25

 そのカラオケ店は天井や壁の一部が剥がれ落ちているものの、ほぼそのままの形を保っている。当然ながら電気は来ておらず、窓から差し込む街灯の明かりが足元を照らしている。

 リクは三階の最奥にある個室、かつては大人数が入れるパーティルームだったであろう部屋にうずくまっていた。テレビなど電子機器は持ち出され、あちこち綿がはみ出した座席と錆びかけたテーブルだけが残っている。床にはもともと何だったのかわからないゴミが散乱し、悪臭を放っている。

 さながらお化け屋敷のような外観のせいか、思春期の学生もホームレスも好んで訪れようとはしない。リクとしても足しげく通っていたわけではなく、たまにひとりになりたいとき開いたままのガラス戸をくぐって入り込んでいた。ネットカフェも落ち着くが、あそこは煌々と電気が点いているし、他の客もいて騒がしい。

 このくらいの暗さと静けさが一番落ち着く。誰も自分を見ておらず、自分も誰も見ていない。だから少しだけ安心できる。

 外で車が走り去る音が聞こえ、リクははっと顔を上げた。しばらくして静寂が戻り、また膝を抱えて座り込む。いつになったらここから出られるのだろう。早く家に帰りたい。あんなものを目撃してしまったせいだ。あれさえなければ今ごろ自分は……。

 ギィッと入口のガラス戸が軋む音がした。ただの風か、それとも自分以外の侵入者かもしれない。リクは身を守ろうとするようにパーカーのジッパーを引き上げた。こんなものでは紙つぶてぐらいしか防ぐことはできないが。

 歪んで蝶番からぶら下がったドアの陰に隠れて耳を澄ます。聞き違いではない。階段を一歩ずつ踏みしめる音がする。それもひとりではない……。少なくとも二人いる。

「どこに隠れている? 隠れてないで出てこい」

 押し殺したような男の声が言った。カラオケ店の個室はそう多くなく、ひとつずつ見ていってもそう時間はかからない。リクは壁に背をもたれ、忙しない心臓の鼓動を落ち着かせようとした。

 やがて足音が三階に辿り着いた。二人分あるが、ひとりがもうひとりを引きずっているような不自然な歩き方をしている。リクはドアの陰からそっと廊下を覗いた。暗闇に慣れた目にははっきり見える。男がもうひとりを羽交い絞めにし、こめかみに拳銃を突きつけている。

「何のために俺がここに来たかわかるよな? おまえが持っている重要な証拠品と、俺が握っている人質の命を交換するためだ。言わなくともわかるだろうが、拒否すればまたひとり死者が増えることになる」

 男はあちこちに警戒の目を走らせ、慎重に歩を進めた。足音は否応なしに近付いてくる。リクは心を決め、やがてゆっくりと部屋の外に歩み出た。

「その人を離せ」

 暗闇に自分の声が響き、人質を連れた男が振り返った。そしてブルーのパーカーを着たリクを見るなり口元に残忍な笑みを浮かべた。

「ようやく会えたな。俺が誰かわかるな?」

「ああ、わかる」

「交換条件だ。おまえが現場から持ち去った証拠品を渡せ。そうすればこいつを解放してやる」

 男は人質の襟首をぐいと掴み、脅すように揺さぶった。恐怖に引きつった顔を見たリクは危険も顧みず前に出ようとした。

「リク……。そこにいるのか?」

「います。俺のせいで……ごめんなさい」

 眞木は白杖さえ持たされず、拘束されて不安定な姿勢を強いられている。それでもリクのほうに視線を向けようとした。

「僕のことはいい。君は事件に関する証拠を握っているんだろう? 早くそれを警察に届けるんだ」

「警察は信用できません。最初から信用する気なんかなかった。素直に要求に応じたってこいつは俺たちを逃がしません」

 相手は不審がられず拳銃を扱える立場にある。殺人の疑いがかかったリクと乱闘になり、やむなく発砲したなどいくらでも言い訳はできる。

「……こいつは殺人犯です。俺はそれを見ていたし証拠もある。だからこいつはずっと俺の行方を捜していたんです。俺に殺人の罪を着せ、自分に疑いのかかる証拠品を抹消するために」

「まさかあの時間、歩道橋の近くに人がいるとは思わなかった。ちょうど張り込みで近くまで来ていたからな。人気のない場所を選んで呼び出したつもりだったが迂闊だった」

 十二月十五日の午前二時少し前、リクは歩道橋の柱の陰にうずくまって震えていた。それは寒さのせいではなく別の感情によるものだった。恐れと怒り、それから後悔。リクが我を取り戻したのは頭上から人声が聞こえたときだった

