第5話 三日目①

 その日は雨が降っていた事をよく覚えている。遅い時間になっても帰ってこない妹を心配して、私は家を飛び出した。

 結論から言うと、妹はすぐに見つかった。家の裏手にいたのだ。ずぶ濡れになった身体を震わせながら、縮こまって泣いていた。私が声を掛けると妹はびくりと身体を跳ね上がらせ、恐る恐るといった様子で顔をこちらに向けてきた。濡れて顔にへばり付いた髪の間から覗く目が私の姿を認めると、先程までよりも大きな声で、わっと泣き出した。こんなにも泣いている妹を見るのは初めてで戸惑ったが、兄として妹を助けてやらなければ、という正義感を抱いた私は、妹を抱き起して家の中へ入った。

 妹の身体はあちらこちらに泥や草がついて汚れていた。切り傷や痣もあった。妹が姉のように慕っていた使用人に頼んで風呂に入れてやり、その間に私は暖かいお茶を入れ、怪我を治す準備もした。他の家ではこの様な事も使用人にやらせるそうだが、その頃から私は治癒魔法の勉強をしていたから、この家ではそれは私の仕事だった。

 暫くしてから妹は使用人を引き連れて妹の部屋に来た。そこで私が待っていたからだ。私の部屋で治療するよりも、妹自身の部屋の方が気分も落ち着くだろうと思ったのだ。私は妹にお茶を飲むよう促し、その様子を見守った。口内にも傷が出来ているかもしれないと思い、私が調合した、飲むと体内のちょっとした傷なら治せるお茶を出したのだ。私の予想は当たったようで、妹は目を丸くしていた。

「ありがとう」

「ああ」

 そうする必要は無いと思うのだが、私が治療を始める前に、妹は使用人に部屋を出るよう言った。使用人は心配そうな顔で妹を覗き込んだが——使用人の方も、実の妹のように妹を可愛がっていたのだ——妹は頑として譲らなかった。

 二人きりとなった部屋で、私は妹に治癒魔法を掛け始めた。簡単な魔法で治せるような傷ばかりだったが、全身に傷があってはそれなりに時間が掛る。何があってこんなにも傷だらけなのか聞こうとしたら、先に妹が口を開いた。

「ねぇ、兄さん」

「何だ?」

「私——」


「……」

 雨粒が窓を打ち付ける音で目が覚めた。私はベッドから身体を起こし、軽く伸びをした。昨日あんな事があったからなのか、降りしきる雨のせいなのか、懐かしい光景を夢に見た。あれから約二十年は経っている。

(……)

 頭を振って今見た夢の内容を、頭の片隅に追い払う。今の私はあの時の私とは違う。知識も、経験もある。そう自分に言い聞かせた。

 医務室の机の上には、実験器具が出しっぱなしにしてある。昨夜使ってそのままだ。昨日はあの後、スティルの魔力をほんの少しだけ吸い取らせてもらった。吸い取る時に使用した小さなゼリー状の白い物体を基に、彼女の魔力を分析していたのだ。その物体を火にかけたり、水の中に入れたりする事で、その魔力の持ち主が何に強くて何に弱いか分かるのだが……彼女の場合は何も分からなかった。とにかく反発心が強く、実験にならなかったのだ。それで諦めてベッドに潜り込んで朝を迎えた。

(片付けるか……)

 無理矢理結論付けるのであれば、とにかく強い、という事だ。それに彼女の弱点を知りたい訳ではない。これはむしろ、これから攻撃する相手の弱点を知る為に作ったものなのだ。復讐の為に。それが今では自分の趣味で集めて分析しているだけにすぎない。

(二十年、か)

