第八話 謝霊が自身の推察を語ること、また逼安を訪ねて再び虹口に行くこと

「ああそう、その後は范救の死体をもう一度見せてもらいました」

 未だ呆気に取られている私を差し置いて、謝霊は何事もなかったかのように話を続ける。

「覚えていますか? 招魂に応じた范救が『言えない、言わないと約束した』と何度も答えたのを。そのとき私は、彼が交わした約束が呪術の類であるかもしれないと言いましたね」

 私は頷いた――たしか彼が「言えない、言わないと約束した」と答えた質問から推測するに、范救と生計を共にしていた同居人がこの約束の相手なのではないかという話だった。

「これまでの調査から言ってその相手は逼安です。人を縛り付ける約束――あるいは誓いというと、神仏の前で誓いを立てる他に当人たちの血を交えるものがあります。二人がどこかの廟で誓っていてもおかしくはないですが、これから宝石店に押し入ろうという人間が悪事の黙秘を神に誓うというのはやはり違和感がある。だから互いの血でもって誓い合ったのではないかと思ったのですよ。そしてこの場合、血を流すために手のひらを切ることが多い」

「だから范救の手に切り傷が残っているかもしれない、と?」

 私ははたと思い当たり、謝霊に尋ねた。謝霊は煙管を吹かしながら頷くと、

「探偵の助手が板についてきましたね」

 と満足げに笑う。

「その通りですよ、慧明兄。そして本当にあったのです、手のひらのしわに沿うように真一文字に付けられた刀傷が」

 謝霊はそう言いながら手のひらをこちらに突き出し、横向きのしわを反対の指でなぞってみせた。

「おそらく逼安の手のひらにも同じ刀で付けた切り傷があるはずです。それに范救の手のひらには刀傷以外にも細かな切り傷がいくつかあった――陳列窓を内に向けて割ったのですから、盗んだ品々には大量の硝子片が付着していたはずです。逼安も何か所か手を切っていてもおかしくない。犯人が払いきれなかった細かな硝子の破片が、盗品が入っていた袋の内側や付着した泥に混ざっているのも確認しました。あとはクルグロヴァ嬢の話に出てきた翡翠の指輪があの四合院から見つかれば、二人が結託して盗みを働いたことは立証できます」

 謝霊はふうと煙を吐くと、椅子の背にもたれかかって一息ついた。

「それから、招魂の際の答えからもうひとつ考えられることがあります。范救は黙秘の約束を交わした相手と盗みを働き、それは同居人の逼安だったわけですが、二人が『互いの悪事について語らない』ことを誓ったというのをふまえると范救を殺したのも逼安ということになります」

 その言葉に、私は思わず身を乗り出した——薄々考えていたことではあったのだが、改めて言われるとどきりとしてしまう。

「范救の体にいくつも痣があったのは覚えていますね。あのときは上半身しか見ませんでしたが、下半身も調べたら両の膝に擦り傷がありました。塞がりきっていない上に水でふやけてひどい状態でしたが、これは裏を返せば彼が死ぬ直前に両膝を擦り剥くようなことが起きたということ。ただ川岸で殴り合った果てに呉淞江に突き落とされただけでは、痣は作れても膝の擦り傷までは作りにくいと思いませんか? 二人の体格をとってみても、范救が逼安に腕っぷしで負けるとは考えにくいですし」

 范救も逼安も決して恰幅が良いわけではなかったが、たしかに逼安の方が目に見えて貧相だ。あの猫背から考えても、どちらかというと逼安の方が殴り飛ばされてしまいそうだ。

「でも、范救は川では死んでいないと……」

 私がそもそもの起こりとなった疑惑を持ち出すと、謝霊は「ええ」と頷いた。

「そこでこの擦り傷です。私が思うに、かめか何かに張られた水に顔を押し付けられたのではないでしょうか。水がめなら顔を浸けたときに膝立ちになりますし、もがいたせいで両膝が擦り剥けたんだとすれば合点が行きます……どれだけ非力でも、上から全力で押さえつければ簡単に溺死させられますからね」

