第2話 盲目

 休憩所で三峰先輩、松野と別れた俺たちは更衣室に行った。

 やや塗装が剥げて黒い断面を晒すクリーム色の施設の中に俺は半裸(水着)で踏み入る。

 前の看板には水着貸し出し受付と書かれていたので、その前に立っていた大学生くらいのアルバイトに「水着を借りたいんですけど」と申し出た。

 紬は視界が不明瞭だから手を繋いで。アルバイトにはカップルに見られたかも。


「男性用ですか?女性用ですか?」


 俺と紬を見てアルバイトは訊ねる。


「女性用です」

「右奥にあります。こちらの用紙にお名前を書いてからどうぞ」


 女性用水着を借りるのに、俺の名前を使う訳にはいかないので紬に名前を書いてもらった。


「ん」


 紬は用紙に顔を近づけて目を細める。

 眼鏡があってやっと周囲が見えるくらいの紬。裸眼だとおそらくはぼやけて何も見えないだろう。


「代わりに俺が書くか?」

「うん。ありがとう」


 紬からボールペンを受け取り、俺が代わりに名前を書く。

 貝嶋…貝殻の貝に難しい方の嶋。特徴的な名字だから憶えている。


「はい。ご確認しました」


 受付が完了したので、さっそく水着を見に行く。

 ずらっと並ぶハンガーラックにはサイズ別に様々な水着があった。そこには県外からやってきたいかにも遊び盛りのような女子学生が団体でいて、唯一の男性である俺は居心地が悪かった。


「こんなのなんかどうだ?」


 女子学生から避けるように俺は紬を連れて壁際に寄る。

 俺が手に取った水着は紬が好みそうな大人しめのハイウエストだった。


「うん」


 紬は吟味することなく頷いた。

 もうちょっと反応をしてくれると選びやすいんだけど、表情が変わらないのはいつものことだ。


「俺はロッカールームの前で待ってる。着替えられる…よな?」

「時間掛かるけど、大丈夫」

「なんだったら手伝おうか?」

「翔也が猥褻罪で捕まっても良いなら構わない」


 紬をロッカールームへ案内して、俺はその前で待つことにした。

 現在時刻は十三時七分。人も多くなってきた。水場の雰囲気に浮かれる人々を視界から消し去って、俺はさっきのことを思い出そうとする。


(……三峰先輩に関してだったはず。俺は三峰先輩と付き合って……って、それはただの願望だろ!……でも、いや待て、俺は確かに三峰先輩と―)


 段々と朧気だった記憶の断片が集まり、核心に迫ろうとしていた。


 そんな俺の脳内に声が響く。


『三峰先輩から離れろ』

 

 どこからか警告される。

 ……ものすごく聞き覚えのある声だった。


(三峰先輩から離れろだって?嫌だね。俺の目的は先輩と付き合うことだ。その為にこうして市民プールに誘ったんだし、これからは次のステップとして先輩ともっと交流を深めて……)


