を優先し、手を引いてくれることを願った。


 しかしパーレンは苦笑いを浮かべると、緩く首を横に振った。


「俺はもう兵士じゃないが、そんな任務放棄みたいなことはできない。お前を見つけたからには、絶対に証を渡してもらう。見逃すことはできない」


「私と、戦うの?」


 ナイフをゆっくりと構え、聞いた。だがパーレンに右手の剣を構える様子はなく、その表情は困惑していた。


「……こっちの思いもわかってくれ。俺だってお前を傷付けたくはないんだ。かつては仲間だった相手と切り合いなんてしたいと思うものか。そんな覚悟があれば、お前に声なんかかけず、黙って切り付けてたさ」


 するとパーレンは握っていた剣を、おもむろに腰の鞘に戻した。


「……何のつもりだ」


「俺に戦う意思はないってことだ。だから頼む。大人しく証を渡してくれ。手荒なことはしたくない」


「渡して、何もかも終わらせろと言うのか」


「まだ終わらない。罪を償えばいい」


「無知な子供じゃないんだ。自分がどうなるかくらいわかっている」


「それなら、証を盗んだ時点でもわかっていたはずだろう」


「ええ。もちろん覚悟の上だ。知られれば、この命はなくなると……。でもその場合、終わるのは私の命だけだ。ソフィヤ王女が王位を継がれる望みは残される」


「どういうことだ」


 私はわざと不敵に笑って見せた。


「教えておく。私は今、証を持っていないの」


 パーレンは鋭い目付きでこちらを見つめてきた。


「……嘘だ」


「そう思うのなら、剣や拳で奪ってみればいい。その途端、私は後ろの崖から飛び下りる。そうしたら証の行方は一生わからないままだ……」


 背後に迫る暗く何も見えない崖にちらと視線を送り、私は少しだけそちらへ足をずらした。身投げもいとわないという態度を見せると、パーレンは眉間にしわを寄せた。


「お前が死んだら、証は誰の手にも渡らなくなる。王女の手にも……それじゃあ死ぬ意味がない」


 私はあえて何も答えず、不敵に笑い続けた。そうすることで勝手に想像してもらうことにした。


「……仲間が、いるのか?」


 今回のことを知る仲間など、私にはいない。だがそう考えたパーレンに私は意味ありげに笑いかけた。


「どうする? 私を捕らえて拷問にかける? そんなことをすれば舌を噛み切ってやるけど。それとも、私に身投げさせて、居場所も人相もわからない仲間を捜しに行く?」


 仲間ははったりだが、証を持っていないのは本当だった。証はある場所に隠してきたのだ。つまり、ありかは私しか知らない。私を殺せばもう誰も見つけることはできない――それがこの追い詰められた状況から抜けるための、最大の武器だった。私が死ねば、証は届けられない。それだけは絶対に避けたかった。だからパーレンを躊躇させ、どうにか逃げ道を見つけるつもりだった。


 しかし、そう思惑通りにはいかなかった。


「……やはり、嘘だな」


 こちらを疑い深く見ていたパーレンは、おもむろにそう言った。


「余裕ぶってはいるが、その笑いに緊張が滲んでる。嘘がばれたくないってな」


 言い当てられたことに動揺が出ないよう、私は必死に表情を保った。


「あなたの眼力も大したことがない……手を出せば、後悔することになるぞ」


 じりじりと後ろへ下がり、私は崖へと近付いた。こうして牽制するしか方法がなかった。


「お前の嘘を信じるほうが後悔する。……証を渡せ。俺に何もさせないでくれ」


 今も証を持っていると思ったパーレンは、私の態度にもためらいなく近寄ろうとしてきた。


「証は持っていないと言った」


「わかってる。大人しく渡してくれ」


 何もわかってなどいない。私の言葉はすべて嘘だと決めたようだった。結局最後は、こうなるのだ……。


 私はナイフを構え直し、崖際へと下がった。ぬかるむ足下に気を付け、パーレンを睨み据えた。動きならこちらのほうが機敏なはずで、脇をすり抜けることもできそうだった。


「……やるなら、仕方がない」


 残念そうに言った隙に、私は動いた。泥を蹴り、素早く脇を抜けようとした。だがパーレンも同時に動いていた。反射的に伸ばされた手は私の服をつかみ、走り出した体を強く引き戻した。


「渡さないなら、力尽くで奪わせてもらう!」


「私を丸裸にする気か?」


「必要ならな!」


 パーレンは私が背中に背負う革のかばんに手をかけようとする。


「触るな!」


 その手目がけ、私はナイフを振った。だがすぐに腕をつかまれ、ナイフでの攻撃を封じられた。すぐさま反対の手で殴りにかかったが、それも止められ、私はパーレンに両手をつかまれた状態になった。すると側にあった木にパーレンは私を押し付け、つかんだ両手ごと首を圧迫しようとする。失神させてから証を取るつもりなのだ。


