心臓のトピアリー

東島和希🍼🎀

一章 出立

1 

「ハロウ」

「こんにちは」

 つばの長いハットを深く被り、腹のぜい肉をシルク生地の服にしまい込んだ、いかにも金持ち風の婦人が、井ノ道探偵事務所のドアを開けた。

「どうぞ、おかけになってください」

 井ノ道直次は、二十八歳にしては若く見える童顔に営業スマイルを浮かべながら、着席を促す。いつぶりの客だろう。腹の底では、ケラケラ高笑いをしていた。

 婦人は、片足を引きずりながら事務所を進むと、椅子に腰かける。婦人の体重に耐え切れなくなった椅子が悲痛な叫び声を上げた。

「なんだか窮屈ねえ」

 あなたがデカいんですよ。そんな言葉が喉元まで出かかるも、スピリタスの空き瓶に人差し指をコツコツ打ちつける無意味な動作によって、なんとか飲み下す。ああ、いけない。貴重な客を、ここで逃す訳にはいかないのだ。

「一人でやっているの?」

 人でも食ってきたかのように真っ赤な唇がにゅうっと歪んだ。

「ええ、そうです」

 強引に浮かべる笑顔に表情筋が悲鳴を上げて、ピクピク痙攣していた。

「コーヒー淹れてきますね」

「いいえ、結構。コピルアック以外のコウフィイは、口に合わないから」

 『コウフィイ』というわざとらしく流暢な発音が、狭い事務所中に響いた。

 すると婦人は、とつぜん指を上に向けて、

「あの汚らしいものは、なに?」

 と聞いた。中指をおっ立てられたのか。いや、違う。どうやら婦人は、人差し指で蛍光灯に巻きつけられた白い紐を指しているらしかった。

「蛍光灯のスイッチですよ。眩しいですか?」

「随分と見た目に気を遣った事務所だこと」

「はあ。ありがとうございます」 

 婦人は、何事もなかったかのようにグロテスクな鰐皮の鞄を探ると、スマホを取り出した。見た目に似合わず、可愛らしいスマホケースだった。

「これ、あなた?」

 婦人のスマホ画面には、三流の撮影業者に撮ってもらった陳腐なホームページのプロフィール写真が映っていた。ワックスで固めた髪。やけに白い肌。まるで真珠にワカメを乗せたような見た目である。

「たしかに。僕ですね」

「あ、そう。それでね……」

 なにやら婦人はスマホを操作しはじめる。よかった。写真の真下に掲載された『大手探偵事務所に六年間勤務後、独立。血液型はAB型Rhマイナス。趣味は、死んだように寝ること』なんていうクソダサい自己紹介文を読み上げられずに済んだ。

「このカネノナルキが欲しいの」

 婦人は、ウインナーのように太い人差し指で、井ノ道探偵事務所の内装写真を指した。

「はあ。その、どれでしょう。カネノナルキっていうのは」

「え、聞こえなかったかしら? 観葉植物の名前を言ったんだけど」

 なるほど、内装写真をよく見ると、読んでもいない小難しそうな本がびっしり並んだ本棚の上に、観葉植物の鉢がぽつんと置かれていた。

「写真の観葉植物ですか?」

「そうよ」

「はあ、分りました。ちょっと取ってきますね」

 たしか探偵事務所の元同僚から独立を記念して貰ったものだった気がする。本棚の上には不潔な埃しか見当たらない。はて、どこにしまったか。

 あ、思い出した。トイレだ。井ノ道は安楽椅子を立つと、山積みの書類を避けながらトイレへ向かった。

 観葉植物の鉢は、たしかにトイレの床の上に存在していた。太い枝の先に丸みを帯びた厚みのある葉がビッシリと生えている。長らくアンモニアの臭気を吸い込んでいたせいだろうか。葉が若干、黄ばんでいる。日常の風景に溶け込んで、気にも留めていなかった。