 でも、なんだかそれがとても良くないことのように思えた。

 曖昧な言葉でしか言えない。けれども虫の知らせのような予感が俺に告げられていた。


「難しい顔。どうしたの?」


 声がして顔をあげると、着替え終わった紬が立っていた。

 俺が選んだハイウエストの水着を着ている。サイズはぴったりだった。


「…あ、ああ。悪い」

「熱中症?」

「先輩にも同じ心配された」


 俺はくすりと笑って「水分は取っている」と伝える。


「それにしても似合ってるな」

「自分じゃわからない」

「あとで写メ撮ってやるよ」


 紬は視力の問題で自分をまともに見ることすらできない。

 その為か普通の女子高生より着飾ろうとする乙女の素養が育まれていなかった。可愛いのにもったいない。

 いや、素で可愛いから何を着ても似合うし、これでいいのかもしれない。


「今、なに考えてたの?」

「紬が可愛いってこと」

「そんなこと考えてたの?」


 紬は白けた顔をする。本気で俺の頭の調子を心配しているようだった。


「あとそうじゃない。私が来る、前」

「なら、三峰先輩のことだ」


 俺は隠すことなく正直に話した。紬に隠し事が出来るとは思えないし、今回のことは他人の相談を受けた方がいいような気がしていた。


「三峰秋。どうしたの?」

「このままでいいのかってことだ」

「このままって?」


 要領を得られない紬は再度、俺に訊ね返す。


「俺がいつまでも三峰先輩を縛りつけていいのかって」


 三峰秋は本来ならば俺なんかと関わるような人間じゃない。

 もっと煌びやかな友人に囲まれ、純度の高い学生生活を送るべきだ。俺じゃなくても学校の誰もがそう思っている。

 その思いが悪意に変わって俺を襲っているのが何よりもの証拠だ。


「翔也は三峰秋のことが好き」

「正解」

「性欲的に」

「人聞き悪いな。性格とか諸々あるだろうに」

「じゃあ、三峰秋のどこに惚れたの?」


 その言葉に俺は詰まる。

 そんな俺を紬は冷たい目で見ていた。同じ女性だから下半身に正直な俺をさぞや軽蔑していることだろう。


「翔也は女の気持ちにぶい」

「それ、前にも言われた」

「……言ってない」

「あれ?」


 一度、どこかで言われたような気がする。……気のせいだったか。


「三峰秋は翔也と居る時が一番安定している」

「一番幸せじゃなくて……か。喜んでいいのか判定が微妙だな」


 紬の言葉に俺は苦笑いする。

 すると紬は目を閉じて、


「三峰秋の幸せはもうここにない」

「―っ」


 俺はその言葉に胸が締め付けられた。

 三峰先輩の幸せは過去に過ぎ去ったもの。時流。二度と手を伸ばして掴むことができないそこは思い出としてしか残らない。そんな思い出も時流に流されて。

 彼女はずっともう確かな描写もできない、過去という「遺」を追い求める亡霊になってしまった。

 

「翔也は三峰秋がどうして苦しんでいるか知ってる?」

「両親が死んだって……」

「正解だと思う」

「じゃあ、どうしようもないじゃないか」


 死人を生き返らせることなんかできやしない。

 俺には三峰先輩にぽっかりと空いた穴を埋められないと悟り、俺は紬に不貞腐れた子供みたいに拗ねたように言う。


「でも、これ以上。苦しまないようにすることは、できる」

「それが今やってる現実逃避だろ?」

「翔也に責任が持てるなら。それでいい」

「責任……」

「三峰秋が壊れても、彼女に寄り添う責任」

「そんなの!」


 そんな不確定要素のある未来に「責任を持てる」という方が無責任だろう。

 俺は仕方なく紬に教えを乞うことにした。


「……三峰先輩が壊れないようにするには、どうしたらいい?」

「三峰秋が今苦しんでいる原因を取り除けばいい」


 紬は簡単に言うが、それは不可能に近い。


「だからそれは両親の死だろ?そんなの俺には―」

「違う。三峰秋が今も苦しんでいる原因は両親にはない」


 紬は俺の言葉を切り捨てる。


「え?」

「両親の死で三峰秋は苦しんだ。でもそれは過去。過去は時間と共に消えていく」

「いやでも……三峰先輩は両親が死んだのが原因で……」

「両親の死因」

「噂だけどそれは借金で自殺って……まさか」


 こくり。と紬は頷く。


「たぶん預かり先になってる親戚との関係が上手くいっていない。一番近しいところに味方がいないから三峰秋は孤立を感じてる」


 俺は今になってようやく三峰先輩が抱える今の苦悩をしっかりと考えた。

 これまでは不純さがあった。親切心ではなく恋愛脳で三峰先輩を見ていたから、俺は先輩を一方の側面でしか考えられていなかった。

 両親を失った不幸な少女というレッテルを貼って、それに対して可哀想という同情を抱くだけ。全く不甲斐ない話だ。

 その不純さを追いやって彼女に向かうと、また別の真実が見えてくる。


「ありがとう。紬」

 

 俺は紬に感謝を伝える。

 やるべきことは決まった。三峰先輩を救う手立てが見つかったのだ。


「やっぱり翔也。女の気持ちにぶい」


 紬はそっぽを向くと、紬を余所に一人舞い上がる翔也を置いて更衣室を出て行った。

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