第14話 離別

 その日は分厚い曇天で、今にも落ちて町を潰してしまいそうだった。

 初見はいつもより早く起床し、身支度をして所長室の自分の席に座っていた。予感、というよりも予想。これから訪ねてくるであろう人物を迎えるために。

 七時ぴったりに事務所の玄関が開く音が聞こえる。足音はゆったりとした足取りで、こちらに近づいてくる。そしてドアを叩くノックが、所長室に響いた。


「どうぞ」


 ノブが回り、足音の主が入ってきた。


「おはよう草間。いえ、退院おめでとうが先ね」


 入ってきたのは草間だった。退院してから自宅に戻らず来たのだろう。肩には大きなバッグが掛かっている。


「おはようございます。所長、今日は……」

「分かってる。その手に持ってる物を受け取りましょうか」


 初見には、なぜ草間が来たか分かっている。香坂や阿久津がいない早い時間帯。二人がいると面倒になると考えれば、右手に持っている封筒の中身は容易く予想がついた。


 草間は驚いた様子を微塵も出さず、初見の机に近付いて、持っていた封筒を初見の目の前に置いた。そこには退職届と書かれている。


「本当に良いのね」

「はい」


 短く答える草間の声色には、頑なな意思が伺えた。初見は少しでも説得しようと思っていたが、諦めざるを得なかった。


「分かった。本日付けで処理しとくわ。これからどうするの?」

「近いうちに町を出ます。その先の事は……まだ決めていません」

「そう。頑張ってね」

「はい。お世話になりました」


 草間は踵を返し、事務所を出て行く。

 残った初見は、じっと草間が置いていった退職届を見つめていた。題字に僅かな乱れが見える。怒りによるものなのか。それとも。


「……いえ、都合が良過ぎるわね」


 浮かんだ甘い考えを即否定した。きっと草間はどんなに説得したって帰ってこない。今、目を向けるべきは他にあった。


 まずは退職届を手に取り、引き出しの奥深くに隠した。机には絶対に手を触れないよう言ってあるので、見つけられる心配はない。

 次に、この事実をいつ二人に伝えるかだ。香坂達は草間の退院日を知らない。お見舞いにもいかないようにと、きつく言ってもある。


(せめて草間が町を出るまで言わない方がいいか)


 阿久津はともかく、直情型の香坂に知られれば何をしでかすか分からない。もしかしたら、草間を拉致監禁なんて事もやりかねない。そうなると、互いに意固地になって、余計こじれるだけだ。初見は今日の事を、しばらく自分の胸の内にしまう事を決めた。

 事が明るみに出れば、初見は二人、特に香坂から恨まれるだろう。しかし、元は自分の招いた事。どんな事だって、受け入れる覚悟があった。


 時が過ぎて八時四五分。阿久津はまだ起きてこない。あの一件以来、ずっと寝室に閉じこもったままだ。それでも大分落ち着きを取り戻して、香坂とドア越しに一言二言会話を交わすぐらいにはなった。きっと今日も出てはこないだろうが。


 玄関の開く音が僅かに聞こえた。どうやら香坂が出勤してきたようだ。しかし初見は違和感を覚えた。香坂にしては開け方が静か過ぎる。挨拶がないのも気になった。

 足音は一直線に所長室へ向かってきた。軽いノックが二回鳴る。

 やはりおかしい。香坂はノックなんてしない。いつも前触れなしに我が物顔で開け放つはずなのに。まるで草間のようだった。


(まさか、いえそんなはずが)

「……どうぞ」


 僅かな期待を胸に、初見は入室を許可する。ゆっくりと開くドアから現れたのは、やはり香坂だった。初見は心の中で落胆しながらも、おくびにも出さずに笑って話しかけた。


「どうしたの? 今日はやけにしおらしいじゃない」

「えー、いつも通りですよー。ちょっと今日は、はーさんに見てもらいたいものがありましてー」


 初見は自分の背筋が凍りつくのを感じた。いつも通りの間延びした香坂の口調。表情もにこやかであるはずなのに、目の奥が笑っていない。

 香坂は自分のバッグから、ポータブルプレイヤーを取り出し、開いて初見の机に置いた。さらに香坂はリモコンを取り出してボタンを押す。ピッと短い音が鳴り、映像が流れ始めた。


『分かった。本日付けで処理しとくわ。これからどうするの?』

『近いうちに町を出ます。その先の事は……まだ決めていません』

『そう。頑張ってね』

『はい。お世話になりました』


 初見の顔が青ざめる。映し出された映像は、さっきのやりとりの一部始終を収めていた。


(やられた!)