 大丈夫だ。今の私は、失敗しない。


「今日は雨なんだね」

 朝食を持ってスティルの部屋に行くと、彼女は開口一番にそう言った。

「ここまで音が聞こえてくるのか?」

「ううん。あなたの髪の毛、いつも以上にボサボサだから」

「むぅ……」

 私の髪は腰の辺りまで伸びている。面倒で大した手入れはしていないから、いつもボサボサだ。それがよりボサボサしているから雨だと分かったようだ。

「何で伸ばして……ああ、長かったんだね」

 私の髪の毛の長さについて疑問を口にしようとして、勝手に納得している。また私の心を——いや過去を読んだのだ。

「キミは短いよな。キミくらいの歳の少女であれば、それこそワタシと同じくらいの長さに伸ばしていそうなものだが」

 対するスティルの髪は、肩の辺りで綺麗に切り揃えてある。

「ディサエルも短いし、それに、長いと引っ張られるんだよね」

「ああ、それは……すまない事を言った」

「いいよ、別に。それよりもさ、外に出られるの?」

「それが……」

 スティルが要求してきたものを買う為に外出できないかセンマードンに掛け合ったが、承諾されなかった。今日から一部の団員達が、魔王捜索の為に日中は街に出る。その為魔王を発見して戦闘になり怪我を負った場合、治療できる人物がイェントックにいないといけないから、という理由で私の外出は却下された。

「ふぅん。そっか。残念」

「代わりに捜索班メンバーとなった者が、こちらに戻る前に買いに行くそうだ」

「ふぅん。そっか。残念」

「……」

 よっぽど私に少女向けの服を買いに行かせたかったらしい。その光景が、彼女曰く面白いから。

「あ、わたしの代わりに着る? 昨日あなたが買ってこさせた服、全部わたしの好みじゃないからあげるよ」

「ワタシではサイズが合わないだろう」

「ふぅん。サイズが合えば着るんだ」

「いや! サイズが合っていても断じて着ない! 食べ終えたのならワタシはもう行くぞ!」

「ちぇっ」

 頬を膨らませるスティルをよそに、私は部屋を後にした。あのまま部屋に居続ければ、私のサイズに合わせた少女用の服を無理矢理着させられる可能性が高い。


 午前中は魔法薬の調合や、訓練中に出た怪我人の手当てをして過ごした。魔王捜索班のメンバーの大半は魔法が得意な奴らで、ここに残っているのは腕っぷしだけが自慢の粗野で乱暴な蛮族ばかりだ。この世界に来た時に、魔王もスティルと同じくらいの年齢の少女の姿に変わったらしい。その為、その年齢の少女が集まりやすい中学校、もしくは高等学校と呼ばれる教育機関に狙いを絞り捜索する事となった。奴らは森の中で木を探す気だ。すぐに力で解決しようとする低能を送り込んでしまっては、無関係な子供に被害が及ぶ。だからここで蛮族同士、戦闘訓練を重ねている。雨が降りしきる屋外で。

「すまん、ロクドト。泥濘に足を取られた」

「泥を飲み込んじまった。胃の中を綺麗にする薬あるか?」

「傷口が大分汚れちまった」

「せっかくスティル様がいらっしゃるんだし、応援してほしいよなぁ。ずっと視界に入っていればもっとやる気出るのによぉ」

「いやスティル様は俺の方が好みだって」

「黙れこの無知蒙昧の蛮族共が。治癒魔法を掛けてもらいたくば先ずはその全身にこびりついた泥を落とせ。汚れた状態で医務室に来るな。誰が掃除すると思っているのだ。それとスティルはキミ達愚か者共のやる気を上げる為の道具ではない。応援してほしくば自分で頼みに行け。どうせ断られるだろうがな」

 あまりにも汚い格好で医務室に入ってくるものだからそう言ってやった。しかし低能は低能故に逆ギレを起こす。

「スティル“様”だろ」

「ロクドト。お前毎食スティル様と食事してるからって調子に乗りすぎだぞ」

「お前いつもスティル様と二人きりで何やってんだよ」

「噂になってるぜぇ? ヤってるんじゃねぇかってよぉ」

「俺達のスティル様に手ぇ出すとはいい度胸だなぁ、ロクドト?」

(これだから馬鹿は嫌いなのだ)

