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 そのころ桜庭は利峰署の遺体安置所にいた。シーツがかけられた飯塚夏苗の遺体を挟み、ベッドの向こう側には法医学医の小早川が立っている。

「桜庭さんの見立てどおり、ご遺体は死後半日以上が経過していました。死亡推定時刻は昨夜、つまり十二月十四日の昨夜午後九時から十一時の間です」

「死因は頭部の傷でしょうか」

「何か硬いもので殴られたか、あるいは頭をぶつけたか、頭蓋骨が折れて陥没しています。それにより脳挫傷が起こり、急性硬膜下血腫で死亡したとみられます」

 小早川は千尋のときと同じく、手元のバインダーを見ながら淡々と告げた。桜庭は迷った挙句、ずっと考えていた疑問をぶつけた。

「殺人かどうかはわかりませんか? 実は、妻が死んだ現場にこんなものが置かれていたんです」

 桜庭はスマートフォンを操作し、歩道橋で見つけた紙片を撮影したものを呼び出した。小早川はバインダーからスマートフォンの画面に目を移し、三行の文章を黙読した。

「長谷部というのは妻の旧姓です。ここに書かれた飯塚英生の家に行ったところ、遺体を発見したというわけです」

「はぁ、そんな事情が……。奥様とこちらの女性には面識があったのでしょうか」

「まだわかりません。管内で発生した誘拐事件に人員を取られてしまって、この事件を担当する刑事がいないんです」

 つい言い訳をするような口調になってしまった。そんな自分を恥じ、桜庭は「失礼します」と言って遺体安置所を出た。捜査が進展しない理由を別の事件に求めてはいけない。自分は刑事なのだから、目の前にある情報をもとに推理を組み立てなければ。

 その足で向かったのは鑑識課だった。例の誘拐事件の捜査で大半が出払っているが、幸い顔馴染みの盛岡もりおかが残っていた。

「ここ、カウンターキッチンの角に血痕が付着していた。だが誰かの手によってきれいに拭き取られている。自分でやったのか、第三者がやったのかはわからん」

 盛岡が出した現場写真を、桜庭は一枚ずつ丹念に見ていった。まだ整理の途中らしく、現場で採取した証拠品、被害者の所持品が中途半端に机に並べられている。盛岡はそれをリストと照らし合わせ、せっせと箱に詰めていた。

「俺たちが発見したとき飯塚夏苗はテーブルの下に倒れていた。この角に頭部を強打したあと、しばらくは意識があったということか」

「こういうことは小早川先生の専門だが、頭部を打ちつけたあとすぐに症状が出るとは限らない。長ければ数時間後に発症し、死に至るケースもある」

「息を引き取ったのが死亡推定時刻だとしても、頭部を強打したのはそれより前かもしれない。そういうことか」

 リビングを映した写真の中で、被害者は何かにすがろうとするかのように右手を伸ばし、カッと目を見開いていた。桜庭は首を振り、他の証拠品を見ていった。

「このスマートフォン、ストラップの先が千切れているな」

「ああ。俺も気になっていた。まだ鑑定の途中だが、断面の形状から千切れたのはごく最近だとわかる。何かに挟まって千切れたのかもな」

「ふぅん……」

 桜庭は何か言いたげに唸ったあと、忙しそうな盛岡をちらりと見た。

「なぁ、盛岡。歩道橋の事件の証拠品もここにあるよな」

「ん? あるにはあるが、あれは奥さんの……」

「いいから見せてくれ」

 桜庭に催促され、盛岡はしぶしぶ別の箱を取ってきた。中には同じく所持品と、現場を映した写真が納められている。誘拐事件のほうが優先されているせいで、詳しい鑑定はまだ行なわれていなかった。

 正直見るのが怖かったが、自分は刑事だ。事故であれ殺人であれ、管内で起きた事件から目をそらしてはいけない。そう言い聞かせ、意を決してファイルを開いた。

 自分の妻だと思うからつらいだけで、赤の他人だと思えば見慣れた現場写真である。被害者は頭を下にして、仰向けで歩道橋の降り口に倒れていた。驚きか恐怖か、大きく見開かれた目は空を凝視している。手足が不自然な角度にねじ曲がり、流れ出た血が地面を染めている……。

「二件の共通点が気になっているんだろう。これだけじゃ何とも言えんが」

 盛岡はビニール袋に入った紙片を机に置いた。桜庭は先ほど小早川にも見せた文章を読み返し、千尋と夏苗、二件の現場写真を交互に眺めた。

 二つの事件は関連しているのか? そもそもこの二件は殺人なのか? 関連した殺人ならば動機は何だ? なぜ二人は相次いで死ななければならなかった?

