投影

第七話 – 抵抗

「何回目かしら?」


 目の前に転がる二体の肉の塊を前に私は一人自問する。肉体から滲み出る赤黒い液体がゆっくりと地面を侵食し、私の足元に向かって歩みを進め、それがつま先に到達するとぬるくむず痒い感触を伴って足裏を通り過ぎていく。血のワックスがけが施されたフローリングは異彩な光沢を放ってまるで私を誘惑するかのようになまめいている。

 

 私の意思が、身体が、細胞が、この赤い液体を求めてたぎる。


 私はその場に座り込んで滲み出る血を両手ですくい、微かに手に広がる震えによって生じた波紋をじっと見つめる。


––––あぁ、渇く。渇く。


 私は洗顔するようにこの赤い水で顔を擦り、私を創り出した者たちで潤いを得ようとする。


 しかし、足りない。


 私は足りない血を補うために手首に噛み付いて大量の血を生み出す。ボタボタと傷口から重苦しく落下し、三種類の赤の絵の具が混ぜ合わさっていく。ドロドロとした3種の液体がその均衡を探っている様子を見ながら私の意識は朦朧もうろうとしていく。


––––ドンドンドンドン


 いつものようの鳴り響く四度のノック音。その扉を囲むように存在する無数の手が私の身体をきつく締め付ける。首にかけられた手は徐々に力を増していき、やがて私は呼吸ができなくなる。


 重量感のある音を響かせながら開く扉に引き摺り込まれる私。暗闇の鏡面に映るもはや人間とは形容しがたい自分の姿。闇の触手が私を連れて行く先には2人の少女。一人は私と同じように褐色の肌、もう一人はそれとは正反対に雪のように真っ白な肌。私は両手首から止めどなく流れ続けていた血液を白肌の少女の顔面に塗り込んでいく。

 少女に付着した私の血はまるで意思を持っているかのように彼女の顔全体へと広がっていき徐々に全身へと巡っていく。やがて少女の純白の肌はもう一人の少女や私と同じような褐色へと変化し、二人は爛爛らんらんと目を輝かせながら私に話しかける。


「お帰りなさいませ、お姉さま」

「お帰りなさいませ、お姉さま」


 私の理想通りな双子へと昇華した二人を愛おしく抱き締めながら口付けし、ゲラゲラと笑いながら視線の先にいる「どうして」と泣き叫ぶ女を見つめる。 


「私は私になれる。そしてあなたにも」



「え、ハル、あんた何で泣いてんの?」


 私の前の席から身体ごとこちらへ向けて千夏ちなつがキョトンとした顔で私に尋ねる。彼女とは私が五歳の頃に東京から引っ越してきて以来の仲だ。


「あ、いや、えっと……花粉かな?」


 私は慌てて頰に溢れた一筋の涙を拭い取って作り笑いを浮かべながら答える。「この時期に?」と言いながら千夏は少しばかり眉間にしわを寄せて疑問の表情を浮かべる。それを見て私は右手を左右に振りながら「本当に大丈夫だから」と念を押すと、彼女は「そう?」と完全には納得している様子ではないもののそのまま話を始める。

 千夏が同じクラスにいるということは高二か高三の時か。いや、実際にはここの席に座った瞬間、千夏の姿が目に飛び込む前から私が今いるのは高校二年生の夏頃だと気付いていた。


––––彼がいるから。


 私は千夏の話を適当に聞きながら時折、視線を左の方へとやって既にスケッチブックを閉じて友人と談笑している彼を観察していた。私が彼と同じクラスになったのは高二の時。そして私は今日のこの瞬間を鮮明に覚えている。

 廊下側1列目の最後尾に私は座り、彼は校庭側八列目の一番後ろの席に座っている。私たちのクラスは四十一人が在籍していた。一列目には六人が座り、それ以降の二列目から八列目には五人ずつが着席する。それで私は少し後ろの角度から彼の様子を見ることができるのだ。


 当時、私が彼のことを気にしていたのには理由があった。


「無理よ、そんなの」


 この日の前日、私は母にケント音楽大学への留学相談をしたところでこの言葉をぶつけられていた。一般的なサラリーマン家庭である自分たちにとって海外留学、それも音楽留学となるとお金がいくらあっても足りない、というのが母の言い分であった。高校当時、英語が永遠と羅列される大学のホームページに圧倒されていた私は奨学金制度のことすら見つけられていなかったため、母になす術なく言い負かされた。

 

 部屋に戻って脳裏に浮かんだのは毎日後ろの席でスケッチブックを開いて絵を描いていた彼の姿。私は気付いていたのだ。彼の挙動や絵に変化が表れていたことに。

 彼と初めて同じクラスになったのは中学一年生の時。その頃の彼は教科書やノート、配布されたプリントの端に流行っていた漫画やアニメのキャラクター、時には自作のキャラクターを描いては友人に見せてよく笑っていた。美術の課題でもちょこちょこそういった、いわゆる漫画絵を描いては先生から呆れられていた。


「お前、絵上手いなぁ」

「そのキャラ、先週の話で封印されたったい。多分強過ぎて退場させられたっちゃん。女子人気も高いとになぁ」

「おい、単行本派に対するネタバレ止めろや」


 それ以来同じクラスになった高校二年生当初、彼の周りにはクラスの友人が数人集まり、アニメや漫画の話で盛り上がっていた。私は相変わらずだな、と思いながら大して気に留めていなかった。

 しかし、少しして席替えで隣になってから私は彼の様子に違和感を覚え始めた。彼は窓から見える景色や廊下、時には何だか大人びた表情でクラスを見回していたからだ。また、それまでは頬杖を突きながら片手間に絵を描いていたものの、両手で周りから見えないように隠しながら描くことが増えていた。

 少し興味を持った私は声をかけて彼の手をどかせようと試みたが、彼は必ずスケッチブックを閉じて私に応答する。それでも消しゴムを拾ってもらった際に初めて見えたそのクロッキー用紙には余白とシャープペンの芯から生み出された白黒の、髪の毛の短い女の子が席に着いていた。


––––私?


 いや、と消しゴムを受け取りながら反射的に否定する。驕るな、私なわけないだろう。あんなに綺麗なはずが。しかし、否定すればするほど、絵の中で儚げに自分の指を見つめているその女の子が私に思えてくるのだ。もし、もし本当にあの子が私ならば……彼には私がどう映っているのだろうか。

 そしてもう一つ。私は彼が芸術系の道に興味があるのだと感覚的に確信した。これまでにない絵柄への気恥ずかしさから絵を隠す動作もだが、彼がそうした姿勢で描いている時の眼差しが、分野は違うといえど自分が音楽と向き合っている時のそれと同じように感じたのだ。

 私はいつしか彼に自分を投影するようになった。彼はこのまま続けてくれるのだろうかと。そしていつしか私は彼に惹かれていったのだ。


––––え?


 私は突然、制服姿のまま宙に投げ出された。そしてそのまま硬いコンクリートへと衝突し、背中からの激痛がそのまま全身へと駆け巡った。眼前には私を見つめる無数の目玉。そしてノック音が際限なく鳴り響く。


 おかしい。私は死ぬはずないのに。あと数年は生きられるはずなのに。私は運命に抗いにきたはずなのに。


「ねぇあなた、運命に抗ってみない?」


 異形の女の言葉が私に降り注ぐ。あはっ、あはははは。そうか、笑える。抗ってるじゃない運命に。



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