七話

 キャスバートがヨーヌ村に移り住んだのは六歳の頃だった。親戚を頼り、両親と三人でやって来た。家業は牧畜で、狭い敷地ながら牛を育て、その牛乳やチーズ作りで生計を立てていた。それらの味は村人達に気に入られ、両親は村の一員としてすぐに受け入れられた。しかし、子供の世界はそうすんなりとはいかなかった。


 ヨーヌ村には多くの子供がいたが、気弱な性格だったキャスバートは積極的に声をかけることができずにいた。それでも友達を作りたいと、思い切って声をかけるが、相手のことを気にし過ぎて会話が続かず、その相手は離れていった。両親に遊びに行っておいでと言われても、キャスバートには遊ぶ友達ができず、村をぶらりと見て回るだけで最後は結局、牛の世話の手伝いしかすることがなかった。


 村の子供達は、そんなキャスバートをよそから来た暗いやつだと横目で見るだけで、一緒に遊ぼうとはしなかった。遠目から輪に入りたそうにたたずんでいるキャスバートを見つけても、声をかける者はいなかった。それどころか邪魔だと言って追い返す始末だった。強く言われると何も言えないキャスバートは大人しく帰るしかなく、しかし皆と友達になりたい気持ちは、翌日にまた同じ場所に足を運ばせた。追い払っても何も言わず再びやって来る相手に、子供達の対応は次第に悪いほうへと変わっていった。最初は無視したり怒鳴ったりしていただけなのが、わざと肩にぶつかってみたり、服を引っ張ってつまずかせてみたり、仕舞いには追いかけ回して砂や泥水をかけるいじめに変わっていた。それに少しでも抵抗を見せればまだましだったかもしれないが、キャスバートは恐怖に黙り、逃げることしかできなかった。その様子を子供達は面白がり、いじめはさらに激化しようとしていた。


 それを止めに入ったのが、偶然通りかかったシシリーだった。泥だらけで追いかけ回されているキャスバートを見て、すぐにいじめる子供達に詰め寄ったのだ。彼女が司祭の娘であり、物怖じしない性格だと知る子供達は素直に引き下がり、キャスバートはどうにか助けられた。それがシシリーとの最初の出会いだった。


 いじめはその後も続き、キャスバートは辛い日々を送っていたが、気にかけるシシリーによって何度も助けられていた。だが彼を助けるシシリーまでいじめの標的になってしまい、キャスバートは申し訳なさを感じ、もう助けなくていいと言った。しかしシシリーは辛い顔も見せず、キャスバートをかばい続けてくれたのだった。


 そんな時、いじめていた子供の一人が森で動けなくなったと聞いて、シシリーはキャスバートと共にそこへ向かった。正直、キャスバートは自分をいじめる者などどうでもよかったのだが、シシリーに来てと言われては行かないわけにはいかなかった。森に着くと、そこには足に傷を負った子供がいた。痛みに泣き、自力では歩けそうになかった。六歳では応急手当の仕方もわからず、皆がおろおろする中で、シシリーだけが冷静に対応した。傷で歩けないのなら、全員の力で村まで運ぼうと言い、泣く子を背負ったのだ。体が大きいわけでも、力があるわけでもないシシリーが同じ背丈の子を踏ん張って背負う姿に、皆は唖然としながらも、その心を揺り動かされた。キャスバートも、自分達にひどいことをしたやつをなぜ助けるのかと思ったが、シシリーの偏見のない行動に、自分も助けなければと自然と思い、その子を背負う役を自ら申し出た。そうして皆で協力しながら怪我人を村へ無事運ぶことができ、シシリー達はその子の両親から感謝されたのだった。


 この出来事がきっかけとなり、キャスバートといじめていた子供達の間には理解と親しみが生まれ、以降、いじめられることはなくなった。結局のところ、会話もまともにせず、互いを知ろうとしなかったことが悪い関係を作ってしまったのだ。避けられていたキャスバートも会話に慣れてくれば、皆と変わらず笑って話すことができた。いじめっ子は今や友達となり、キャスバートの日々は明るさを取り戻した。そこへ導いてくれたのは、紛れもなくシシリーだった。シシリーから受けた大きな恩は、キャスバートの胸に深く刻まれたのだった。


