◇ ◇ ◇


「アルツハイマーだな」

 男性を見送ると、ゆかりさんが断言した。瀬戸も頷く。

「そうですね。さっきのお爺さん、ご自分がまだ若いと思い込んでました。いや、若かった頃に精神が巻き戻ってるんでしょう。その頃の記憶を頼りに昔の町や家を探してたんじゃないですかね」

 アルツハイマーの人は自分の現状を正しく認識できず、見覚えのある景色を求めて徘徊すると耳にしたことがある。自宅にいるにも関わらず家に帰ろうとしたり、退職しているのに仕事に行こうとしたり。

 先の老人が語った浦島太郎と同じ状況とは、脳が周囲の風景を正しく認識できなくなり、見知らぬ世界に取り残されたと錯覚していたのだろう。彼が感じた心細さは到底計り知れない。徘徊の最中、瀬戸が持ち込んだ本に呼ばれてゑにし堂に迷い込んだ……。

「さっきの子は、事故で記憶喪失になった男性の遺品です。事故の後遺症と記憶障害でノイローゼになってしまったみたいで。亡くなる前に周囲に自分のことを浦島太郎みたいだ、なんて漏らしてたみたいですよ」

 そんな話を嬉々としてゆかりさんに聞かせようとしていたのか、この男は。あまりにも趣味が悪すぎる。

「記憶喪失と認知症の浦島太郎か。あの調子だと、ここに立ち寄ったこともすっかり忘れていそうだがな。そうなると、本も盗んだと思われるか?」

「また売りに出されちゃいますかね。まー、市場に回っても自分がもう一度買い取るので問題ないですよ」

 一度手放しておきながらまた買い取るとは、どうして瀬戸はそこまで忌書の売買に情熱を傾けるのだろう。僕の訝しげな視線に気づいたのか、瀬戸はこちらを振り向いてにこりと微笑んだ。笑みにはどこか寂しげな翳りが見えた。

「何でそこまでして忌書に拘るかって顔をしてますね。自分は形見を探しているんです」

 僕は息を呑んだ。毛嫌いしていた瀬戸にそんな事情があったなんて。少しは態度を改めないといけない……かもしれない。

「唯一の肉親の、唯一の形見の忌書。それを探し求めて古書を買い漁る謎の男……なーんて、それっぽい理由ワケだと思いません?」

「え?」

「あまり揶揄うな、瀬戸」

 ゆかりさんは肩を震わせている。笑っているんだ。そこで僕は自分が騙されたことに気づいた。

「いやー、バイトくんは素直で面白いですねー!」

 面白いものか! 嘘つきなコイツはピノッキオのように鼻がどんどん伸びるか、狼少年のように誰にも相手にされずに悲惨な目に遭えばいいんだ。暖簾に腕押し、馬耳東風。僕の怒りは飄々と笑う瀬戸には届かない。

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