「ということは、逼安が私たちを四合院に入れようとしなかったのは単に風邪のせいではなく、窃盗や殺人の痕跡が見つかるのを嫌がってのことだったんですか」

 私が言うと、謝霊は煙をくゆらせながら眼鏡の奥の目を細めた。

「李舵の話ではレスター警部も頑なに断られて中を見ることができなかったようです。まったく、范救も逼安も、拒めば拒むほど怪しまれるというのに、どうして二人して似た過ちを犯しますかね」



***



 翌日はサー・モリソンが出かける都合で、昼からは商会そのものが休業になっていた。私は楊紫香が作ってくれた昼食を急いでかき込むと、飛び出すように謝霊の事務所に向かった。そこで謝霊と落ち合って、虹口の逼安の家を訪ねることになっていたのだ――今度こそはあの古ぼけた四合院に入ってやると謝霊は意気込んでいたし、私もその気でいた。全てを繋ぐ手がかりがあの中にあることは今や明白だったからだ。

 しかし、誰かと出かけるのがこんなに楽しく感じられたのはいつぶりだろうか――モリソン商会の先代会長だったサー・エドワードがまだ存命で私も子どもだった頃、寄宿学校の休暇を利用して祖国から息子がやって来るというので私に案内役が回ってきたとき以来のような気がする。サー・エドワードからお駄賃をもらい、サー・レイフを連れて租界を好きに散策していいと言われた私は楊紫香に叱られるのも構わず昼食を丸飲みし、口元もろくに拭かずに波止場へと飛び出したのだった。

 もちろん、謝霊といるとそんな他愛もない外出が待っているわけではない。むしろその逆で、彼との外出は物騒かつ気味の悪い事案にあふれている。それでもこの時は、謝霊の勘から始まった調査がどこに着地するのかこの目で見たい気持ちが勝っていた。

 私たちは再び古ぼけた四合院にやって来た――ところが、工部警察の制服を着た後ろ姿がふたつ、私たちより先に門の前に立っているではないか。

 私たちが近寄ると、二人は振り向いて目を丸くした。私はあっと声を上げ、謝霊はにこりと笑みを浮かべて二人に会釈する。

「これはこれは、レスター警部に李舵じゃないですか」

 李舵はぱっと笑顔を見せてぺこりと礼を返したが、レスター警部は老犬のような顔にわずかな驚きを浮かべたまま声を上げた。

「謝霊! それに張君も」

「ご苦労様です、レスター警部」

 私が会釈を返すとレスター警部はひらりと手を振り、私たちを見比べながら尋ねた。

「君たちもここに来たということは、まだ見つかっていない盗品を探しているのかね」

「ええ。それに范救が死んだ場所もこの中なのではないかと思いまして」

 謝霊が答えると李舵が「えっ」と声を上げ、レスター警部は片眉を限界まで持ち上げた。

「どうやってそう考えたんですか⁉︎ 謝霊先——」

 警部が止める前に李舵が食らいつき、わっと大声を出す。しかし彼が最後まで言い終わる前に、四合院の中から悲鳴が上がった。

 私たちは一様に肩を震わせて門を振り返った。すると何かがぶつかったように門がバンと音を立て、続いて男の呻き声がする。次の瞬間、弾かれたように両脇に退いた私たちの眼前で門が開け放たれ、中から逼安がよろめきながら転げ出てきた。

「違う!」

 驚いて固まる私たちの前を駆け抜けながら——おそらく目に留まってすらいないのだろうが——逼安が一言叫ぶ。一体何が違うのかと訝しむ私たちの前で逼安は「違う」「僕じゃない」「僕はやってない」と何度も口走り、不意に足を止めたかと思うと呻きながら頭を抱えてこちらを振り返った。

 逼安の目が見開かれ、わななく唇からヒッと悲鳴が漏れる。その目は一人落ち着きを保っている謝霊をまっすぐ捉えていた。

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