第四話 謝霊と張慧明、ルネー・オベールを訪れること

 翌朝、私は謝霊とともにフランス租界に足を踏み入れた。クルグロフ宝石店の前を通ってずっと歩いていくと、景色は次第に西洋風の住宅街へと姿を変える。道を曲がり、謝伸が指定した住所まで歩いていくと、そこには一際豪華な門を構えた邸宅が鎮座していた。

「これはまた豪勢な住まいですね」

 さすがに呆気に取られているらしく、謝霊が独り言のように呟く。私は頷くと、

「さすがはフランスの大使ですね」

 と相槌を打った。

「それはそうと、今日は来てくれてありがとうございます。助手がいれば多少あいつを無視できますから助かります」

 謝霊が話を変え、人の良い笑顔を私に向ける。いつものように笑っているだけだったが、眼鏡の奥の双眸が少し安堵に緩んでいるように見えた。謝伸を無視できるというのは二の次なのではないか——そうは思ったものの、私は

「何かお役に立てるならと思っただけですよ」

 と返すのみにとどめておいた。


 門の向こうは広大な空き地になっていて、中央には噴水が鎮座して水しぶきを上げている。玄関はさらにその向こう側に見えていたが、この距離で一体どうやって来客を察知するのかまるで見当もつかない。門には呼び鈴もなく、玄関に使用人が控えている様子もなく、かといって勝手に門を開けて入れるわけでは当然なく、私たちはしばらく黙り込んだまま誰かが出てくるのを待った。

 数分が経ってようやく玄関から出てきたのは白人の下女だった。彼女の後ろには見覚えのある杖を携えた背の高い男――謝伸がいる。二人は門のところまでまっすぐ歩いてくると、下女が門の鍵を開けて私たちに入るように促した。

「謝霊、よく来たな。張先生も来てくれたとはありがたい」

 謝伸は私たちを迎えると下女になにやら話しかけた。下女が「ウィ」と答えたことや音の様子からフランス語だろうとは思ったものの、何を言っているかはさっぱり聞き取れない。

 私がきょとんとしているのを見て取ったのか、謝伸が「なんでもありませんよ」と私に笑いかけた。

「お二人が予定していた客人だと伝えただけです」

 私はそうですかと頷きながら、心の内では謝伸の笑顔はいうなれば自負そのものだと独り言ちた。謝霊のそれも自信の表れだと感じることは多いが、謝伸の方はどうもいけ好かない。

 下女と謝伸を先頭に歩き出すと、謝霊が寄ってきて私の耳元でささやいた

「謝伸は租界に住んでいる全ての人間の母国語の読み書きができるんです。いわゆる天才というやつなんですよ、認めるのは癪ですが」

「ええ⁉ でも、それってすごいじゃないですか」

 私が純粋に驚いていると、前を歩く謝伸が急に割り込んできた。

「阿霊がそう言ってくれるなんて光栄だね。そうだ、張先生、自慢というわけじゃないですが、私はこれでも殿試に合格したことがあるんですよ。惜しくも三番目でしたが」

「それでも大したものだと思いますよ。そこに至るまでに何人が落第したかと思うと、三番目でも十分な栄誉でしょう」

 私が感心している横で、謝霊が早口に耳打ちする。

「途中で腹が痛くなったせいで集中できなくて三位だったんですって。ねえ慧明兄、こいつの十八番に乗ってやる必要なんてないんですよ」

「つれないことを言ってくれるな、小弟。人生で一番緊張したんだぞ? 皇帝陛下の前で粗相でもしてみろ、どうなるか知れたものではない」

「……そのまま漏らしていればその高い鼻っ柱が伸びきる前に折れて、少しはマシな人間になったんじゃないですかね」

「まあまあ、そこまで言わなくても」

 暗い目で毒づく謝霊をなだめると、謝霊はフンと鼻を鳴らして腕を組んだ。そうする間にも、下女が玄関の呼び鈴を鳴らして仰々しい扉を開けさせる。私たちは扉を開けた下女に恭しく迎えられ、ここまで案内してくれた下女について応接間に入った。