 ここにいるのは喧嘩っ早い低能だけで、止めようとする奴が誰もいない。相手をするのも面倒だから、睡眠薬入りの煙幕を投げ込んでやろうと思った。その時……。

「ロクドトがわたしと何をやってるって噂なの?」

「「「「「……⁉」」」」」

(スティル……⁉)

 渦中の神、スティルが医務室に現れた。

「何のお話してたの? 知りたいな~。わたしも混ぜて?」

「あ、いえ、その……」

「ほら、わたしってずっと地下室にいるでしょ? ずっと一人でいるのって寂しいから、皆とお話したいな。ねぇ、わたしとロクドトの噂って、なぁに?」

 しどろもどろになっている愚か者共に、スティルが満面の笑みで詰め寄る。他人から見ればただの笑みであろうが、私には分かる。これは、こいつらが慌てる様子を見るのが楽しくてたまらない、という笑みだ。

「それは、その……」

「ああ、えっと、ろ、ロクドトだけ、スティル様とお食事を共にしているのが、羨ましいな~という、そういう話をしていまして……」

「そ、そうそう! 俺達も一緒に食べたいな~、と思いまして……」

「ロクドトの奴だけスティル様を独り占めするのは、ズルいぞって言ってたんです……」

「ふぅん。そうなんだ。じゃあお昼ご飯皆で一緒に食べる? あ、でも皆凄く汚いね。早く綺麗にした方がいいよ。ほら、床も泥だらけ。こういうのは自分達で掃除しないと駄目だよ」

「あ、そ、そうですね!」

「す、すぐ洗ってきます!」

「床も、後で絶対綺麗にします!」

 そう言って愚か者共は散っていった。スティルはその背に手を振りながら、「後でね~!」と声を掛けた。

「あ、スティル、その……」

「何でわたしがあんな奴らと一緒にご飯食べなきゃいけないの⁉」

 彼女は振り返るなり言った。自分で「一緒に食べる?」と言ったせいではないか。

「もとはと言えば、あなたがあんなのに絡まれるのがいけないんでしょ。とっくに気づいていたけど、あなたって嫌われ者なんだね」

「面と向かって言う言葉ではないだろう」

「そんな人間のルール知らないし」

 人も神もないと思うのだが……。

「あ~あ、最悪」

 床に落ちた泥を一瞥し、それを踏まないよう気を付けながらスティルがこちらへと近づき、ベッドの縁に腰かけた。

「最悪!」

「それはもう分かった」

「あいつら殺していい?」

「……せめてワタシのいない場所でやってくれ」

 目の前で人が殺されるのを見ても、いい気分にはならない。目の前でなくても、何かと面倒だから殺さないでいてほしい。

「それよりも、何故急にここに来たのだ?」

「あなたを助ける為に来たの」

「…………は?」

 私を、助ける為に……?

「使徒の面倒見るのも、神様の仕事の内だし。それに、あなたがわたしを助けてくれるなら、わたしもあなたを助けてあげないとね」

 当たり前の事を言うように、平然と。真面目な顔で。彼女は確かにそう言った。

「キミ……熱でもあるのか?」

「えぇ~、何その反応。ありがとうございます、とか、恩に着ます、とか、他にも言う事あるでしょ。わたしだってたまにはちゃんとした事言うよ」

 いつもちゃんとした事を言っていない自覚はあるらしい。

「だが、あの程度ワタシだって……」

「でもあなたが取ろうとした方法って、ただの一時しのぎで解決には繋がらないでしょ? だからってわたしの取った方法なら解決するって訳でもないけど、あなたがしようとした事よりはマシ。自分よりも上手い方法で対処できる人がいるなら、その人に任せたほうがいいでしょ?」