 十代になると、家業の手伝いで友達と遊ぶ時間は半減したが、それでも変わらず声をかけてくれたのはシシリーだけだった。無理だろうとわかっていても、必ず食事や遊びに誘ってくれた。そうして今も気にかけてくれていることがキャスバートには嬉しかった。なので時間ができた日は迷わずシシリーの誘いを優先した。彼女と一番仲のいいハリエットも交え、三人で遊ぶことが多くなり、心身が成長するにつれ、キャスバートの心には以前とは違う変化が起き始めていた。


『シシリーのこと、好きでしょう?』


 ある時、ハリエットにそう指摘され、キャスバートは否定できない自分に気付いたのだ。そして今、シシリーに恋をしているのだと知った。ハリエットによると、態度でばればれだという。シシリーとは長く視線を合わせられず、挨拶で抱き合う時はいつも動きがぎこちなくなるという。それらはすべて無意識でのことだったが、恋心を意識した今はただ恥ずかしく、キャスバートは赤くなりながら否定した。告白しないの? とも聞かれたが、同じように否定し続けるしかなかった。もし気持ちを伝えた場合、シシリーがどんな反応をするかも怖いが、何より恐ろしいのは、断られて気まずくなることだった。きっとシシリーはキャスバートの気持ちを知ったところで、気まずくなっても笑顔で接し続けてくれるだろう。だがそれはシシリーだからできることなのだ。もし振られれば、キャスバートは友達としても顔を合わせられなくなる。そうなるのなら、今のままでいたほうがいい――それが、気弱なキャスバートが選んだ選択肢だった。


 しかし、それは今となっては後悔でしかなかった。


 片想いは数年続き、二十歳になった年にそれは突然聞かされた。シシリーが結婚する――キャスバートにとってはそれだけでも驚いたが、相手が領主だと知り、さらに気持ちはざわめいた。陰で死神と呼ばれるほど、殺人の疑惑を持たれている男なのだ。その妻になった者は皆亡くなっている。そんな相手と結婚するなど、キャスバートには考えられなかったし、認めたくもなかった。だがシシリーの意思は変わらず、幸せを祈って送り出すしかなかった。


 村からいつもの笑顔の姿が消え、キャスバートは離れた場所で暮らすシシリーに想いを馳せた。心配でたまらなかったが、それでも無事に、ささやかでも幸せになってくれていれば、キャスバートの気持ちも少しは静まったのかもしれない。しかしそうはならず、むしろ心配は増していた。


「……もういいじゃない。気にし過ぎなんだってば」


 木製の柵に寄りかかった姿勢で、ハリエットはうんざりした口調で言った。


「でもハルだっていたんだから、感じただろう? 領主様の態度で」


 キャスバートは小屋の中で牛のための敷藁を敷きながら言う。


「まあ、確かに少し冷たく感じたけど……」


「少しじゃないよ。かなりだ」


「だけど、あれだけでシシリーがひどい扱いを受けてるかなんて決められないわ」


「どうして? シシリーは領主様と話せる時間もないみたいだし、家事仕事を一人でやらされてるんだ」


「それは、やりたいからやってるって言ってたじゃない。強制じゃないって」


 キャスバートは鼻を鳴らした。


「ふん、どうだか……シシリーは優し過ぎるから、領主様の意をくんで嫌々やってるのかもしれない」


「嫌々って感じには見えなかったけどな」


「じゃあ幸せそうだった?」


「そう、言われちゃうと……」


 ハリエットの声は尻すぼみになる。


「ほら、やっぱりハルも僕と同じように感じてたんじゃないか」


「同じっていうか、ちょっと無理に笑ってるところはあったと思うけど……だからってシシリーが辛い目に遭ってるとは言えないでしょう?」


 足下の敷藁をならし終えると、キャスバートはハリエットを見据えた。


「それって、無理に笑わなきゃいけない理由が、シシリーにはあるってことだろう?」


 ハリエットは難しい顔でうつむく。


「私達に本音で言えないことが、あるっていうの?」


「わからないけど……ただ僕には、幸せそうには見えないんだよ」


 結婚は大きな幸せの一つのはずだ。それを祈り、見送ったのに、再会したシシリーにそれを感じることはなかった。キャスバートの片想いは今も続いているが、何も嫉妬から疑っているわけではない。彼にとってシシリーは恩人でもあるのだ。想いを伝えることはなくても、自分よりは幸せになってもらいたいと強く願っていた。そうならなければおかしいとさえ思っているほどだ。だから余計に疑り深くなる。シシリーの笑顔の裏に隠された気持ちは何なのかと。


