After 2話 苦境

 噂が広まるのは俺の予想以上に早かった。


 秋が高校の友人と会ったと打ち明けてから一週間も経たずして、俺たちが暮らす町の周辺に住む十人の間でも「鷺谷秋は遊びの末に高校生妊娠していたらしい」という悪評が取り沙汰されるようになった。

 気にしすぎかもしれないが、俺が働く店を訪れる常連の客も減ったように感じる。

 代わりに噂好きのおばちゃんとかが同じく井戸端会議の友人を連れてやってくることが増えた。


「店長。迷惑かけてすみません」


 仕事終わり、泡水で濡れた手を拭いて厨房を出る。

 俺はここ最近の噂のせいで客席には出れていない。厨房で皿洗いと簡単な料理をするだけだ。

 店が閉まって、客が引いたところでようやく俺は客席に足を踏み入れる。


「うちらは何も気にせんが、それよりもお客さんが来ているよ」


 いつものように暖簾を下ろしてきた店長が扉の前で神妙に言う。

 

「お客?また近所のおばちゃんたちですか?」

「警察の方だよ。長野警察の田村さんだってさ」


 その名前を聞いた俺は罪を犯したわけでもないのにぞわっとした。

 四年前、俺たちが町を出るきっかけともなった人。

 いや…あれに関しては遅かれ早かれこうなってたと思うから恨むのはお門違いだとわかっているが、あの一件以来、苦手意識があった。


「……すみません」

「良いってよ。それよか気ぃつけな」


 俺は飯田お爺さんの忠告通り、警戒心を持って店の外に出る。


「……おお!お久しぶりです!私のこと、憶えていますか?」

「田村さんですよね」


 店前に立っていたのは忘れもしない田村さん本人だった。

 この四年の間に黒かった髪もすっかり白髪になり、彫り込まれた皺の数も増えたように思える。

 寒そうにダウンコートを着て白い息を吐いている。


「……なんの用ですか?」

「そんなに警戒しないでくださいよ。今回は仕事じゃないんです」

「仕事でないのなら帰ってください」


 俺は田村さんに話すことはないと強気の姿勢。

 警察としての仕事ではないのなら心証は関係ない。


「良いんですか?後悔するかもしれませんよ?」

「後悔ならもうしてます」

「それはあの噂のことですかな?」


 田村さんはおどけるような口調で俺を煽る。

 刑事さんらしい手法だ。でも俺は一度、田村さんの手に乗せられたことがある。前回の失敗を活かして、俺はあくまでも冷静でいた。


「……耳がいいんですね」

「そりゃ刑事ですから。わっはっは!」


 田村さんはしゃがれた声で笑った。

 どうやら噂を聞きつけて俺まで辿り着いたらしい。


「俺はなんと言われても話す気はありません。では」


 田村さんと長く話しているほど暇ではない俺は足早に立ち去ろうとする。


「義理の妹―美晴さんのことについてです」


 田村さんは立ち去ろうとする俺の背中に声をかけた。


「―っ」


 美晴の名前を聞いて、俺は足を止めざるを得なかった。

 四年前、家出したという美晴とは結局、何も話さず仕舞いだったからだ。


「……わかりました。三十分だけ、お話を伺いましょう」

「ご協力、感謝いたします」


 俺は結局、田村さんの掌で転がされる羽目になった。



◇◇◇



 田村さんに連れられたのは、敷居の高そうな料亭だった。

 今回の話は職務が関係していないため、田村さんは俺のご機嫌取りに必死だ。


「私の奢りです。遠慮せずに何でも頼んじゃってください」

「じゃあウナギで」


 俺は一番高いメニューだった鰻御前(税抜き 4800円)を注文する。

 田村さんに対するせめてもの反発、抵抗だ。


「それでは早速……といきたいところですが、その前に三峰さんの大学生活はどうですか?」


 注文の料理が届くと、田村さんは俺に訊ねた。

 大学生活とは噂が流れた後のことだろう。秋のことについて聞かれた俺は喉に苦いものを感じ、お吸い物で流す。


「……良かった点としては男に言い寄られることがなくなったと本人は話していました」

「結婚して子持ちとなれば、学生には荷が重いでしょうな」


 田村さんは「今はなよなよしい男ばかりで」と言って煙草を吹かす。

 俺は「なよなよしい男」が軽い気持ちでナンパをするんじゃないのか?とも思った。こういう人間は時代に文句を言いたがる。


「本人は口にしませんが、大学は居づらいんじゃないかと思ってます」

「大学には子持ちの女性もいそうですがね」

「秋は良くも悪くも目立ちますので」


 俺は鰻を切り分けて口に運ぶ。スーパーのものとは違う肉厚でタレに負けない鰻の味を感じた。

 