 彼女の言い分は一理ある。

「スティル、その……あ、あり、が……とう」

「どういたしまして。一人で頑張るのもいいけど、人に頼ってもいいんだよ。あなたはそういうのすっごい苦手そうだけど」

「……善処しよう」

「うん」

「……」

 …………。

「まだ何か用事があるのか?」

「え? 無いよ? 今からあいつら殺してもいいなら殺しに行くけど。一緒に行く?」

 なるほど。暇なのか。

「遠慮する。やる事がないならここにいてもいいが、ワタシの邪魔はするなよ」

「は~い」

 仕事なのでさっきの奴らの治療——思考回路を弄る事ができないのは残念だ——をする為の準備を始めたが、その間意外にも彼女は大人しくしていた。

 暫くすると汚れを落とした先程の蛮族共がやってきた。一人を診ている間に他の奴らには床の掃除をさせて、その時もスティルは大人しくしていた。時折馬鹿共はスティルに「頑張ってね」とでも言ってほしそうに話し掛けていたが、彼女は笑顔を張り付けて相槌だけを返していた。愚か者共は気付いていないようだったが、私はスティルの怒りの感情を俄かに感じ、いつ殺されるのかと気が気ではなかった。

「スティル様、床の掃除が終わりました!」

「うん。見れば分かるよ」

「どうですか、この床! 泥で汚れる前よりも綺麗にしてやりましたよ! スティル様の綺麗さには敵いませんがね!」

「汚れる前がどんなだったか知らないからな~」

 今度は「お疲れ様」とか「頑張ったね」とかいう言葉を引き出そうとしている。しかしスティルはのらりくらりと躱している。それどころか、

「あのさ、ここってロクドトの仕事部屋、なんだよね? だったらわたしじゃなくて、ロクドトに言う事があるんじゃない?」

 なんて言い出した。

「ろ、ロクドトに、ですか……?」

「あ、そ、そうですよね」

「ロクドト、床を綺麗にしてやったぜ」

「感謝しろよなぁ」

「綺麗にしすぎたからって転ぶなよ」

「そうじゃなくて」

 スティルが一段声を落とした。すると愚か者共はびくりと身体を強張らせて口を噤んだ。

「床を汚してごめんなさい、でしょ? 床が汚れたのはあなた達が泥まみれの汚い格好をしてたせいでしょ? なのに何でそんなに偉そうな口が利けるの?」

 スティルは立ち上がり、私の肩に手を置き、耳元でこう囁いた。

「ちょっと魔力ちょうだい」

「? ああ」

 今から彼女が何をする気なのか知らないが、それをするには魔力が足りないのだろうか。五人一気に殺す事はしないでくれと心の中で願いつつ、肩に置かれた手に己の手を重ねて魔力を流していく。

「あなた達は、わたしにも、この子にも、失礼な事をした。本当は殺してやりたい所だけど、この子が嫌がってるからね。殺されない事もこの子に感謝してね」

 スティルは空いているもう片方の手を前に出し、何事か呟いた。すると私と彼女の魔力が混ざり合ってできているのであろう魔力の手が五つ現れ、それぞれの手が五人の頭を鷲掴んだ。魔力の手に掴まれた五人は気を失ったように次々と倒れだし、そうかと思えばすっと立ち上がる。その顔はどこか虚ろだ。

「「「「「ロクドト様、申し訳ございませんでした」」」」」

 示し合わせた様に、五人同時に言った。

「はい、よくできました~! もうすぐお昼だから、あなた達はその準備でも手伝ってきてね」

「「「「「はい、スティル様」」」」」

 五人同時に踵を返し、医務室を出ていった。

「……キミは、何をしたのだ?」

「思考回路を弄ったんだよ。そうしたかったんだよね? あなたの魔力も混ぜてやったから、あの子達はもうあなたに失礼な事はしないよ」

「……」

「ほら、言う事があるんじゃない?」

「あ……ありが、とう……」

 言いたい事は山ほどあったが、今この場で反論できる気がしなかった。

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