 婦人はこんなモノのために、わざわざここを訪れたのか? まあ、客の事情なんてどうだっていい。重要なのは、この鉢がどれほどの金に化けるか。その一点のみである。

「ベランダにありました。こまめに水遣りをしていたので、葉が活き活きとしています」

 山積みの書類が死角を作り出してくれたおかげで、安心して噓を吐けた。

 婦人は奴隷商人のような目つきで観葉植物を眺めると、フウと太い息を漏らす。

「美しく調和のとれた成長。世にも珍しい黄金の葉。わたしの目に間違いはない。相当高い評価を得られるはずよ」

 オシッコによる発色です。そんなこと、口が裂けても言えなかった。

「じゃあ、これと交換でどうかしら」

 金の相談をする前に、婦人は片足を引きずりながら事務所の外へ出て行ってしまった。一体なにを考えているんだ? 途方に暮れていると、ピンク色の大きな檻を抱えて戻ってきた。

 獣の匂い。ヤバい。全身にザーッと鳥肌が立つ。

「こら、ティアラ。勝手に外へ出るな!」

 婦人が檻を開けた瞬間、中から灰色の毛を纏った物体が、四本の足をおっ立てゆっくり這い出てきた。

 クソ。胃がムカついて、どろどろに溶解したカップヌードルの麺を婦人の顔面に噴射しそうになる。井ノ道はとっさに口を手でふさいで、大惨事を未然に防いだ。

「にゃーん、にゃーん。ほら、挨拶は? にゃーん、にゃーん」

 小学6年生のガキだった頃、馬ほどデカいドーベルマンに追いかけ回されて、それ以降、俺は反吐が出るほど動物が嫌いになった。

「ペルシャ猫のティアラちゃんでーす」

 ああ、名前なんて、どうだっていい。檻の中に閉じ込めるか、窓から放り投げるか、どちらかにしてくれないか。

「アハハハ、おかしな人ねえ。アハハハ」

 意に反して上半身がガクガク震えている。どうやら、失禁したらしい。

「動物が非常に苦手なんです。『ティアラちゃん』を一旦、檻に戻してくれませんか?」

「あら、そうなの。残念ねえ」

 婦人は乱雑に『ティアラちゃん』を檻へ放り投げる。すると、なにやら太い腕を檻の中に突っ込み、グニグニとかき回し始めた。『ティアラちゃん』に腕を引っ掻かれるたび「あん」と腹のぜい肉を揺らす婦人の姿に笑いを堪えながら、真剣な表情で婦人の奮闘を見守った。

「じゃあ、こっちはどうかしら」 

 檻から産まれたのは、『ティアラちゃん』の糞にまみれた鳩時計だった。

「時計職人の友人に特注で作ってもらったの。材料はすべてドイツ製。今は、どんなモノでも大量生産が可能な時代でしょ?。希少価値は極めて高いわ」

「はあ。あの、可能であれば、金銭という形で交換していただきたいのですが」

「え、なんて?」

 金持ちを敵に回すと碌なことがない。仕方なく井ノ道は鳩時計を受け取った。

 ダリの絵画を思わせる歪んだ時計盤。その周囲には、広葉をあしらった彫刻。大樹のようなシルエットの上部には、白い両開き扉が設置されていた。

 何事もないかのように手渡してきたので、念のため、時計に付着した茶色の物体に鼻を近づけてみた。間違いなく『ティアラちゃん』の糞だった。

「バアイ」

 婦人はカネノナルキの鉢を奪い取ると、面倒くさそうに檻を抱えて、片足を引きずりながら事務所の出口へ向かった。背中のシルク生地の皺が、なんだか老人の顔のように見えてきて、咄嗟に、

「それを、どこに飾るんです?」

 とたずねた。

「フィレ肉の上かしら」

「はい?」

「バカねえ。見るんじゃなくて、食べるのよ」

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