「桜庭さん、刑事課にお電話です。飯塚英生さんという男性の方から……」

 受付職員の声が桜庭の迷路のような思考を断ち切った。目の前の紙片に書かれた名前を告げられ、一瞬誰のことかわからなかった。

「ああ、被害者の夫か。課長のデスクに繋いでくれ」

 遺体が運ばれてすぐ連絡を取ろうとしたのだが、留守電になるばかりだった。どうやら履歴を見てかけ直してきたらしい。

「すまん、盛岡。またあとで」

「次から次へと大変だな。事件が解決したら速水を誘って飲みにいこうぜ。桜庭には貸しがあるから俺の分はおごってもらうぞ」

「借りたものはちゃんと返す。証拠品、見せてくれて助かった」

 桜庭は盛岡に礼を述べて刑事課に戻った。課長以下、ここの刑事は例の誘拐事件に駆り出されている。桜庭はもぬけの殻の刑事課を横切り、課長のデスクの受話器を取った。

「お待たせしました。刑事課の桜庭です」

「飯塚と申します。何度かお電話をいただいたようですが、わたしに何かご用でしょうか」

 どことなく冷ややかな問いかけに、桜庭は相手が弁護士であることを思い出した。ならばさっさと本題に入るほうがいいだろう。

「実は今日、飯塚さんのご自宅で奥様のご遺体が発見されました。死後半日以上経っていると思われます。つきましては飯塚さんにはこちらに戻り次第、一度確認にお越しいただきたいのですが」

「……」

 さすがに予想していなかったのか、飯塚は電話の向こうでしばらく黙り込んだ。

「妻は……夏苗はなぜ死んだのですか?」

「法医学医による所見では、死因は頭部を強く打ちつけたことによる急性硬膜下血腫です。死亡推定時刻は十二月十四日、昨夜午後九時から十一時の間とみられます」

 そこまで言って口をつぐむと、受話器を挟んで沈黙が漂った。何の心の準備もなく告げられたのだから、情報を整理するのに時間がかかって当然である。同じく妻を亡くした自分が普段どおり仕事をしていることを考えると、どちらが正しい反応なのかわからなくなってくる。

 居心地の悪さをどうにかしようと、桜庭は咳払いをした。

「電話口でこのようなことをお聞きするのは気が引けるのですが、もしよければお答えください。奥様の姿を最後に見たのはいつのことでしょうか」

 すると沈黙から一転、飯塚が冷たく笑う声がした。

「まずは第一発見者と近親者に疑惑の目を向ける、よく知られた警察のやり方ですね。夜行バスの時刻はすでに調べがついていると思いますが、わたしは余裕をもって九時五十分に家を出ました。夏苗はタクシーに乗るまで見送ってくれました。また、途中で近所の方とすれ違って挨拶をしました」

「つまりあなたがタクシーに乗車した時刻、奥様は確実に生きておられた。そのことはタクシーの運転手と、すれ違った近所の方が証言できるわけですね」

「信じられないならそちらで調べてください」

「確認のためにお聞きしただけです。ご気分を害されたのなら謝ります」

 桜庭は手続き上の事柄を述べ、電話を切った。それからしばらく考えたのち、誰もいない刑事課を飛び出して遺体安置所に向かった。先ほど盛岡が言っていたことを確認するためである。

「頭部外傷による急性硬膜下血腫は外から与えられた力により脳挫傷を起こし、流れ出た血液が硬膜下で血腫となり、脳を圧迫することで生じます。脳血管からの出血が多ければ多いほど、血腫は時間経過とともに肥大します。そのため外傷後すぐに症状が出ることもあれば、盛岡さんが言ったように数時間かかる場合もあります」

 まだそこにいた小早川は、嫌な顔もせず質問に答えてくれた。

「だとすれば死亡推定時刻より前に頭を打ち、突然症状が出現して息を引き取った、というケースもあり得ますね」

「頭部CTを撮るか、解剖すれば詳しいことがわかるかもしれませんが……。可能性がないわけではないと、今のわたしに言えるのはその程度です」

「ありがとうございます。大変参考になりました」

 桜庭は丁重に礼を述べ、遺体安置所を出た。そしてまた刑事課に戻ると、自分のデスクに着いて考えをまとめようとした。

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