 薄曇りの空が広がるある日、キャスバートはヨーヌ村にはない日用品を買うため、遠くメートンの町までやって来ていた。数ヶ月ぶりに来た町の様子は相変わらず賑わっており、真夏の日差しが陰っている今日は人出も多かった。商店の並ぶ通りを一通り見て行き、目的の日用品を買い終えてぶらぶらと歩いていた時だった。


「キャスバートも買い物?」


 不意の声に振り向くと、そこには買い物かごを提げたシシリーがいた。


「……シシリー! すごい偶然だね」


 目を見開いて驚くキャスバートに、シシリーは微笑む。


「ええ、本当に。……もう買い物は終わったの?」


 キャスバートの荷物を見てシシリーは聞いた。


「あ、うん。さっきね。シシリーは?」


「私も終わって、これから帰るところ。他に用事がなければ、一緒に帰らない? 同じ道だし」


「そうだね……じゃあ、一緒に帰ろうか」


 久しぶりの町をもう少し見て回るつもりだったキャスバートだが、シシリーにこう言われては断れず、早めに帰路につくことにした。


 町の喧騒を後に二人並びながら、草花の茂る景色を眺めてのどかな道を歩き進む。三人で遊ぶことが多かったキャスバートにとって、シシリーとこうして二人だけになるのは随分と久しぶりのことだった。そんなことを意識すると、心臓の音がやけに大きく感じられた。


「キャス、この間はごめんね。せっかく来てくれたのに、嫌な思いをさせちゃって……」


 おもむろにそう言ったシシリーに、キャスバートは笑みを見せながら言う。


「僕こそ、悪かったよ。言い過ぎたと思う。だから謝ることないって」


「ありがとう……ジェロームは見た通り、人を寄せ付けない無愛想な人だけど、本当に悪い人じゃないの。それだけはわかってほしい」


 シシリーの真剣な眼差しが、その気持ちを表していた。だがそれを見るキャスバートの中には、まだ消せない疑いが残っている。


「……ねえシシリー、領主様ってどんな人なの?」


 聞くと、シシリーはうつむき、考え込む。


「あんなに無愛想でも、優しいところがあるの?」


「ええ。ああ見えても、根は優しい人だから……」


「たとえば? 何かプレゼントをくれたとか、どこかへ連れてってくれたとかしたの?」


 これにシシリーは苦笑いを浮かべた。


「そういうことは、まだされたことはないけど……」


「じゃあ、どういうところが優しいと思うの?」


 シシリーは困ったように答えた。


「実は、まだ、ジェロームのことがわからないことも多くて……」


「わからないなら、どうして優しいなんて――」


「それだけはわかるの。あの人は人を避けるけど、困ってる人は無視できない人だって、そう感じるの……かなりわかりづらいけどね」


 疑いはキャスバートの首を傾げさせた。


「シシリーがそう感じるのは、優しい人だって思いたいからじゃなくて? そう信じ込むことで、理不尽なことにも耐えて――」


「キャス、言ったでしょう? ジェロームは悪い人じゃないって。私は信じてるんじゃなくて、そう確信してるの」


 にこりと笑ったシシリーの表情に、キャスバートの心配が頭をもたげる。


「不安があるなら、遠慮なく言ってくれないかな。僕もハリエットも、シシリーのことが心配なんだ。この前も無理して笑ってただろう? 隠さずに本音を僕達に……」


 するとシシリーは、くすりと笑った。


「ハリエットの言う通り、キャスは本当に心配性なのね。……大丈夫よ。私は無理なんてしてないから。月日が経てばジェロームのこともわかると思うし、何も心配いらない。気にしてくれてありがとうキャス。でも平気だから」


 平気と言ったその笑顔は、キャスバートの心配と疑いを深めるものでしかなかった。なぜ本音を言ってくれないのか。領主様のことがわからなくて辛いなら、僕達を頼ってほしい――そんなしつこい言葉を、キャスバートもまた言えなかった。


 家業の手伝いをしていても、ハリエットと世間話をしていても、キャスバートの胸からシシリーを気にする気持ちが消えることはなかった。手を動かしていても、頭のどこかで心配は続いていた。領主様にひどいことを言われているのではないか……シシリーは人が好すぎるから、言い返せずに耐えてしまうはずだ……あれは、絶対に無理をしている。手を差し伸べてやらないと――ぐるぐると巡る思考は、キャスバートの足を領主の館へ向かわせた。もう一度会って、シシリーが隠す本音を代わりに言ってやろうという意気込みだった。