 会話の内容まではわからないが、男と女がどうやら口論しているらしい。ただの痴話喧嘩かと思っていたが、それはやがて激しくもみ合うような音に変わった。

 警察を呼ぶべきだろうか。だが自分がここにいる理由をどう説明すればいい? 逡巡するリクの前にキラリと光るものが落ちてきた。コンクリートの地面に跳ね返って金属製の音を立てる。

 反射的に手に取ったとき、闇を引き裂くような女性の悲鳴が聞こえた。階段を転がり落ちる激しい音がして、それから不気味な静寂が訪れた。まさか、とリクは歩道橋の上り口を振り返った。

 頭を下にして仰向けに倒れているのは見覚えのある女性だった。――と、もうひとりの人物が階段を下りてきて、女性の生死を確かめるように膝をついた。街灯の明かりに照らされたその顔を、リクははっきりと見た。

 ……逃げなければ。

 無意識に後ずさった足音を聞きつけられたらしい。その人物がこちらを振り向くのとリクが背を向けるのはほぼ同時で、リクは脱兎のごとく走り出した。

 どれくらい走り続けたのだろう。段差に躓いて転びそうになったのをきっかけに足を止めた。街灯のない路地に入ってぜいぜいと肩で息をする。そうして初めて、リクは自分が何かを握りしめていることに気付いた。そして同時に、殺人現場の目撃者になってしまったことを悟った。

 あれから何度も警察に行こうと考えた。リクは犯人の顔を見ているばかりか、証拠となる品を握っている。だがそのたびに打ち消した。――警察は信用できない。それになぜあの時間あんなところにいたのか、自分の口から真実を話すことはできない。

 自分の罪が明らかになれば眞木に迷惑がかかる。あの人だけは巻き込みたくない。そう思っていたのに、眞木は今殺人犯に拘束されている。どうすればあの人を助けられる? リクは鈍った頭を必死に動かそうとした。

「下手な動きをすれば引き金を引く。俺の警察官としての使命に比べたら、この男の命などちっぽけなものだ」

 男は拳銃の安全装置を外し、眞木に押し当てた。それを見たリクはポケットに手を突っ込み、ハンカチに包んだ小さなものを取り出した。

「待て。おまえが欲しいのはこれだろ。ちゃんと渡すから」

「頭のいいおまえのことだ。こうなることを予期して偽物を用意したとも考えられる。床に置いて後ろを向け。本物だと確認できたらこの男を解放してやる」

 男は向かい合う両者の間、瓦礫の破片が散らばった床を指さした。リクが進み出ようとすると、それを察知した眞木が必死に言った。

「真実を闇に葬ってはならない。君のその行ないが別の誰かを傷付けてしまう。あの人にも大切な家族がいたはずだ。誰かを悲しませるようなことはしないでくれ」

「もうすぐ全部終わりますから。信じてください」

 リクは身を屈めてハンカチごと床に置いた。そして数歩下がり、男に背を向ける。

「ふん、生意気な男だ。おまえのような小物に何ができる」

 男は眞木を引きずり、ハンカチの上に載った「それ」を見下ろした。外の明かりを反射してキラキラ光っている。リクが背を向けていることを確認し、それを拾おうと身を屈めた。

 その瞬間、片腕で拘束していた眞木ががくんと体勢を崩した。引っ張られるように男もよろめく。この機を逃さず、左右の個室に隠れていた速水と亜須香が飛びついた。暗闇の中でしばらくもみ合ったあと、二人の刑事は男を床に押さえつけた。

「眞木さん!」

 間髪入れずリクが飛び出し、床に膝をつく眞木を支えた。眞木は肩に添えられた手の主を見上げた。

「リク、無事なのか?」

「ええ。ここにいます」

「よかった……。君に何かあったらと思うと……」

 そう言うなり、眞木は腰が抜けたように床に座り込んだ。リクは泣き笑いの顔で眞木の肩を揺すった。

 そのとき階段を一歩一歩踏みしめるように、別の男が三階に上がってきた。手に懐中電灯を持ち、速水と亜須香が拘束する男を照らし出す。

「千尋の事件におまえが関わっていることは薄々気付いていた。だが決め手となる証拠がなかった。そんなときだ、そこにいるリクくんから連絡があったのは。刑事としてあるまじき行ないであることはわかっていたが、彼と眞木くんに協力を仰ぎ、一か八かの賭けに出た。それに引っかかったのがおまえだ」

 桜庭は途中で足を止め、こちらを眩しげに見ている男に視線を注いだ。頼りになる後輩だと思っていた男。もはや警察官でも何でもない、ただの殺人未遂の現行犯に成り下がってしまった男。

「……この代償は高くつくぞ」

 感情をすべて排除して告げると、市ノ瀬は声を出さずに笑った。

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