 初見は香坂を甘く見過ぎていた。目的のためなら手段を選ばない性格を知っていたはずなのに。香坂はまだ自分を信頼してくれている。そう思っていたおごりが、初見の警戒心を鈍らせていた。


 おそらくカメラが仕掛けられている方角へ目線を向ける。しかしそれらしき物を見つける事は出来なかった。きっと針先よりも小さい、視認出来ないぐらいの穴から撮られたのだろう。


「香坂、あんた……」

「ひどいじゃないですかー、はーさん。くーちゃんが今日退院するなら教えてくれないとー。あはははははははは」


 カラカラと香坂が乾いた笑い声を上げた。相変わらず目だけが笑っていない。香坂は初見を責めているのだ。自分に隠し事をしていた事。そして草間を引き止めず、簡単に手放してしまった事に。

 何の前触れも無しに笑いがぴたりと止まった。香坂の表情は能面が張り付いているように無表情で、感情が全く読み取れなかった。


「今日は休ませてもらいます」


 初見に背を向け、香坂は部屋を出ていこうとした。


「香坂!」


 このまま行かせては草間の身が危ない。初見は香坂に右手を向け、力を吸い取って一時的に拘束しようとした。

 だがその時、香坂は初見に振り返った。先ほどとは全く違う香坂の表情を見て、初見は動きを止めた。


「お願いします。行かせてください」


 もう無表情ではなかった。初見の心に訴えかけるほどの、強い意志を持った鮮烈な眼差し。これは怒りではない。澄み切った目が、香坂の心境を如実に物語っていた。


「はーさん、ありがとうございます」


 一瞬、何を言われたか初見は分からなかった。香坂に礼を言われる事など、初見は何一つしていない。呆気に取られる初見を見て、香坂は華のように笑った。


「はーさんは損な役回りを引き受けてくれたんですよね。全てのはけ口を自分に向けさせて、これ以上悪くならないように。まあ、内緒にされたのがちょっと頭にきちゃいましたけど、はーさんのやろうとした事が一番無難なのかもしれません。でも」


 香坂は一旦言葉を切って大きく息を吸い込み、あらん限りの声を初見にぶつける。


「このままじゃ絶対にダメです! 誰も望んでなんか無いのに、こんなの悲しいだけじゃないですか!」


 いつの間にか、初見は香坂を止めようとしていた腕を下ろしていた。香坂の本気の想い。それは何よりも強くて、眩しくて。全てを諦めて冷めていた初見の心が、じんわりと暖かくなるのを感じていた。


「はーさん。必ずくーちゃんを連れて帰ってきますから。あーちゃんと二人で待っててください」

「……うん、分かった。待ってる。いってらっしゃい。香坂」

「行ってきます!」


 香坂はパッと破顔すると、どたどたとやかましい足音を立てて走り、事務所を飛び出していった。いつもはとても耳障りなのに、その足音がなぜかとても小気味よく聞こえた。


「頼んだよ、香坂」


 こんなに香坂を頼もしいと感じた事は無かった。多分香坂は、草間と会ってからどうするかなんて考えてないだろう。それでも今の香坂なら何とかしてくれる。漠然とそんな期待が溢れてくるから不思議だった。


 ふと気がつくと、部屋の入り口から阿久津がこちらをうかがっていた。大体の事情は察しているのかもしれない。

 初見は手招きすると、おずおずと阿久津が近寄ってきた。そして初見の袖を小さく掴み、近くに座り込む。初見は空いた手で、阿久津の頭をそっと撫でた。


 初見は窓の外の曇天を見上げる。まるで今の自分達のようだが、きっとすぐに晴れる。そんな確信めいた予感を覚えていた。

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