「オベールを呼んでくるからここで待っていてくれ、とのことだ」

 去り際の下女の言葉を謝伸が通訳する。私たちは色とりどりの花の刺繍が施された長椅子に(サー・モリソンのものよりも柔らかくて一瞬面食らったが)兄弟の間に私が挟まる形で一列に座った。どうして主役の謝霊でなく助手の私が真ん中なのかと謝霊に聞くと、謝伸の隣に座るのは嫌だときっぱり言われてしまった。

 入れ替わりにやって来た別の下女が出してくれた紅茶と菓子を前にしても、弟をからかうことと自慢話に余念がない謝伸とそんな兄に常に苛ついている謝霊に挟まれていてはとても心が休まらない。私は二人が黙っているうちにさっさと砂糖を紅茶に放り込み、ろくに混ざらないうちに茶杯の半分を一気に流し込んだ。口の中を火傷したような気もするが、二人の口喧嘩がいつ始まるとも知れない中では火傷のひとつやふたつなんて可愛いものだ。

 ぎこちない時間だけが過ぎる中、オベールその人は一向に姿を現さない。謝伸は何度も懐中時計と玄関を交互に見ていたが、やがて立ち上がると前を通りすがった下女を捕まえて何やら尋ね始めた。

「そういえば、この家には男の使用人がいないんでしょうか」

 二人きりになった途端に謝霊の空気が緩んだ――私はその隙にこの家に来てから気になっていたことを謝霊に話すことにした。すると謝霊は狙ったとおり、先ほどまでの険悪さはどこへやら、打って変わって素直な様子で「さあ」と答えて首をかしげた。

「たしかに先ほどから女性しか見かけていませんね。もっとも、私たちがまだ会っていないだけかもしれませんが」

「本当に女性しか雇われていないという可能性は?」

「あるかもしれません。でも一人か二人はどこかにいると思いますよ」

 謝霊は答えながら首を伸ばし、玄関の様子を窺っている。ちょうど謝伸と話し終わった下女が去っていくところだった——謝伸は応接間に戻ってくると、

「オベールが来たくないと言っているらしい」

 と言った。

「どうすればいいか確認しに行かせたが、もしかすると我々が彼の部屋まで行かなければならないかもしれないな」

「まあ、私は仕事ができるならどこだって構いませんが」

 謝霊が答え、悠々と紅茶に口をつける。

「そんなことより、小妃の頭骨はちゃんととってあるんでしょうね?」

「もちろんだ。ことを解決してもらうためなら何でもすると言っていたし、それを反故にするほど愚かではない」

 俄然目を鋭く光らせた弟の問いに謝伸は勢いよく答えたが、少し間を置いたのちに「待っていろ」と言い置いて急に応接間を出てしまった。

 次に謝伸が戻ってきたとき、彼は最初の下女と連れ立っていた。謝伸は絵に描いたような困り眉で私たちを見回した。

「オベールは気分が優れなくて寝室から出たくないらしい。ただ我々には会ってくれるそうだ」

 謝伸はそう告げると、下女を指して彼女が案内してくれると言った。



 その寝室は二階にあり、庭に面した小さなバルコニーまでついていた。しかし部屋の主たるルネー・オベールはというと、白い寝巻に身を包んだままいやに広くて膨れた寝台に横たわり、景色を楽しむどころではないらしい。下女に手伝われて上半身だけを起こすと、オベールはようやく青白い顔を私たちに向けた。

「ムッシュー・シエ。あなたが言っていた専門家というのは……」

「こちらに。彼は謝霊、こういった怪奇現象の扱いに長けている」

 謝伸に紹介され、謝霊は軽く一礼して一歩進み出ると、

「どうも、オベールさん。私は謝霊、招魂探偵の謝霊です。早速ですが、何があったかお聞かせ願えますか?」

 と言った。

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