◇ ◇ ◇


 僕らは該当の人物が働いているというビルに揃って赴いた。オフィス街の中でも一等地にあり、ここで働く人間は収入も高いエリートなのだろう。

 入り口が見える向かいの路地で待ち伏せする。営業か昼休憩か、しばらくしない内に件の男性がビルから出てきた。爽やかな営業マンという風貌で、いかにも女性に人気がありそうだ。

「こんにちは。お時間よろしいですか?」

 さりげなく男性に近寄った瀬戸は、有無を言わせず言葉を続ける。

「自分はこういう者でして。古本の買取を行なっております。お宅に眠っている本を是非買い取らせていただきたく……」

「はあ……」

 職業病か、条件反射で名刺を受け取った左手薬指に指輪をはめている。まだ若いので新婚だろう。やはりマリンの持ち主の恋は叶わなかったのだ、と事実を突きつけられ、またもや胸が痛んだ。

「やっと……やっと見つけた」

 男性を間近にしたマリンの身体は歓喜に打ち震えている。これで故人の未練を晴らせる。僕の子守りもこれで仕舞いかな。安堵と一抹の寂しさを感じていると。

「あの子の仇! やっと取れるわ!」

 いつの間にか、マリンの手にはナイフが握られていた。恋に破れ、泡になる定めの人魚姫を救うべく、姉達が魔女から手に入れたもの。王子の心臓を貫き、その血を足に塗れば人魚に戻れると伝えたが、人魚姫が愛しい人を殺すことはなかった。だけど、マリンは違う。本気で殺す気だ。

 ナイフの切先が男性に向けられ、狙いが定まる。彼は突然持ち出された凶器に目を見開いて固まっていた。止める暇もない。僕は目を瞑って、直後に訪れる惨劇から目を背けようとした。

 しかし、幾ら待っても悲鳴の一つも聞こえてこない。恐る恐る、目を開く。眼前に広がる光景に目を瞠った。

「離してよッ」

 彼の心臓に届く前に、瀬戸がナイフの刀身を握りしめて止めていた。マリンが暴れる度に刃が指に食い込み、血がぱたぱたと滴り落ちる。男はすっかり腰を抜かしていた。

「復讐は結構ですが、それはきみの領分じゃないでしょう」

 瀬戸の物言いはどこまでも冷静だ。それが却ってマリンの激情に火をつけた。

「あんたに何が解るっていうの!」

「解りませんよきみの事情なんて。でも、一つだけ確かなことは知っています。きみは『人魚姫』の忌書だ。人魚が王子を殺してしまっては物語が破綻する。きみが大切にしたい彼女との思い出を無碍にする気ですか?」

「う……うぅ……」

 嗚咽を漏らしたマリンは、耐え切れずわっと泣き出した。マリンの姿が徐々に薄くなり、空気に溶けて消えていく。人魚姫の絵本が床に落ちた。それを傷ついていない手で拾い上げ、瀬戸は言う。

「この子は僕が預かります。落ち着かないとお嬢さんのお店に置いておけませんから」

「ごめん……」

 僕は項垂れた。ゆかりさんにマリンのことを任されたくせいに、結局最後まで瀬戸に頼りっぱなしだった。自分が情けなくて仕方ない。

「きみのせいじゃないでしょ。平気ですよ、これくらい痛みのうちに入らないし」

 血塗れの手を振りながら瀬戸は寂しそうに微笑んだ。痩せ我慢には見えない。彼は痛覚が麻痺しているんだろうか。

「復讐なんて虚しいだけですよ。故人のため、なんて言いつつも結局はただの自己満足ですから」

 瀬戸の物言いはどこか実感が籠っているようだった。彼は復讐を考えたことがあるのだろうか。訊ねるのは憚られた。

 突然の事態に腰を抜かしていた男性は我に返ったのか、泡を食って逃げ出す。このままここにいたら通報されるだろう。怪我をしていない瀬戸の手が僕の背中を押した。

「さ、帰りましょうか」

 促す優しい声音に、小さく頷いた。

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