「美人な妻を持って、鼻高々……それにしてはお暗いですな」

「ここまで噂になれば秋の就職にも影響します。なによりも娘が、秋翔が可哀想です」


 秋翔はまだ大人の話を理解できるほど成長していない。

 でも、いずれ事実を知ることになる。俺はそれを憂いている。


「子煩悩ですね」

「親なら誰しも思うでしょう」

「……私は独身ですが」


 田村さんは苛立ちげに煙を吐いた。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。


「んん……!それで美晴のことについて伺いたいのですが」


 俺は空気を一変させるため、話題を逸らした。

 というか、こっちが本命だ。


「……そうそう、本題を忘れていました。美晴さんですね。……そもそも四年前から美晴さんとは連絡を?」

「いえ。当時の携帯は捨ててしまって……」


 美晴とは四年前から音信不通の状態だ。こっちがではなく向こうがというのが正しいけど。

 俺としても美晴のことは気にかけていた。家出をしたって言われて、もしかしたら頼れる人間が俺しかいなかったのかも。

 それなのに俺まで蒸発して美晴はもしかすると孤独になったのかもしれない。


「美晴さんですが、あれから実家に戻りまして都内の公立高に通ってました」

「今から四年前のことですよね。ということはもう卒業したんじゃないですか?」

「ええ、まあ、そうなんですが……」


 田村さんは言いあぐねている様子だった。

 ひとまずは公立高を卒業したことは確からしい。勉強が出来なかった美晴だ。大出世だろう。


「……大変言いにくいのですが、美晴さんは自殺しました」


 俺の中で時間が止まった。

 呼吸すらも忘れて、人の話し声や店員の声もなにも聞こえなくなった。


「卒業してからしばらく経って新生活にも慣れた頃です。もう少しで一年忌になりますかね」


 俺は箸を落とした。

 美晴が死んだ。その事実は到底受け入れられるものじゃなかった。


「……そ、そんな……!」


 俺は胃から食べ物を戻した。

 よほど顔色が悪かったのか、店員さんが「大丈夫ですか?」と寄ってくる。俺は辛うじて「大丈夫です」と答えられたが、客観的に見て到底大丈夫と言える状態じゃない。


「ご実家と決裂関係にあったのですから、知らないのも当然ですね」


 田村さんは三本目の煙草に口をつける。俺にも「一本どうですか?今は吸えますよ」と言って手渡してきた。

 高校生以来の煙草。娘が出来てから吸う訳にもいかない俺にとっては禁断の味だ。でも今は有難い。ヤニを入れないと正気でいられる気がしなかった。


「借りているアパートの自室で亡くなっているのを発見されました。出勤しないことを不審に思った上司が事件性を感じて警察に連絡を入れ発見に至った形です。幸いにもご遺体の腐敗は進んでいなく―」


 田村さんは署内から持ってきたのか、当時の記録のようなものが書かれた調書を取り出す。

 俺は田村さんの声を遠くに、途方もない喪失感を味わっていた。


「遺書があります。しかも貴方宛てに」


 田村さんは俺に封筒に入った手紙を渡してきた。

 手紙の表面には「私が死んだら、兄に渡してください」と美晴の字で書かれている。


「受け取りますか?」

「……はい」


 茫然自失な俺は機械的にその手紙に手を伸ばした。

 美晴の温もりも何も感じられない紙の感触。俺と美晴に残ったのはこの手紙一枚だけだった。


「自殺後、美晴さんのこれまでが明らかとなりました」

「これまでって……四年前からぜんぶ?」

「ええ。実は高校の時から既に精神的に不安定だったそうです。学校で何もないのに急に泣き出したり……また逆に急に楽し気に笑うようになったりと……」


 田村さんによれば、美晴が自殺したあと身辺調査があったらしい。

 仕事の同僚や学校の同級生などから自殺前の美晴について話を聞いたそうだが、誰もが口を揃えて美晴の危うさに言及していた。

 わかってたなら助けろよとは言えない。俺が原因、もしくは美晴が死ぬ最後の一押しになったのだろうから。


「俺のせいで……美晴は……」


 俺のせいで美晴が死んだ。

 俺があのまま残っていれば、美晴は死ぬことなかった。

 俺が美晴を殺した。

 美晴が死ぬくらいなら、あの土地で俺が…


「その考えはよろしくありません!決して自分を責めないように!」


 田村さんは俺に言い聞かせるが、その声はもう俺には届かなかった。

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