「負ける、もの、か……!」


 私は歯を食い縛りながら、静かに片足を上げると、パーレンの腹を思い切り蹴り飛ばした。


「うぐっ……」


 不意打ちになったのか、私から手を放したパーレンは数歩後ずさり、腹を押さえた。反撃するならここしかなかった。ナイフを握り直し、私はうつむくパーレンに切りかかった。だが直後、顔を上げたパーレンは迫るナイフを見ると、動きを読み、私のその腕を弾き、かわした。


「くっ……」


 ナイフこそ落とさなかったが、弾かれた勢いで私の態勢は崩れ、足が止められた。そのまますぐに攻撃を始めようとしたが、その隙をパーレンは逃さなかった。振り上がった拳がこちらの顔を狙っていた。それに気付いた私は両手で防ごうとしたが、勢いと力のある拳は私の全身を弾き飛ばした。


「うっ――」


 ゴンッと鈍い音が頭に響き、思わず声が漏れた。弾かれた全身は木に打ち付けられ、それと同時に後頭部も強打した。強烈な痛みを感じながら、目の前に見えるものが揺れて暗くなっていく――朦朧とする意識の中でも、打ちどころが悪かったかもしれないという冷静な気持ちがあった。そして、捕まってしまうという恐怖も。


 木に背中を預けながら、力が抜けた私はずるずると泥の地面に倒れ込んだ。暗い視界には目の前でかがみ、こちらを見るパーレンがいた。


「探らせてもらう」


 そう言ってパーレンは私に手を伸ばす――捕まるわけにはいかないという、ただその気持ちだけだった。私は残された力でパーレンの手を払うと、寝返りを打つように、崖のほうへごろんと一回転した。


「はっ……!」


 パーレンが驚き、慌てて手を伸ばす姿が一瞬だけ見えた。転がった私の体は泥の滑りを借りて、真っ暗な崖の斜面を転がり落ちていった。何か硬いものに何度かぶつかったところまでは意識はあったが、憶えているのはそこまでだった。その時の痛みや、崖の底でどうなったのかはわからない。だが、なぜ首飾りが崖に引っ掛かっていたのかはわかった。


「私は、あなたから逃れるため、自らここに落ちた。この首飾りはその時に切れて引っ掛かったのだろう……」


 私は手元の首飾りからパーレンへ視線を向けた。


「ずっと、騙すつもりだったのか? 記憶を思い出すまで……」


 パーレンは残念そうに薄く笑った。


「まあ、そうだな」


「目的は国王の証だろう? なぜ捕らえず、協力するふりなどした」


「お前の言ってることが、どうやら本当だと思ったからだ。……突然現れた時は心底驚いたよ。崖に落ちた後、俺はお前を必死に捜したのに、まさかそっちから来てくれるとは思いもしなかった。だからてっきり俺を殺しに来たのかと思った」


 パーレンを訪ねた時の、あの警戒した様子は、そういうことだったのか。


「だがお前は敵対心を見せるどころか、記憶がないから助けてほしいなんて言ってくる。最初はふざけた芝居としか思えなかった。何かたくらんでるんだと。しかしお前の話す様子は真剣で、芝居には見えなかった。そうじゃないとしても、こんなことを頼んでくる意図がわからず、少し探ってみてもいいかと思い、お前の頼みを受けたんだ」


 元同僚のよしみで親切にしてくれたのではなかった。私への警戒心と、国王の証を奪うためだった……。


「でもあなたは私を完全には信じていない。証を持っていないことも信じなかった。強引に奪おうとは思わなかったの?」


「記憶があろうとなかろうと、お前にそんな真似をした途端、また逃げられるだろう。それに、お前が証を持ってないことはすでに確認済みだ」


「え? あなたに証について直接聞かれたことなど……」


「聞いたんじゃない。探らせてもらった。お前が俺の家でぐっすり眠ってる間にな」


 思わずはっとした。宿ではなく、自分の家に泊まらせたのは、私の持ち物を探るため……自分の家なら忍び込むのも容易だ。それを狙ってのことだったのか。


「証がなかったことで、俺はお前の言葉を信じられた。本当に、どこかに隠したのかもしれないとな。しかしお前は自分の目的まで忘れてた」


「それだけじゃない。あなたが追っ手だったこともだ。だがここに連れて来られて、そのすべてを思い出した……ここに案内したのは間違いだったな」


 これにパーレンは口角を上げた。


「いいや、これでよかったんだ。お前は目的を忘れ、証のことも忘れてた。思い出してもらわなきゃこっちも探しようがない。できれば証のありかだけを思い出してもらいたかったが、そんな都合よくいくわけもない。だからこの結果は望み通りでもある」


「望み通り? 私があなたに隠し場所を教えるとでも思っているの?」


「重要なのは、お前が記憶を取り戻したってことだ。俺の役目としては、あとは捕らえて吐いてもらうだけだ」


 するとパーレンはおもむろに片手を振った。直後、周囲の茂みががさがさと音を立てたかと思うと、そこから数人の男達が姿を現した。

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