扉は四度叩かれる

セラム

第一話 – 渇き

「私……私は、三ヶ月後には渡米してケント音楽大学に入学して……それで……それで……」


 漆黒の闇に包まれた空間にただ一人、顔を両手で覆いながら膝を崩して泣きじゃくる女性。身体の底からじんわりと沁み渡る凍てつく空気と硬い無機質な暗黒の地面は彼女の精神をさらに追い込む。周囲には無数の大きな目玉が瞬きせずに彼女をじっと見つめて得体の知れない不気味さを醸し出し、その凝望ぎょうぼうは彼女の中の羞恥を掻き立てる。


「それなのに……どうして……どうして!」


 静寂の中を女性の悲痛な叫び声が切り裂く。


––––ボウゥ


 突如、女性の眼前に木製扉が出現すると、キイィと耳をつんざくような音を立てながらゆっくりとそれは開かれる。扉の向こうは音も臭いも視界も潰えた広大な闇。その闇の一部が液体となって切り取られ、楕円状に浮かび上がると徐々に人型へと変形していく。しばらくすると深い闇とは対照的な銀色に輝くショートヘアをなびかせながら、緋色の瞳、褐色の肌に先の尖った耳を持った、明らかにヒトとは一線を画する一七〇センチほどの女性が形作られる。彼女は長袖の黒いショートドレスに身を包み、肩と袖のレース部分からはそのきめ細やかな肌が露出している。


「ねぇ、いつまでそのまま泣いているつもり?」


 なおも泣き続ける女に向かって放たれたその芯に響くひんやりとした声には呆れと蔑みの感情が内包する。


「だって……もう私は……。あんな目に遭ったのならもう……」


 やっとの思いで絞り出されたかすれ声を聞いた異形の女は大きく目を見開き、小さく呟く。


「へぇ……覚えているの」


 すると女の両脇に小さな扉が現れ、その中から異形の女と姿形そのままに髪の長さは腰まで、身長は異形の女の肩にも満たないほどの二人の少女が奥の闇からゆっくりと歩いてくる。


「レアものよ、お姉さま」

「レアものよ、お姉さま」


 二人の少女は泣く女を指差しながら口々に告げる。


「あぁ、私の可愛い、可愛い双子たち。あなたたちは何て愛らしいの」


 異形の女は先ほどの泣く女に対して投げかけた冷たい声質とは打って変わって甘く妖艶な声で双子に話しかけると二人を抱きかかえてそれぞれの頰に口付けをする。双子もそれに応じ、同時に女の頰に口付けし返す。二人の愛をしっかりと堪能した後に異形の女はもう一度泣く女に話しかける。


「ねぇ、どうして泣いているの? 教えてちょうだい」


 異形の女は泣く女の頬を両手で覆い、涙で汚れた顔面を自分に向けさせる。


「汚い!」

「汚い!」


 双子は女の顔を見るなりそう叫び、手で目を隠して視界に入らないようにする。


「アメリカのニューヨークにあるケイト音楽大学にやっとの思いで行けることになったの……! 就職して三年間お金を貯めて……今年、四回目の挑戦でようやく得た全額奨学金と貯めたお金を生活費に充てて、八月に渡米して夢にまで見た音楽生活が始まる予定だったのに、それなのに……!」


 過呼吸にも近い状態から紡ぐその言葉を聞くと異形の女はゆっくりと泣く女に近付いて背中をさすりながら妖しげな声色で「それで?」と続きを促す。


「はかた駅前通りの横断歩道を渡っていたら……そしたら……突然車が……」


 すると女の身体はガタガタと震えだし、両手で頭を覆って小さくうずくまる。


「(あぁ……全部覚えてる)」


 車が眼前に迫るその圧力と恐怖、弾かれた瞬間の鈍い痛みと身体の奥底に響くグシャッという不快な音色。宙を舞った後、地面に衝突した瞬間の二度目の激痛。


「うっ……おえぇ……」


 自身の脳内になだれ込む死の瞬間の記憶。耐えきれなくなった女はその場で嘔吐し、さらに呼吸のペースが上がると苦しそうに両手を地面につく。


「汚い!」

「汚い!」


 再び双子は私に罵声を浴びせ、ゴミでも見るような目で女を辱める。


「残念ねぇ……」


 言葉とは裏腹に素っ気なく言い放ったその声色は悲しみにくれる女を冷たく突き放す。

 すると女を見つめる無数の大きな目玉の下から扉が現れ、その向こう側からドンドンドンドン、と四つの音を一セットにしてノックする音が何度も響き渡る。ノック音は徐々に激しさを増し、暗闇を木霊してミニマル音楽のように広がっていく。