 だが、いざ来てみると、気弱なキャスバートは玄関の扉を叩くこともできなかった。庭の中ほどで足は止まってしまい、目の前の館を見上げるだけで終わった。心配する気持ちの一方で、自分がお節介な行動をしようとしているのを自覚していた。これを知ればハリエットは必ず怒るだろうし、シシリーもきっといい顔はしてくれない――そう思うと、キャスバートは村へ引き返すしかなかった。しかし、諦め切れない気持ちはキャスバートを何度も館へ向かわせた。そのたびに今日こそはと意気込むが、結局迷いは何もさせず、踵を返させるだけだった。


 そしてこの日も、キャスバートは庭から館を見上げていた。ここに来る間に日は暮れてしまい、辺りは暗闇と静寂が覆っている。その中に二階の窓の灯りだけがぼんやりと浮かび上がっていた。それを何気なく見つめながら、迷う心の声に耳を傾けていた時だった。


 窓の灯りの奥に、何やら動く影が見えた。それは窓際までやって来ると、おもむろにカーテンに手をかける。


「……領主様……」


 距離があり、顔まではよく見えないものの、その姿形は男性で、以前に会った領主に違いなかった。領主はカーテンを半分引き、反対側のカーテンも引こうとする。目の前にいる今、意を決して行くべきか――キャスバートは踏み出す足に力を入れた。


「……え?」


 カーテンを引こうとした領主だったが、それを邪魔するように新たな人影が現れた。それを見たキャスバートは一瞬言葉を失った。館には領主とシシリーの二人しか住んでいないはずだ。しかしそこには、シシリーとは明らかに異なる姿の女性がいた。黒い服に黒い髪……キャスバートが見たことのない女性だった。その女性は領主と何やら話している。時折口元に手を添え、笑っているような仕草も見せている。それに対して領主は特に何の反応もせず、淡々と会話をしているようだった。そんな光景にキャスバートはすぐに理解した。もはや考える必要はなく、思わぬところで目撃してしまったと言えるだろう。領主がシシリーに対して冷たい態度を取るのは、まさにこれが理由だったのだ。他に女を作っていた――そう知ると、シシリーが受けていた扱いも合点が行った。


「やっぱり……」


 キャスバートは奥歯を噛み締め、二階の窓の人影を睨んだ。疑いは、もはや確信に変わった。シシリーが領主の浮気に気付いているかはわからないが、何にせよ、その人の好さに領主は付け込み、シシリーをひどく扱っているのだ。これでは幸せになどなれるわけがない。先にあるのはシシリーが傷付いた未来だけだ。助けなければ……浮気相手を連れ込んでいる今、それをシシリーに知らせなければ――ドクドクと鳴る心臓の音を聞きながら、キャスバートは覚悟を決め、窓の人影を見据えた。女はまだ話しているようだったが、領主は背を向けると部屋の奥へ消えて行った。残された女はしばらくそれを見送っていたが、領主とは違う方向へゆっくりと歩き出す。


「……!」


 それは瞬きをする間の出来事だった。女はそのまま窓の前を通り過ぎて行くと思われたが、黒い姿は忽然と、何の前触れもなく消え失せてしまった。キャスバートは自分の目を何度も疑うように窓を凝視するが、見間違いではないという自信が、逆に不安を煽っていた。女は確かにいた。領主とも会話をしていたのだ。これは一体何なのか。人間が突然消えるなどあり得ないし、あるわけもない現象だ。では自分は何を見たのだろうか。幻覚を見るほど頭も体も疲れてはいない。女は確実にそこにいて、消えたのだ。


 乗り込む覚悟だったキャスバートは、不可解な出来事に二の足を踏んだ。もう誰の人影もない窓を見上げる脳裏には、領主に関する悪い噂が次々とよぎった。過去の事件の犯人、あの館は呪われている、妻になれば命はない、領主は死神だ――どれも根拠はなく、単なる疑惑や印象に過ぎない。だがキャスバートも含め、多くの領民が未だに領主に疑念を抱き、恐れを感じていた。そして、今まさにそれらを目の当たりにしてしまったのだ。何かわからない不気味なものが、あそこにはある――キャスバートは後ずさると、静かに庭から出て行った。自分でもわかるほど動揺しては出直すしかなかった。さらにはハリエットにこの事実を伝え、相談するべきだと考えていた。

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