 それを見た異形の女はクククと不気味に笑うとうずくまる女に向かって「ねぇ、あなた」と優しく声をかける。


「何か聴こえてこない? あなたの好きな音楽が……」


 女は嗚咽交じりに顔を上げ、ところどころ顔面に模様が施されている異形の女を見てその美しい瞳に吸い込まれそうになりながら耳に意識を集中する。


「(これって)」


 女の専門はジャズミュージック。しかし、彼女の中で流れ始めたこの音楽は、クラシック音楽が専門でなかろうとも、いや、音楽を専門としていなくとも誰もが耳にしたことのある音楽である。


「運命」


 異形の女と同時に"運命"という単語を呟く。


––––交響曲第五番『運命』 ベートーヴェン


「ねぇ、知ってる? 冒頭の四つの音は何を示すのかという質問に対してベートーヴェンは何と答えたか」

「……」


 沈黙する女に対して異形の女は嘲笑し、その答えを告げる。


「このように運命は扉を叩く」


 その言葉を聞いた女は周囲に浮かぶ無数の扉を見渡す。


「ねぇあなた、運命に抗ってみない?」


 異形の女はそう言うと手を伸ばして女の頰を伝う涙を上から下へと拭い、唇をなぞった後に白く細い顎に触れる。この一連の動作は実に流麗で美しく、明らかに人間とは出で立ちの違う、褐色肌の女に彼女は見入ってしまう。


「んむっ」


 女は突然口を塞がれ、舌先をねじ込まれる。自身の口内で繰り広げられる遊戯に彼女の感覚は徐々に麻痺し、その甘美な刺激が全身を駆け巡る。

 

「応えるのよ」


 異形の女が絡めていた舌をほどいて唇を離すとそれを追うように女の顔が動く。それを異形の女は人差し指で制するとそのままグイッと押し込み、二人の背後に広がる扉たちへと誘導する。それまでずっと鳴り続けていたノック音は忽然と消え、しんとした静けさと闇が合わさって"無"が生み出される。


「さぁ、目を閉じてどの地点に戻りたいかよく考えて」


 女は言われた通りに目を閉じ、はかた駅前通りの信号で待つ自分を思い浮かべる。


––––ドンドン


 扉の一つからノック音が鳴り響く。その扉はぼうっと赤くおぼろげに輝き、女はそれに吸い込まれるようにドアノブに手をかける。


「行っておいで。運命はあなたをからめとる」


 扉を開くと、光をも取り込んでしまうほどの闇。女は導かれるようにその漆黒へと足を踏み入れ、やがて姿を消す。


––––キキイィィィ


 赤信号でありながら猛スピードではかた駅前通りを横断した白いセダン車は1人の若い女性を勢いよくはじきとばし、辺り一面を血の海に染め上げる。



「趣味が悪いのね、渇きし者サースティ


 渇きし者サースティの褐色の肌とは正反対の真っ白な肌に、それをより際立たせる金色こんじきのロングヘア。白いロングワンピースをひらつかせながら渇きし者サースティと双子の少女たちの方へとゆっくりと裸足で近付く。


「先手番は私よ、案内人グイード

「そうだ!」

「そうだ!」


 双子も同調し、案内人グイードに向かって舌を突き出して挑発する。その様子を笑いながらしばらく見つめた後に渇きし者サースティは呟く。


「ケヒッ……ケヒッ……ケヒヒヒッ……。日本の死人はこの曲を引き合いに出すと簡単にその気になる」

「お姉さま頭いい!」

「お姉さま頭いい!」


 渇きし者サースティは双子を自分の胸へと抱き寄せると頭を優しく撫でる。


 日本においてベートーヴェンが作曲した交響曲第五番は『運命』という名称で親しまれているが、これは一般的ではなく、また、通称であって正式な命名ではない。



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